恋も、仕事も ③

「――お待たせしました。さ、どうぞ」


 いつものようにトレーを手にして戻ってきた彼は、デスクの上にわたし専用のカップと大きめのおうぎ型にカットされた一切れのガトーショコラが載ったお皿を置き、フォークをお皿の上に添えた。


「ありがとう、桐島さん。――わぁ、これがさっき言ってたガトーショコラね。美味しそう!」


 コーヒーのいい薫りとともに、この日はチョコレートの甘い薫りもわたしの鼻を心地よく刺激してくれた。


「いただきます。……ん、美味し~い♪」


 冷蔵庫で保管されていたらしいケーキはヒンヤリ冷たくて、ホットコーヒーとの相性も抜群。高級品なのかチョコレートの味も濃厚でしっとりとしていて、甘めのカフェオレにピッタリだった。


 味覚がまだお子さまなわたしはもう少し甘い方が好みなのだけれど、これはこれで美味しかった。というか、いただき物に文句はつけられない。


「よかった、喜んで頂けたようで。お出しした甲斐がありました」


 彼はトレーを抱えたまま、ホッとしたように笑った。


「……ところで、貴方は休憩しなくていいの? どうせなら、遠慮しないで自分の分のコーヒーも淹れてくればいいのに」


 わたしはケーキを食べる手を止め、彼に訊ねた。

 コーヒー豆も道具も彼の自前なのだから、わたしに遠慮せずに好きなだけ淹れて飲んでもバチは当たらないのに。


「いえ、僕はいいんです。休憩は会長をお迎えに上がる前に頂いておりますし、僕は会長の幸せそうなご様子が見られるだけで十分ですので。お気遣い、感謝します」


「……そう?」


 ――彼はわたしに対して気を遣いすぎだと思う。今でこそだいぶ図々しさが出てきたような気がするけれど、そこまでヘンに気を遣われすぎるとこっちの方がやりにくくて仕方がない。


 実はこの時、わたしはケーキを頂きながらあることを考え込んでいた。バレンタインデーの贈り物を、チョコレートケーキにしようかやめておこうか、と。

 初めてのバレンタインデーでいきなり手作りケーキやクッキーは重いかな……なんて。


 そして、わたしがこうして無防備な状態でいたのに、彼はやっぱり何のアクションも起こそうとしなかった。……けれど、彼はこの時なぜかわたしの口元をじっと見つめていた。


「……? なに?」


 こ、これは……、もしかして恋愛小説とかによくあるキスされそうなシチュエーションだったり!? わたしの中に緊張が走ったけれど。


「……あの、非常に申し上げにくいんですが」


「うん。だから何?」


「会長、……口元にチョコついてますよ」


「……ええっ、ウソっ!?」


 困ったような彼に指摘され、慌ててコンパクトミラーで確かめてみると、確かに下唇のすぐ横にチョコレートケーキの食べカスが!


「わっ、ホントだ! それならもっとすんなり教えてよね!?」


「すみません……」


「ちょっとお手洗いで顔洗ってきますっ!」


 わたしは急に恥ずかしくなって、平謝りする彼を尻目に会長室内の専用トイレに駆け込んだ。


 よく考えたら、恥ずかしがる必要もなかったのだ。わたしのカッコ悪い姿を、彼はそれまでにも何度か目にしていたけれど、それで彼に幻滅されたことなんて一度もなかったのだから。

 洗面台の前に立ち、蛇口の水でチョコの汚れを洗い流すと、タオルハンカチで顔を拭ってため息をついた。


「はあ……、何なのよもう。緊張して損した」


 思っていた胸キュンシチュエーションではなかったことにガッカリしていたような、そうならなくてよかったとホッとしていたような。この時の気持ちを、わたしはよく憶えていない。


「……よし、取れた」


 鏡を覗き込み、キチンと洗い流せていることを確認すると、リップクリームを塗り直してからトイレを出てデスクに戻った。


「――ねえ、ちゃんと取れてる?」


 念のために、彼にもう一度確認したのはオトメ心からだった。――ちなみに、チョコの付着を指摘された時点で、すでにガトーショコラは食べ終えた後だった。


「はい、大丈夫です。本当にすみませんでした。デリカシーのないことを申し上げて……」


「もういいから。顔上げて」


 わたしは怒っていたわけではなくて、恥じらっていただけだったのだから。謝り続ける彼が気の毒になってきていた。


「……ねえ、桐島さんって今、彼女いるの?」


 わたしはそれまでずっと気になっていた疑問を彼にぶつけてみた。


 バレンタインデーが近かったせいでもあったけれど、わたしも社内で若い(といってもみんなわたしより年上だ)女性社員たちのウワサを耳にしていたのだ。かれがどうも、彼女たちの間では「彼氏にしたい男性社員ナンバーワン」らしい、と。

