キスの答え合わせ ⑦

「――あ、そうだ。絢乃ちゃん、名刺もらっといていい? あと、キミ個人の連絡先も教えてもらえると助かるんだけど」


 それぞれのカップがそろそろ空になろうかという頃、悠さんが思い出したようにそんなことを言った。


「ああ、そういえばまだお渡ししてませんでしたね。ちょっとお待ち下さい」


 わたしはデスクに戻るといちばん上の段の抽斗ひきだしから名刺ケースを取り出し、そこから一枚を引き抜いて応接スペースに戻った。


「わたしの連絡先は、裏に書いておきますね。――桐島さん、ボールペン貸して?」


「あ、はい。どうぞ」


 貢がスーツの胸ポケットに挿していたボールペンを貸してくれたので、わたしはそのペンで名刺の裏に携帯番号とメールアドレスを書き込み、悠さんに差し出した。


「――お待たせしました! どうぞ」


「ありがとねー。コイツに何か変わったことあったら、連絡するよ。……あ、じゃあオレの連絡先も教えとこうかな」


 悠さんはお礼を言ってわたしの名刺を受け取ると、今度はご自分のリュックからメモ帳を取り出して、その場で携帯番号とメールアドレスを書いてくれた。


「絢乃ちゃん、会社とかでコイツのこと持て余すようなことがあったら、いつでもオレに連絡してね」


「おい、兄貴っ! だから勝手に俺をダシに使うなって!」


 お兄さまのそんな様子がわたしをナンパしているように見えたらしい貢が、またもや吠えた。……わたしには、弟思いのいいお兄さまにしか見えなかったのだけれど。


「ありがとうございます。そうさせて頂きますね」


「かっ、会長ぉ!?」


 笑顔でメモを受け取ったわたしを見て、今度は目を剥く貢だった。……ホント、忙しい人。

 わたしとお兄さまがくっつくなんて、本気で心配していたのだろうか? そんなことあり得ない。だって、悠さんはわたしよりひと回りも年上だし、そもそも男性ひとなのだから。



   * * * *



「――んじゃ、オレはそろそろ帰るわ。絢乃ちゃん、今日はありがとね」



 コーヒーカップを空にした悠さんは、四時半ごろに腰を上げた。滞在時間はざっと一時間弱、といったところだろうか。でも、なかなかに充実したひと時だったと思う。


「いえいえ。こちらこそ、ありがとうございました」


「うん。あと貢、コーヒーごちそうさん。美味かったぜ」


「そりゃどうも。っつうか、ついでみたいに言うなよ」


 本当についでのようにコーヒーの感想を言ったお兄さまに、貢は条件反射でツッコんでいた。でも、会社に来られたことは嫌がっていなかったのではないだろうか。何だかんだで楽しそうだったもの。


「今日、ここまで来た甲斐あったなー。さてと、オレの出番はここまでだ。あとは二人で何とかしな。――貢、ちゃんと言えるな? 絢乃ちゃんに」


 悠さんはソファーから立ち上がると、「頑張れよ」と言うように貢の肩をポンと叩いた。


「うん。兄貴、……今日は、わざわざ俺のためにありがとな」


「お前のためじゃねえよ。オレは来たの。――ほいじゃ絢乃ちゃん、またな!」


 殊勝に感謝の気持ちを伝えた貢を、悠さんは軽口でサラッとかわした。でもきっと、わたしのためというのはウソだ。


「はい! 今日は本当にありがとうございました!」


 わたしは一階したまで送りたいと言ったのだけれど、悠さんが「ここでいいよ」と言うので、貢と二人で悠さんが会長室を出るまでお見送りすることにした。

 悠さんはきっと、わたしたちを二人きりにするために、〝おジャマ虫〟であるご自分はさっさと退散しようと思ったのだろう。



 * * * *



「――さて、桐島さん。そろそろ話してくれないかな? 貴方が昨日、わたしにキスしたホントの理由を」



 わたしは自分のデスクに戻ると、彼をデスクの前に呼んだ。それも、デスクを挟んだ向こう側、ではなくわたしが座っているOAチェアーのすぐ側に。


「〝魔が差した〟とか〝血迷った〟とかっていう言い訳なら、昨日も聞いた。でも、ホントはそうじゃないでしょ? 今ならちゃんと言えるんじゃない? ごまかしなしの、ホントの理由」


