恋も、仕事も ⑤

 ――その翌日、六限目の終了間際。


〈桐島さん、今日もお疲れさま!

 学校はもうすぐ終わります。お迎えよろしく☆〉



 チャイムが鳴る直前、わたしはいつものように先生の目を盗んでせっせとスマホを開き、彼へのショートメッセージを送信した。


 もっとも、学校側もわたしの〝二足のわらじ〟生活については理解があったので、コソコソ連絡する必要はなかったのだけれど。そこは授業をしてくれている先生への礼儀というか、わきまえなければならないところというか。


 そして、授業中なのに好きな人と連絡を取り合っているという、何ともいえない背徳感……。日常にはこれくらいの刺激スリルがあってもいいのではないかと、わたしはこっそり思っていた。



〈了解しました。今から会社を出ます〉



 彼からはすぐに返信が来た。……でも何なの? この色気も素っ気もない、たった一文は。


 スマホカバーを閉じたところで、ちょうど授業終了のチャイムが鳴った。


 ――終礼後、帰り支度をしていると、里歩が声をかけてきた。


「絢乃、お疲れー☆ 今日もこれからご出勤?」


「うん、そうだけど〝ご出勤〟……って。なんか別の業種の人みたいに聞こえるでしょ」


 わたしは彼女にツッコミを入れた。その言い方では、わたしがまるでおミズの世界で働いている人みたいじゃないか。


「……おっと、ゴメン! でもさぁ、重役出勤には違いないじゃん」


「まあ、そうだけど」


 それはそうだ。会長なのだから、〝超〟がつく重役中の重役である。


「――桐島さん、もう来る頃だと思うんだけどな……」


「そっか。あたしは今日も部活。……ところでさ、絢乃」


「ん? なに?」


 わたしはちょっとだけ片眉を上げた。彼女の口ぶりからして、わたしと貢との仲を冷やかすつもりなのだと分かったからだ。


「一緒に働くようになって、そろそろ一ヶ月じゃん? 最近、桐島さんとの仲に進展あった?」


 ……ほら、やっぱり。長年の親友のカンはだいたい当たるのだ。それでもって、里歩は思いっきり痛いところを衝いてきた。


「ないよ」


「ホントに? なんにも?」


「うん。こんなんでウソついてどうすんのよ」


「そりゃそっか。……んー、そっかぁ。なんにもないのかぁ……」


 彼女はガックリと肩を落とした。ガッカリしたいのはわたしの方だったのに、何故彼女の方がガッカリしていたのだろう?


 進展と呼べるほどのことではなかったけれど、その前日に彼が〝おひとりさま〟だと分かったことがせめてもの収穫だっただろうか。


「でもさぁ、密室ん中、男女二人っきりでなんにもないってなんか不思議だよねー。そりゃあ確かに、桐島さんって草食系っぽいけどさぁ」


「……里歩、それって彼のこと軽くディスってない?」


「いやいや、気のせいだよ」


 彼女は慌てて否定したけれど、「草食系だ」と言われて喜ぶ男性はほとんどいないのではないだろうか?


 ――里歩が「そろそろ部活に行かなきゃ」と言うので、わたしも一緒に二階の教室を出ることにした。


 ちなみに、茗桜女子学院は体育の時以外は靴を履き替える必要がない欧米スタイルであるため、わたしたちはローファーを履いたままだった。


「――確かに里歩の言うとおりかも。密室で、男女が二人っきりになってて何もないなんて、普通に考えたら不自然よね。特に帰りの車の中なんて、わたしスキだらけなんだよ? 手を出そうと思えばいくらでもチャンスはあるのに」


 わたしは昇降口まで歩きながらボヤいていた。


 別に手を出されたかったわけではないけれど、何もないのも何だかむなしかった。

 彼が分別ある大人の男性だから、と考えれば理屈では納得できたかもしれないけれど、何だか腑に落ちなかった。恋は理屈で解決できないものなのだ。


「桐島さんって真面目な人だからさ、アンタに遠慮してんじゃないの? 大事なボスに手を出すなんて畏れ多い、とか何とか」


「それはあり得るわね。でも、帰りだったら仕事も終わった後なんだし、名前で呼んでくれるくらいならちょっとくらい踏み込んでくれたっていいのに」


 一緒に仕事をするようになって、彼との距離が少し縮まったかな……と思い始めていた頃だった。あまりガツガツ来られるのも困りものだけれど、彼の場合はちょっと引きすぎな気がした。

 バレンタインデーも近かったし、わたしとしては、それまでにもう少し近しい関係になっていたかったのだけれど……。


「ねえ絢乃。アンタがそんな受け身な態度ばっか取ってるから、いつまで経っても距離縮まんないんじゃないの? だったら思いきってさ、アンタからアクション起こしてみたらどうよ?」


