恋も、仕事も ④

 それに、自分で「大丈夫」と言う人ほど、本当は大丈夫ではないことが多いものだ。

 ただでさえわたしは、世間一般の女子高生とは比べものにならないくらいハードな日常を送っていたのだから。「若いから倒れる心配がない」というのは自分を過信していることに他ならない。


「……ご理解頂けたのならよかったです。僕は本当に、心からあなたのことを心配しているんです。会長、時々お帰りの車の中で居眠りなさっていますよね? 僕が気づいていないとでも?」


「う…………っ、知ってたの……」


 痛いところを衝かれたわたしはたじろいだ。


 これは本当に時々だったのだけれど、わたしはクタクタに疲れていた日には帰りの車内でウトウトと微睡まどろんでいることがあった。でも、優しい彼はムリに起こすようなことはせず、わたしが自然に目を覚ますまで時間を稼ぐためにわざわざ遠回りをしてくれていたのだ。


 眠っているわたしは思いっきり無防備で、しかも車の中には二人きり。彼にとってはめちゃめちゃラッキーなシチュエーションだったはずなのに、彼はあの日まで一度もわたしに手を出そうとしなかったらしい。


 どうせなら、手を出してくれたらよかったのに……。そんなところで自制心なんかいらない、……って違う違う!


「いつも起こしてしまうのが忍びないので、僕なりに気を遣っているんですよ。会長の可愛い寝顔を拝めるのは、秘書の役得ですからね」


「な……っ、なん……っ!」


「冗談ですよ」


 不意討ちを食らって二の句が継げなくなっていると、彼はしれっとそうのたまった。

 でも……、あれって本心よね? 絶対に冗談ではなかったよね? だって、わたしがよく知っている貢は女性に対して冗談で「可愛い」とか言ってからかうような人じゃないから。


「――それはともかく、先ほどのファイル、僕のパソコンに共有しておいて下さいね。よろしくお願いします」


「……はいはい。分かってますよ。――じゃあ、ボチボチお仕事再開しようかな」


 わたしはデスクから立ち上がり、読みかけだった本を本棚に戻しに行った。それと同時に、彼も自分のデスクに戻っていた。


「――ねえ、加藤さんってまだ会社にいるかな? 彼女にもさっきの件、伝えておいた方がいいんじゃないかと思うんだけど」


 文書ファイルを彼のパソコンに送りながら、わたしは訊ねた。


「さあ、どうでしょうね? 残業をされているなら、まだいらっしゃると思いますが。メールで伝えられてはいかがですか? でしたら、今日は退社された後でも、明日気づいて頂けると思いますよ」


「そうね。そうしようっと」


 わたしはパソコンのメール作成画面を起動させ、彼女に送信するメールの文面を書き始めた。コーヒーを飲みながら悩むこと二十分、完成したメールの誤字脱字のチェックをしてから加藤さんのパソコンに送信した。

 ちょうどいいタイミングで、カップも空になった。


「――会長、僕は食器を洗って片付けてきます。今日はもうお仕事もないようですし、少し早い時間ですがその間にお帰りの支度をなさっていて下さい。僕は一旦秘書室に寄って、コートとカバンを取ってから戻りますので」


 わたしと彼の退社時刻はだいたい決まって午後六時前後。この日は十五分ほど早かった。


「うん、分かった。じゃあこれ、お願いね」


 彼がカップとお皿、フォークを載せたトレーを持って給湯室に消えている間に、わたしは応接スペースの奥に向かった。その場所にはわたし専用の小さなロッカーというかクローゼットが置かれていて、わたしのスクールバッグとコートはそこにしまってあったのだ。


 わたしはコートを羽織るとボタンをピッチリと留め、クローゼットの下段に置いてあったスクールバッグを取り出してからデスクに戻った。


 彼はまだ戻っていなかったので、制服のポケットからスマホを取り出すと、里歩と母からメッセージが受信していた。朝、学校へ行く時からずっとマナーモードにしてあったのだ。



〈絢乃、おつかれー☆

 あたしも今部活終わったよん♪ また明日ねー♡〉



〈絢乃、今日もお疲れさま。

 夕食はあなたの大好物、煮込みハンバーグよ♡

 気をつけて帰ってらっしゃい。桐島くんによろしくね〉



「――今日、ハンバーグ!? やったぁ☆」


 お腹をすかせて帰ったら大好物が待っていると分かり、わたしのテンションは爆上がりしていた。


 どちらのメッセージにもせっせと返事を送信し、待っていること数分。


「――会長、お待たせしました。それでは、お家までお送りします。行きましょうか」


 彼も紺色のコートを羽織り、メッシュ素材でできたビジネスバッグを持っていた。右手には愛車のキーレスリモコン。


「うん、ありがとう。今日もよろしくお願いします」


 わたしと彼が退出してドアが閉まると、会長室の扉は自動的に施錠された。


 ――秘書室に所属する社員の月給が、どうして他の部署の社員より高額なのかというと、まず退勤時間が一時間ほど遅いので残業手当が付く。そして、役員や幹部に付いているということで、その分の役職手当も上乗せされるので、他の部署よりも月額で五万円~十万円ほど高額になるのである。


 貢の場合だと、会長であるわたしの秘書ということで役職手当は最も高額な八万円が支給されている。それプラス残業手当が月給に上乗せされて、手取りは月に四十万円前後らしい。



   * * * *



 ――丸ノ内の篠沢商事ビルから自由ヶ丘の自宅までは、車で二十分くらい。五・十日ごとうびだと道路の混み具合にもよるけれど、それプラス十分~二十分というところだろうか。