「それは…………」


 彼はたじろぎながらも、まだごまかそうとしていた。でも、わたしはこの時すでに、彼のわたしへの想いを知っていた。悠さんが話して下さったから。


「何を聞いても怒らないし、幻滅もしないし、もちろん貴方を解雇するつもりなんて毛頭ないから。そこは安心して話してくれない?」


 彼が言うのをためらっている理由は、きっとそれだろうな。――そう思い当たったわたしは先手を打った。


「…………兄から、何かお聞きになったんですか?」


「……いいから、話してごらんなさいってば」


 わたしはじれったくなって、彼に続きを促した。貢は多分、勘違いしていたのだ。わたしが自分の兄から、何か余計なことを吹き込まれたのではないか、と。


「わたしは別に、貴方が気にしてるようなことは何も聞かされてない。とにかく余計なことは考えないで、貴方の正直な気持ちを聞かせてほしいの」


 そのまま数秒の沈黙があり、彼はやっとのことで口を開いた。


「――では、お話ししますが……。実は僕、初めてあなたに出会ったあのパーティーの夜から、絢乃さんのことが好きなんです。『幻滅しない』とおっしゃったので、思い切って白状しますけど、絢乃さんが高校生だとは知らずに一目惚れしてしまったんです。その後、加奈子さんからあなたが高校生だと知らされて、成人男性が女子高生を好きになるのって倫理的にどうなのか……とか、ちょっと考えもしましたけど。一度芽生えてしまった『好きだ』という気持ちだけはどうしようもなくて」



 わたしは口を挟まず、彼の告白を聞いていた。

 本当に一流のトップというのは、聞き上手でなければならない。――これもまた、今は亡き父の教えだったのだ。


 そして、彼の話を聞いていて思った。大人の男性が女子高生に恋をしてしまったことを、彼は「倫理的にどうなのか」と理屈で考えたらしい。

 でも、「恋は理屈じゃないんだよ」と里歩はいつだったか言っていた。こういうところも真面目な彼らしいのかな、と思った。


「その後にお父さまがあんなことになられて……、正直、あなたの弱みにつけ込もうという気持ちもあったように思います。ですが、あなたは気丈に振る舞われていて、『ああ、この女性ひとはもう立派なレディなんだな』って、尊敬というか、ちょっとにも近い感情を抱くようになりました。でもやっぱりあなたはひとりの女の子で、僕が支えてあげたいと思うようになりました」


 わたしはあの夜から、確かに彼に好意を抱き始めていた。だからこそ、家の前まで送ってくれた彼と別れる時に後ろ髪を引かれる思いがして、別れが名残なごり惜しくて連絡先を交換しようと思い立ったのだけれど、それは彼にとって迷惑なことなのではないかと、実は悩んでもいた。


 でも、それはわたしの思い過ごしだった。彼もまた、わたしに恋をしたことに罪悪感のようなものを覚えていたのだ。

 だから連絡先の交換に快く応じてくれたし、父が病に倒れて帰らぬ人になるまでの間も、父が亡くなった後も、わたしのことを献身的に支えてくれていたのだ。


「絢乃さんのお力になろうと思ったのは、僕をパワハラから救って下さったご恩をお返ししたいという気持ちからでもありました」


「……恩返し?」


「はい。秘書室への異動を決めたのは、そのためでもあったんです。あなたが会長を就任された時に、僕がいちばん近い場所であなたの支えになりたいと。ですが、あくまで仕事上はボスと秘書という関係なので、仕事中は恋愛感情を持ち込まないつもりだったんですけど」



「……?」


 わたしが首を傾げると、彼は顔を赤らめながら、正直にすべて白状した。


「……その……、助手席でのあなたの寝顔があまりにも可愛かったので、つい我を忘れてしまって。もちろん、本当に絢乃さんのことが好きでキスしたんですけど、我に返ってからはもう、あなたに嫌われたらどうしようかとか、クビにされてしまうんじゃないかとかそんなことばかり考えてしまって」


「…………はぁ、そう」


 わたしは呆気に取られた。この人、何をそこまで深刻に考えているんだろう? と。


「実はですね……あの、僕はもうだいぶ前から、薄々感づいてはいたんです。会長……いえ、絢乃さんがもしかしたら、僕のことを好きなんじゃないかと。自惚れていると思われたくなかったので、考えないことにしていたんですけど」


「え……、そうだったの? なのに、一回キスしちゃったくらいでどうしてあんなに気にしてたの?」


 わたしの気持ちをすでに知っていたのなら、あそこまで取り乱す必要はなかったはずなのに……。


「それは……あの、やっぱりあなたに嫌われたくなかったから……だと思います。男というのはですね、好きな女性の前では聖人せいじん君主くんしゅぶりたいものなんですよ。ましてや、まだ高校生の女子が相手だとなおのこと。……僕の言いたいこと、分かって頂けます?」


「うん……、何となくは」


 わたしは軽く首を傾げた。いつだったか里歩が言っていた、「男っていうのはいつ豹変するか分からない生き物」というのはこういうことだったのかと。つまり彼は、必死に豹変しそうな自分を抑え込んでいたということだろう。



 ――そこまで理解した途端、わたしは思わず笑い出してしまった。思いっきりバカ正直に、上司とはいえ八歳も年下のわたしに自分の弱い部分までさらけ出してしまう彼は、本当に愛すべき人だと。