 もしも彼が彼女持ちだったら、わたしの初恋は実らない可能性大だった。だから、ある程度の心づもりはしておかないといけないと思ったのだ。


「彼女……ですか? もう大学時代から何年もいませんよ。かれこれ四~五年は〝おひとりさま〟ですかね」


「そう……、いないんだ?」


 その返事を聞いて、わたしは胸を撫で下ろした。


「じゃあ、好きな女性ひとは?」


「それは……………………、ノーコメントで」


「…………そう」


 彼は長い溜めを作った後、答えをはぐらかしたけれど、わたしには何となく分かっていた。その相手が自分である可能性が決してゼロではないことが。

 もしかしたらワンチャンあるかも! ――そう思うだけでニヤニヤが止まらなかった。


「会長、何かございました? 何だかものすごく嬉しそうなお顔をなさってますが」


「…………えっ!? ううん、別に何でもっ!」


 彼に不思議そうな顔で訊ねられたので、わたしは勢いよく首を横にブンブンと振った。……危ない危ない! もう少しでわたしの気持ちを彼に気づかれるところだった。


 わたしはきっと、恋愛に関しては慎重なタイプなのだと思う。お付き合いを始めるにしても、ちゃんとお互いの気持ちを告白し合って、順序を踏んで進めていきたいタイプだったみたいだ。

 だから、その順序をすっ飛ばしていきなりをされたら、わたしの中ではルール違反に当たるのだ。


 ――それはさておき。


「――ところで会長。デスクの上に広げられているその本は……。経営学の本ですよね? 本棚にあった」


 わたしがまだ読みかけだった本の存在に、彼がその時初めて触れた。


「うん、そうよ。わたしなりに色々と学んでおかなきゃなぁと思って読んでたんだけど……、なかなか難しいよね。ビジネス書って、書いた人によって要点がバラバラなんだもん。まぁ、違ってて当たり前なんだけど」


 わたしはコーヒーをまた一口飲んでから、肩をすくめた。


「一口に『経営者』っていっても、色んなタイプの人がいるもんね。生き方も考え方も違うだろうし、それこそ生まれ育った環境バックグラウンドによっても変わってくるだろうし……。わたしとパパでさえ違うんだもん、マネしようと思う方がムリなのよね」


 成功者が出版した本は、あくまでも参考程度にしかならない。あとは自分自身で考えて、経験を積んでいくしかないのが経営の奥深いところなのかもしれない。


「絢乃会長は真面目でいらっしゃいますね。もっと気楽にお考えになってもよろしいのでは?」


「それができれば苦労しないわよ。わたしの肩に、グループの何十万人っていう社員・従業員たちの生活がかかってると思うと」


 いい加減な経営をして、その大勢の人たちを路頭に迷わせることは、断じてあってはならないのだ。いくらウチが大財閥だからって、油断はきんもつである。


「ですが、会長おひとりで背負われているわけではないでしょう? お母さまも僕も、あなたをサポートするためにいるわけですから。もっと甘えて下さい。経営のことでしたら、村上社長にご相談されるのもよろしいかと」


「……あ、そっか。そうよね。あの人は経営の大先輩だもんね」


 村上さんを社長のポストに就けたのは父だったけれど、それは同じ部署の元同期で何でも相談しやすかったからでもあったらしい。

 彼はわたしのことも幼い頃からよく知ってくれているし、快く相談に乗ってくれるだろう。そう思った。


「――それにしても、絢乃会長は本当にご多忙でいらっしゃいますね。学業に、会長のお仕事に、その合間を縫って経営のお勉強まで……。真面目なのはけっこうですが、あまりごムリはなさらないで下さいね」


 この人は本当に、わたしのことを心配してくれているんだと思うと、彼の優しい言葉は心にジーンと伝わってきた。彼に恋をしていたわたしが、これでキュンとならないはずがなかった。

 恋というのは、こんな小さなことでも人の心を強く揺さぶってしまうのか――。


「心配してくれてありがとう。でも、わたしはまだ若いし、体力は……あんまり自信ないけど。まぁ、多分大丈夫!」


「僕が申し上げたいのはそういうことではなくてですね――」


「分かってます! 若いとかそういう問題じゃないってことでしょ? ちゃんと肝に銘じておきます!」


 みなまで言わなくても、彼の気持ちは痛いほどよく分かった。

 彼は父を突然亡くしたわたしの悲しみをよく理解してくれていた。つまり、心にはまだ大きな深手を負っている状態だったのに、体まで痛めつけてどうするのか、と。

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