キスの答え合わせ ⑥

「――お待たせしました、会長。どうぞ」


「ありがとう」


 彼はわたし、悠さん、自分――という順番でローテーブルの上にカップを置いていった。……けれど。


「ほら、兄貴」


 お兄さまのカップを置くとき、ガチャンと乱暴な音を立てた。いつも丁寧な彼にしては、ちょっと態度が荒っぽい。


りぃなあ、ありがとよ。っつうかお前、客相手に態度悪くね?」


 悠さんはそう言ったけれど、別に怒っているような様子はなかった。きっと、あれがこの兄弟の普段通りの態度なのだろう。


「……兄貴、ホントに悪いと思ってないだろ?」


「ああ、バレたか」


 そこがオフィス内だということも忘れ、(多分)実家と同じようなやり取りを繰り広げていた桐島兄弟ブラザーズ。わたしの存在まで忘れかけていたようだ。


「……桐島さん、お家ではいつもそんな感じなの? お兄さまと」


 わたしが声をかけると、ようやく存在を思い出してくれたらしい。


「…………えっ!? あ、すみません会長! お恥ずかしいところをお見せしてしまって。まぁ、兄とはだいたいいつもこんな感じです。ついついが出てしまいまして」


「ううん、いいの。身内の恥を晒したのはわたしも一緒だし。むしろ貴方たちのやり取りは微笑ましいと思ったよ。お兄さまとホント仲いいのね」


 彼は心から恥じて謝っていたけど、恥じる必要なんてなかったのだ。わたしは普段仕事中には見られない、彼の別の一面が見られただけで大満足だったのだから。


 それに、欲にまみれた篠沢の親族とは違い、彼らのやり取りはほのぼのしていて、見ていてもイヤな気持ちにはならなかったし。


「……そ、そんなに仲よくはないですよ? むしろ、たまに鬱陶うっとうしいくらいで」


「いやぁ、そうなんだわ絢乃ちゃんー。コイツ、ガキの頃から『兄ちゃん、兄ちゃん』ってオレにベッタリでさぁ。ブラコンの弟持つと、兄貴も大変だよ」


……?」


 否定しようとしていた貢に、悠さんが言葉を被せたけれど。調子に乗ってペラペラしゃべるお兄さまに、貢からのドスの効いた声が飛んだ。


「分かった分かった! オレが悪ぅございました! お前えぇって」


「分かりゃいいんだよ、分かりゃ」


 まるで漫才のような兄弟のやり取りに、わたしは思わず吹き出してしまった。


「「………………………………」」


「…………何がおかしいの、絢乃ちゃん?」


 桐島兄弟ブラザーズで呆気に取られたようにしばらく見合った後、悠さんが肩を震わせながら笑っていたわたしに疑問をぶつけてきた。


「いえ……。お二人のやり取りが、何だかものすごく面白くて、楽しくて。……あー、もうダメ! ツボっちゃった!」


 わたしはお腹がよじれるくらい、大笑いした。あんなに笑ったのはいつごろぶりだっただろう? 彼ら兄弟のおかげで、わたしは今も退屈しない。



 ――気が済むまで笑い、ようやく落ち着いたわたしはやっとコーヒーに口をつけた。ちょっと冷めていたけれど、猫舌のわたしにはそれくらいでちょうどいいのだ。


「……あー、美味しい! 幸せ~♪」


 こんなに美味しいコーヒーを毎日飲めるなんて(お休みの日は除いて)、わたしは何て幸せものだろう!


「……ん、美味うめえ。お前のコーヒー、いつ飲んでも美味いよなー。お前さ、この会社辞めてバリスタになれば? んで、オレと二人で喫茶店やろうぜ。イケメン兄弟がやってる店なんて最強じゃね?」


 わたしに続いてコーヒーを啜った悠さんは、冗談なのか本気なのか、そんなことを言いだした。それを聞いた貢が飲んでいたコーヒーをプーッと噴き出した。


「……はぁっ!?」


「あ、そういえば昔、本気でバリスタになろうとしてたことあるって言ってたね」


 わたしもイタズラ心が湧き、悠さんのお話に乗っかった。


「会長まで何おっしゃってるんですか!? だからイヤなんですよ、僕がバリスタを目指すと言ったら、兄がこんな提案すると分かっているから!」


「ああ~~、なるほど。そういうことだったの」


 彼が夢を諦めた理由に、わたしはすんなり合点がいった。これは……、確かにウザいかも。


 でも、きっと悠さんには狙いがあって、この時もそのためにあんな話をしたのではないかとわたしは思った。――貢に、もう本当に退職の意思がないのかを確かめるためなのではないかと。