 彼の気持ちがハッキリと分かった以上、今度はわたしの番。告白しようと決めるのに、もう何の躊躇ちゅうちょもなかった。


「……絢乃さん? 僕、何かおかしなこと言いました?」


「ううん、そうじゃないの。ありがとう、話してくれて。貴方の気持ち、すごく嬉しいよ。貴方が悩んでくれてたことも伝わったし、ホントに誠実な人なんだなぁって思った。……でもね、桐島さん。悩む必要なんてないのよ。わたしは貴方のこと、絶対にキライになったりしないから。だってわたしも、初めて会ったあの夜からずっと貴方のこと好きなんだもん」


「…………えっ、そうなんですか?」


 わたしの告白を聞いて、彼は目を丸くした。まさか自分が感づいたことが自惚れではなく、事実だったなんて驚いた、という感じだった。


「うん。わたし、貴方が初恋なの。初めて好きになった男性ひとが貴方でホントによかった」


 これはわたしの本当の気持ち。彼以外の男性と恋に落ちるなんて一度も考えられないくらい、わたしの心の中は彼のことでいっぱいだったのだ。


「……ありがとうございます。光栄です。あなたの初恋の相手に、僕を選んで頂けて」


「〝光栄〟だなんて、またオーバーな……」


 彼のリアクションにわたしは呆れたけれど、本当は嬉しくて仕方がなかったので、自然と笑みがこぼれた。


「バレンタインデーのチョコ、すごく美味しかったです。あれって、絢乃さんの僕への愛情がこもっていたからあんなに美味しかったんですね。今気づきました」


「うん」


 彼はあの手作りチョコを、心から喜んでくれていたようだ。嬉しすぎるあまり、お兄さまにまで報告してしまうくらいだもの!

 ……っていうか、もっと早く気づけ? と声に出して言いたかった。


「貴方はわたしがいちばんつらい時に、いつも心の支えでいてくれたよね。会長就任の挨拶の前も、今だってそうよ。貴方が秘書でいてくれて、どれだけ心強いか。……だから、わたしからもお願い。これからも、わたしのことを側で支えててほしいの。秘書としてだけじゃなくて、恋人として。いい……かな?」


「はい! こちらこそ、よろしくお願いします!」


 おずおずと彼の表情を窺うように言うと、彼は何の躊躇もなく、わたしの想いを受け入れてくれた。



 ――ああ、わたしにも〝彼氏〟と呼べる人ができたんだ……。それまでに男性とのご縁がほぼ皆無だったので、初めて好きになった相手が彼氏になったということは、わたしにはすごく感慨深かった。

 家に帰ったらさっそく里歩に報告しよう。――わたしはそう思った。



「――ねえ、桐島さん。……今ならキスしていいよ?」


 両想いになった勢いで(?)、わたしについついイタズラ心が湧いた。


「……………………はい?」


「だから、今度は不意討ちなしでキスしていいって言ってるの」


「それは…………、えーと……」


 不意討ちならためらわなかったくせに、彼はうろたえた。


「ここは会社ですし……、ちょっとマズいんじゃ――」


「貴方がしてくれないなら、わたしからしちゃうよ?」


 わたしは待ちきれなくなって、自分から立ち上がり、背伸びをして彼と唇を重ねた。

 学校から直接出社していたので、靴は当然ローファーだった。ヒールの高い靴を履いていれば、少しは彼との身長差もカバーできたかもしれないけれど。


「……………………あの、絢乃さん? 確かまだ、キスって二度目じゃありませんでしたっけ?」


 ポカンとした彼はわたしにそう確かめたけれど、わたしは後悔なんてしていなかった。


「……そう、だけど。初めてじゃないから、自分からしても大丈夫かなって思ったの」


「そのわりには、お顔が赤くていらっしゃいますけど?」


「…………悪い?」


 わたしは少々バツが悪くなって、口を尖らせた。

 本当はわたしも、それほど気持ちに余裕があったわけではなかった。キスだって、二度目くらいでは慣れるはずがない。だってわたしは、男性にまったく免疫がなかったのだ。


「いえ、悪くなんかないですよ。絢乃さんのそういう初々ういういしいところも可愛いなって思っただけです」


「…………そう」


 わたしはまた、彼のほんわかした笑顔にキュンとなった。「この人を好きになってよかった」と、心から思えた。


「――ねえ桐島さん。今までわたし、貴方に支えてもらってばかりだったね。だから、今度はわたしの番。これからは、わたしが貴方を守るからね!」


 わたしは彼を自分から抱きしめて、そう宣言した。

 部下を守るのは上司の務めだけれど、それだけじゃない。彼も本当はもろい人なんだと分かったから、恋人としても彼のことを守ってあげたいとわたしは思ったのだった。


「ありがとうございます、会長」


 彼もまた、わたしをギュッと抱き返してくれた。

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