「……えっ!? アクションって……たとえば?」


 何を言いだすの、このコは!? ――わたしは唖然となったけれど、つい彼女の提案に乗ってみたくなった。


「そうだなー、絢乃の方からキスしちゃうとか」


「…………ええっ!? ムリよ、ムリムリ! だってわたし、ファーストキスだよ!?」


 わたしはその発言に、顔を真っ赤にして食ってかかった。

 初めてのキスを自分から……なんて、わたしにはハードルが高すぎてできそうもなかった。だって、あまりにも大胆すぎるから。



「――何が〝ムリムリ〟なんですか? 会長」


「「うわぁっ!?」」


 突然乱入してきた男性の声に、わたしと里歩は思わずのけぞった。


「き……っ、桐島さん!? 今の話聞いてたの……?」


 気がつけばわたしはすでに校門の前まで来ていて、そこには愛車の助手席のドアを開けた彼がコート姿で立っていた。


「いえ、会長が『ムリムリ!』と叫ばれていたのが聞こえていただけですが」


「あ……、そう。よかった……」


 後半部分は声を抑えていたため、彼には聞こえていなかったらしい。もし聞こえていたら、わたしはその日、一体どんな顔をして彼と顔をつき合わせなければならなかったのだろう?


「? よかったって、何がですか?」


「ううん、何でもっ! こっちの話!」


「あっ、桐島さん! 今日もお迎えご苦労さまです☆」


 二人の会話に首を突っ込むように、里歩が彼に挨拶した。


「ああ、里歩さん。こんにちは」


 彼は里歩にニッコリ笑いかけ、「さ、参りましょう」とわたしを促した。

 ……さっきの話、ホントに聞いてなかったの? わたしはいぶかしんだ。彼の笑顔がどこか引きつっているように見えたからだ。


「じゃあ、あたしはこれから部活なんで。絢乃のことよろしくお願いします♪ じゃね、絢乃。また明日!」


 ちゃっ♪ と片手を挙げて、彼女は体育館へ行ってしまった。


「「……………………」」


 わたしと彼はしばらく呆気に取られていたけれど、先に口を開いたのは彼の方だった。


「……里歩さん、何だか楽しそうでしたねぇ」


「うん……」


「…………そろそろ行きましょうか。加奈子さんが首を長くしてお待ちですよ」


「そうね」


 ――気を取り直して車に乗り込み、わたしたちは篠沢商事のオフィスへ向かっていたのだけれど。

 助手席に乗っていたわたしは、運転席でハンドルを握る彼の顔をチラチラと気にしていた。


『そうだなー、絢乃の方からキスしちゃうとか』


 里歩に言われたことのせいか、ついつい彼の口元を意識してしまい、直視できなかったのだ。

 前日には彼に自分の口元を見つめられていたし……。何となく、彼とのファーストキスという生々しい光景を想像してしまい、ひとりで頬を染めていた。


「……どうされたんですか、絢乃さん? どこか具合でもお悪いんですか?」


「…………えっ!? ううん、別に」


 心配そうな表情をルームミラー越しに見せた彼に、わたしは慌てて首を振った。


「――ねえ、桐島さんってわたしに触れたいなぁとか思ったりしないの?」


「…………はい!?」


 思いっきり直球で質問してしまい、わたし自身が慌てる前に彼がキョトンとなった。


「あ……えーっと、その……。貴方も一応、成人男性なわけだし。わたしとは、密室で二人っきりなわけだし? 手を出したくなったり……とかしないのかな……って」


 わたしだって当時、すでに思春期の女の子だった。男性の本能的な部分を(知識として、だけれど)まったく知らなかったわけではない。カマトトぶってもいられなかったのだ。


「そうですね……、まったくないと言えばウソになります。絢乃さんは魅力的な女性ですから」


「え……」


 彼は何のごまかしもなく、率直にそう答えた。

 わたしのことを、彼がそんな風に思っていてくれたなんて……。ちょっと嬉しかったけれど。


「ですが、自分の立場といいますか、そういうことを考えると……。僕はあなたに失礼なことは絶対にできませんので」


 続く彼の真面目すぎる言葉に、わたしはガックリと肩を落とした。

 ……そんなこと、別に気にしなくてもいいのに。わたしは彼が何かしてきても、そんなことくらいで彼をどうこうしようという気なんてさらさらなかったのに。そんなのはパワハラになってしまうから。


「そう……。あっ、ゴメンね! 今のは聞かなかったことにして」


 わたしはこの話題をすぐに撤回して、車外へと視線を逸らした。これじゃまるで、わたしの方から彼に「手を出してほしい」と言っているようなものじゃないか!


「……はあ」


 彼はちょっと納得いかなそうに返事をした。

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