「俺は絶対ゴメンだね! もう会社辞める気ないし。……そりゃ、バリスタはやりたいと思ってるけど、兄貴と一緒に店やるなんてイヤ! 断固拒否する!」


 弟のこの答えを聞いた悠さんが嬉しそうだったので、わたしの予想はどうやら当たっていたみたい。


「……そんな、ムキになって拒否キョヒらんでもさぁ。んじゃ、バリスタはいつやるつもりなんだよ?」


「えっと……老後の楽しみ?」


 それを聞いた途端、悠さんは大笑いした。弟である貢がもう会社を辞める気はないと知って、安心したのもあるのかもしれない。


「おま、老後って定年退職後っつうことか? 絢乃ちゃん、ここの定年っていくつよ?」


「ウチのグループ企業は全社、六十五歳が定年です」


「つうことは……、四十年後じゃん!」


 悠さんが悲鳴もかくやという声を上げた。


 貢はこの時まだ二十五歳。定年後、おじいさんになった彼の姿はちょっと想像できないけれど、その年齢になればもうイケメンもヘッタクレもない気がする……。


「えー? 桐島さん……あ、弟さんの方ね。いいじゃない、イケメン兄弟のやってる喫茶店! わたし、そんなお店ができたら毎日通っちゃうかも」


「会長までそんな……」


 貢は呆れていた。でも、本当にそんなお店ができたら連日女性客が殺到するかもしれない。それはそれで、わたしにとっては困りものでもあったけれど――。


「ほら見ろ。絢乃ちゃんだってこう言ってんじゃんよ。お前もちったぁ前向きに考えてみろって」


「やかましいわ! 兄貴も調子に乗んな!」


 ここでまた兄弟ゲンカのゴングが鳴りかけたけれど、次の瞬間二人揃って笑い出した。


 そして、悠さんの表情は穏やかで、安堵したような顔だった。


「けどよかった、安心したぜ。お前もう、会社辞める気ねえのな。もったいねえじゃん、自分が選んで入った会社なのに辞めちまうなんて」


「兄貴……」


「お前、いい上司に恵まれたよな。絢乃ちゃんに感謝しろよ?」


 貢はお兄さまの言葉をおもゆそうに聞いていた。普段は軽口を叩き合っている兄弟だけれど、お兄さまはいつもおとうとのことを気にかけているのだとわたしも嬉しくなった。

 やっぱり悠さんは、いいお兄さまだ。


「うん、分かってるよ」


 貢はしっかりした声で、お兄さまの目をまっすぐ見据えて頷いた。



「――さっきお前がいない間にさ、オレ絢乃ちゃんに話したんだ。お前が遭ってたパワハラのこと。そしたら絢乃ちゃん、『もっと早く気づいてあげてれば……』って責任感じてた。……だよな? 絢乃ちゃん」


 悠さんがわたしに大事な話題を振ってきたので、わたしは頷いた。


「ゴメンね、貴方がそんなに苦しんでたなんて、わたし知らなくて」


「いえいえそんな! 会長は何も悪くなんかありません。ですからお気になさらないで下さい」


 貢は首を横に振って、わたしを優しく宥めてくれた。


「でも……、わたしとママだって貴方のことこき使ってるよね!? もしかして、あれもパワハラに当たるんじゃ……」


 思えばこの年の一月から、彼にはわたしと母とで忙しい思いをさせてしまっていた。それも世間的には立派なパワハラ事案にがいとうするのではないだろうか……? そう思ったわたしは青くなったけれど。


「いえ、大丈夫ですよ。確かに仕事自体は多いですし、大変ですけど。その分、会長もお母さまも僕のことを十分気遣って下さっているじゃないですか。ですからそれはパワハラには当たりません」


「あ……、そうなんだ。よかったぁ」


 彼が気にしていないのなら、それは問題にならないということだと分かり、わたしはホッと胸を撫で下ろした。



 ……それよりも、彼が被害に遭っていたというパワハラ問題についてだ。


 きっと島谷さんも、に的を絞って嫌がらせをしていたわけではないだろうから(実際、フタを開けてみたらそうだった)、これは思っていた以上に深刻で厄介な問題かもしれない。彼のためにもわたしが何とかしなければ――。わたしはそう決心した。



「――あ、ところで話変わるんだけど。絢乃ちゃん、コイツにバレンタインチョコ作ってくれたんだって? コイツ、めちゃめちゃ喜んでたぜ」


「ええ。当日の夜、ご本人からお礼のお電話頂きました」


 貢はわたしからチョコを(しかも手作りで)もらえたことが嬉しすぎて、お兄さまにも報告していたらしい。なんていじらしい兄弟愛!

