恋も、仕事も ⑥

 ――そんなこんなであっという間に数日が過ぎ、バレンタインデー当日がやってきた。


「――絢乃さん、今日もお疲れさまでした。では、僕はここで――」


 彼はわたしを車から降ろすと、ちょっとうなだれながら車へ引き返そうとした。

 きっと、退社後の時間まで今か今かと待っていたに違いない。わたしがいつチョコをくれるのかを。


 この日は学年末テストの期間中だったので、わたしも普段より早めの時刻に出社していた。彼とは昼食も社食で一緒に摂ったし、仕事の間もずっと一緒だったので、普段より彼と過ごす時間も長かった。


 でも、彼は終業前に女性社員たちから紙袋いっぱいのチョコやら何やら(彼に言わせれば、すべて義理だったらしい)をもらっていたので、わたしからは別にあげなくてもいいんじゃない? とわたしは密かに思っていた。あー、やだやだ! 嫉妬なんてみっともない!


「あっ、ちょっと待って! 分かってるから。わたしからチョコもらってないからってガッカリしてるんでしょ? ちゃんと準備してあるから! ――史子さーん、準備はいいー?」


 わたしは慌てて彼を引き留め、ゲートのところで待機してくれていた史子さんを呼んだ。

 手作りチョコは暖房が効いていると溶けてしまう恐れがあったので、帰りに家まで送ってくれた彼にそこで直接渡すという段取りになっていたのだ。


「……へっ!?」


「はいはい、お嬢さま! お帰りなさいませ。はずどおりにお持ちしましたよ!」


 史子さんは手にしていた小さなギフトボックスをわたしに手渡してくれると、「では、わたくしはこれで」とそそくさと家の中へ引き返していった。


 ……よしよし、よく冷えてる。わたしは箱の温度を確かめ、こっそり頷いた。


「というワケでこれ、わたしからのチョコ。頑張って作ったの。貴方の口に合うかどうか分からないけど」


 わたしはそう言いながら、淡い水色のリボンがかかったギフトボックスを彼に差し出した。


「……えっ!? あっ、ありがとうございます! うわー、嬉しいです」


 受け取った彼は、最初はおっかなびっくりだったけれど、子供みたいに素直に喜んでいた。


「実は僕、もう半分諦めかけてたんです。絢乃さんからのチョコは頂けないんじゃないかと。……あっ、別に絢乃さんのことを信用していなかったわけではないんですけどね!?」


「弁解しなくていいのよ。ここまでらしちゃってたわたしも悪いんだから。貴方も落ち着かなかったでしょ? ゴメンね」


 わたしもわざと焦らしたわけではなくて、結果的にたまたまあのタイミングになってしまっただけだったのだけど……。


「『手作りチョコをあげる』って約束してたから、わたしなりに時間をやりくりして頑張って美味しいチョコを作ってみたの。わたしの真心をいーーっぱい込めたからね!」


「……ああ。そういえば一度、お電話を頂きましたよね、チョコのことで。参考になりました?」


 彼が憶えていた〝電話〟というのは、里歩や母たちと一緒にチョコ作りの練習をしていた土曜日にかけた電話のことだ。

 彼の味の好みを知りたくて、休日の彼に連絡を取ったのだった。


「うん、その節はありがとう。おかげでだいぶ貴方の好みに合う味になったと思うわ」


「わあ、楽しみです。本当にありがとうございます! じっくり味わって食べさせて頂きますね!」


 チョコ一つで、彼のテンションはかなり舞い上がっていた。

 わたしはあえて「本命」か「義理」かは伝えなかったのだけれど。彼はあのチョコをどちらだと思って受け取ったのだろう?


「――あ、ホワイトデーのお返しのことは気にしなくていいから。その代わり、誕生日のプレゼント、ちょっと期待してもいい?」


 男の人におねだりをしたのは、あれが初めてだった。

 もちろん半分は冗談のつもりだったけれど、真面目な彼なら本気で考えてくれるかも……という淡い期待も少しはあったかもしれない。

 ちょっとヨコシマだと自分でも思ったけれど……。


「はい、喜んで善処させて頂きます。――では、僕はこれで失礼します」


「うん、お疲れさま」


 彼は今度こそ、ホクホク顔で帰っていった。


 その夜、彼から「チョコ、さっそく美味しく頂きました」とお礼の電話をもらった。

 その満足げな声に、わたしも頑張って作ってよかったと十分な手応えを感じたのだった。



   * * * * 



 ――バレンタインデーの翌日から、わたしに対する彼の態度に少し変化があった。

 優しくて気が利く、という彼の長所はそのままだったけれど、そこにより磨きがかかったというか。わたしの一言一句に一喜一憂いっきいちゆうしているのがわたしにも目に見えて分かった。

 そして、彼がわたしのことを妙に意識しているなぁと感じたことも……。


「――では、加藤さんはリフォーム業者を何社かリストアップして見積りを出してもらって下さい。次の会議でどの業者に発注するか決めましょう」


「はい、分かりました」


 経理部長の加藤さんは、ボブカットに銀縁のメガネをかけたシャープな印象の女性だ。彼女はきびきびとした声で返事をした。


「では、カフェスタンド設置の件はこれで進めていくということで、みなさんいいですね? 今日の会議はこれで終わります。お疲れさまでした」


 あと一週間ほどで四月になるというこの日も、会長室内のミーティングスペースで村上社長や広田常務、山崎専務、加藤経理部長と社内の改革案についての会議が行われていた。

 会議が終わって解散すると、もう夕方五時を過ぎていた。役員の村上さんたちはともかく、加藤さんは残業になってしまった。ちゃんと残業代も出してあげなきゃ、とわたしはボスとしてそんなことを思っていた。


「――桐島さん、今日も分かりやすい資料ありがとね。おかげで会議がスムーズに進行できたわ」


 会議のたびに資料を作成してくれていたのは秘書の貢だった。わたしはまだまだ自分のことで精一杯だったので、彼がこうして縁の下の力持ちになってくれていて、だいぶ助かっていたのだ。


「いえいえそんな、とんでもない! 僕はただ、自分にできることをさせて頂いているだけですから。それが少しでも会長の手助けになっているなら、ありがたい限りです」


 わたしが彼の仕事ぶりを評価したり、彼にお礼を言うたびに、彼は頬を赤く染めて全身でオーバーすぎるくらいのリアクションをしてくれた。

 元々そんなにクールな人というわけでもなかったけれど、彼の感情表現は以前にも増して激しくなっていたような気がする。


「……ねえ桐島さん、貴方って最近キャラ変わった? そんなにはっちゃけてたっけ?」


 わたしが不思議に思って首を傾げると、


「そそそそ、そんなに変わっていないと思いますよ!? 会長の気のせいじゃないですか!?」


 と顔を真っ赤にして慌てて否定していた。


 でもわたしには、彼のそんな一面さえも微笑ましくて愛おしくてたまらなかった。たとえ社内では真面目なしっかり者で通っていたとしても、わたしの前ではいつも気取らず、飾らず、自然体な彼のままでいてほしいと思っていた。わたしは彼がの彼自身を見せられる唯一の存在でありたいと、心から願っていた。


 だからこそ、わたしは予想もしていなかったのだ。まさか彼が、わたしに対してを起こすなんて……。あれは彼が一人の男性であるということを、改めてわたしに思い出させた出来事だった――。

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