 冬場は日が落ちるのも早いので、わたしが帰宅する夕方六時ごろにはいつも辺りが暗くなり、街灯がついていた。


 彼にも指摘されたとおり、疲れていた日にはわたしもウトウトすることがあったけれど、この日のわたしは眠くなかった。


「――ところで絢乃さん、ちょっと野暮ヤボな質問をしても構いませんか?」


 彼は運転しながら助手席にいたわたしを「会長」ではなく「絢乃さん」と名前で呼び、そんなことを言いだした。


 仕事の時間が終われば、ボスではなく一人の女の子として扱ってくれる。キチンとON・OFFの切り替えができる彼が、わたしは大好きだ。


「えっ? いいけど……、どんな質問?」


「あの……、お金の話になるんですが。会長がもらわれている役員報酬って、月額にしておいくらくらいなんですか?」


「あー……。そういえば、貴方に話したことなかったわね」


 聞いてみれば今更な話題だったし、どうでもいいけれどものすごくな話だった。


 この質問に答えてあげることはやぶさかではなかったのだけれど、わたしの答えを聞いたら、彼は落ち込んでしまうかもしれない。だって、彼の月収とはあまりにもかけ離れているから。……わたしは答えるのを少しためらった。


「……おっしゃりにくいのでしたら、この質問はお聞きにならなかったことにして下さい」


「あ……、ううん。そんなことないけど……。聞いたら貴方、ビックリしちゃうだろうと思って。――わたしの役員報酬は、月額で五千万円です」


「ごごごご……、五千万んんん!?」


 思いきって打ち明けると、彼はとんきょうな声を上げた。


「ほらね? 思いっきり動揺してる」


 わたしは彼にショックを与えたくなくて、答えるのをためらったのだ。


「……大丈夫? 聞かなかった方がよかったんじゃない?」


 彼の動揺はまだ続いていて、わたしは彼がこのまま事故を起こしはしないかとヒヤヒヤしていた。


「だ……っ、大丈夫です。――それにしても、五千万とは……。絢乃さんお一人の分で、その金額ですか?」


「うーんと、金額だけでいえば一人分かな。でも、わたしはこんな大金ひとりじゃ使いきれないから、ママと六:四ロクヨンの割合で分けてるの。ちなみに、わたしが六ね」


 父までは一人でまるまる五千万円もらっていたらしいけれど、わたしの場合は高校を卒業するまでは母と二人で一人前の会長だったので、二人で分けることにしたのだった。そして、より強い権限を持っているわたしが六割の三千万円をもらうことになったのだ。


「なるほど……。ですが、三千万円も高校生にしてはかなりの大金だと思うんですけど。それも毎月入ってくるわけでしょう?」


「うん、そうなのよ。しかも、パパから相続した財産もあるわけだし、わたしの銀行口座の残高、今とんでもないことになってるの。信じられる? 女子高生の銀行残高が億単位って」


「……………………」


 彼は途方もない話に絶句していた。


「だからね、十八歳になったらクレジットカード作っちゃおうと思って。十八歳が成人年齢になるんだよね、確か」


「ええ、そうらしいですね。この春からでしたっけ」


 当時、新聞やTVのニュースで「四月から成人年齢が十八歳に引き下げられます」と報道されていたのを、わたしもチェックしていた。


 十八になれば、ローンやクレジットカードの申し込みもできるようになるし、親の承諾なしで結婚もできる。わたしはちょうど、二ヶ月後にその年齢に達するところだった。


「――ひとつだけ、大人の先輩として忠告させて頂いてもいいですか?」


「うん、何なりと」


「クレジットカードが作れたからって、ムダ遣いはダメですよ。……まあ、絢乃さんはしっかり者ですから、こんなことは釈迦に説法でしょうけど」


 彼の言葉はいつも真摯で実直で、学校の先生みたいだ。……う~ん、そこまで説教くさくはないかな?


「はい、肝に銘じます」


 わたしは笑いながらも、素直に頷いた。


 そして、わたしが彼の車に同乗する時助手席に拘る理由は、実はもう一つあった。それは、好きな人との距離が少しでも近い方がいいから。隣り合って話せて、彼の声がすごく間近に聞こえるこの距離感が、わたしはすごく落ち着けたのだ。

 でも、彼には口が裂けても言えないし、今も言っていないし、この先も多分言うつもりはないけれど……。


「――絢乃さん、今日もお疲れさまでした。足元に気をつけて降りて下さいね」


 篠沢邸のゲートの前に着くと、彼は自分が先に車を降りて、外からうやうやしく助手席のドアを開けてくれた。


「ありがとう、桐島さん。お疲れさま」


 わたしがちゃんと忘れ物もなく降りたことを確認してから、彼は助手席のドアを静かに閉めた。


「明日の放課後、またお迎えに上がりますので、学校が終わられる頃にメッセージを下さい。では、失礼します」


「うん、分かった。じゃあまた明日ね」


 彼はわたしが玄関へ向かうのを見届けた後、車に乗り込んで帰路についた。でも、彼は知らなかっただろうな。車に乗り込む彼の背中を、わたしもチラチラ振り返って見ていたことを。

 ……また明日。明日も彼に会える。そう思えるから、わたしは忙しくて大変な毎日でも「頑張ろう」と思うことができた。恋の力は本当に偉大だ。


「――ママ、史子さん、ただいま! お腹すいた!」


 わたしは元気よく玄関のドアを開けて、先に帰宅して待っていてくれた母と、家政婦の史子さんに大きな声で呼びかけた――。

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