 もしかしたら、他の女性社員たちからもらいすぎて食べ切れなかったチョコを、お兄さまにお裾分けしに行っただけかもしれないけれど。


「んで、『ホワイトデーのお返しはいいから、誕生日プレゼント期待してる』って言ったんだって?」


「ええ、……まあ。――桐島さん……、そんなことまでお兄さまに報告してたの?」


 わたしはちょっと気恥ずかしくなって、隣に座っていた貢をジト目で睨んだ。……これじゃまるで、わたしが彼にプレゼントをねだったみたいじゃない!


「……はい、すみません」


 〝ヘビに睨まれたカエル〟の貢は、小さく縮こまった。


「いやいや、貢。そこは謝るとこじゃねえって。――ときに絢乃ちゃん、キミの誕生日っていつ?」


 どこまでも生真面目な弟に、悠さんは小さく吹き出してツッコんだ後、わたしに質問してきた。


「四月三日です。なのであと……十日足らずですかね」


「あと十日足らず、ですか」


 貢が呟くと、悠さんが彼をからかい始めた。


「だってさ、貢。お前、プレゼント、ちゃんと選んでやれよ? くれぐれも絢乃ちゃんをガッカリさせんじゃねぇぞ」


「……えっ? それってどういう意味ですか?」


 わたしが訊ねると、悠さんのからかい口調はますますエスカレートしていった。


「聞いてよ絢乃ちゃん。コイツさぁ、学生時代に付き合ってた彼女の誕生日プレゼントも選んだことあんだけどさ。物選びのセンスがイマイチで、その彼女ドン引きしてたんだぜ!」


「…………はあ」


「兄貴っ! 会長にそれ以上バラすんじゃねえ!」


 過去の傷をえぐられたらしい貢は、とうとう耐えかねて吠えた。その剣幕に怯んだ悠さんは、ピタッと口をつぐんで肩をすくめた。やり過ぎたと反省したらしい。


「……会長? あの…………」


「わたしは別に、何を選んでくれてもガッカリしないし、ドン引きもしないから。貴方のセンスに任せるわ。……相当、ヒドいものじゃなければ」


 彼は何かを弁解しようとしたみたいだったけれど、わたしは「分かってる」という意味でフォローを入れた。最後にボソッとつけ足した部分は、わたしの隠れた本音だったりなんかして。


「…………そうですか。了解しました」


 そりゃあ、昔の彼は確かに物選びのセンスがお粗末だったかもしれないけれど。わたしのことが大好きな彼なら、きっといいものを選んでくれる。――わたしはそう思うことにした。



   * * * *



「――そういや兄貴、今日はタバコ吸いたがらないよな。ヘビースモーカーの兄貴が珍しく」


 貢が唐突に、そんな疑問を口にした。――悠さんってヘビースモーカーだったのか。


 ちなみに貢は下戸だからお酒もダメだし、もちろんタバコも吸えないらしい。吸ったこともないのだとか。


 父は喫煙家ではなかったけれど、母はわたしを身ごもるまではタバコも吸っていたそうだ。ただしヘビースモーカーではなく、一日何本までと本数を決めて。教師というのはストレスの多い職業なので、気を紛らわせるために吸っていたのだと思う。もしくは、喫煙者だった祖父からの遺伝か。


「ああ、さっき絢乃ちゃんに止められた。ここは全館禁煙だからー、ってな」


「やっぱりな。そういうことだろうと思った。だから俺、前から言ってるじゃんか。いい加減禁煙しろって」


「ハイハイ分かった。考えとく」


「またそれかよ! たまには弟の忠告、素直に聞けって!」


 貢からの忠告も、悠さんは笑いながら、子供をあやすようにあしらった。そして貢の方も、お兄さまにオモチャ扱いされることを楽しんでいるようにわたしには見えた。


 彼は〝素〟の自分をわたしに見せたがらなかったけれど、この兄弟のやり取りは見ていて本当に微笑ましくて、自然体の彼を見てもわたしは全然幻滅しなかった。

 むしろ、より彼のことを好きになっていく自分がいることを、わたし自身も心地よく感じていた。


「兄貴、笑いすぎ! ……って、会長まで笑うことないじゃないですか!?」


「ゴメン……」


 彼は怒っているみたいだったけれど、わたしはその場の和気あいあいとした雰囲気がけっこう好きだった。


 彼がひどいパワハラに遭っていたことを知り、何とかしなければという思いもあったけれど、せめて悠さんと三人でいる間だけは、空気抜きをしていてもいいのではないかと。

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