恋も、仕事も ⑦

「――ふぁ~あ……」


 まだ夕方五時半。仕事を終えつつあったわたしは、はしたないと分かっていても大あくびを止めることができなかった。


「会長、今日はだいぶお疲れのようですね。睡眠はきちんと取れていらっしゃいますか?」


 パソコンに向かいながら船をこぎ始めたわたしに、貢が心配そうな言葉をかけてくれた。


「うん……、それは大丈夫。ただ学年末だし、会社オフィスにいる時間も長いし、やることいっぱいありすぎて疲れが溜まってるのかも」


 高校生活と仕事とを並行してこなしていたわたしは、世間一般の女子高生よりも規則正しい生活を心がけていたつもりだったのだけれど。

 わたし自身は「大丈夫だ」と思っていても、体は正直だった。会長就任以来、ずっとムリをしてきて疲労がちくせきされていたのだろう。

 やっぱり「若いから大丈夫」は、自分を過信しているにすぎなかったのだ。


「……分かりました。今日は少し早いですが、もう退社しましょう。明日も終業式で学校は午前だけでしたよね? 今日できなかった分は明日に回しても支障はないはずですから」


「そうね……、じゃあそうさせてもらおうかな」


 わたしは彼の助言に従い、パソコンの電源を落として帰り支度を始めた。

 彼は相変わらず、わたしの変化に敏感だった。バレンタインデー以降、ますますそれに拍車がかかったようで、わたしの些細な変化も見逃さないようになっていた。


   * * * *


「――絢乃さん、僕に遠慮せずゆっくり眠っていて下さいね」


 車に乗り込むとすぐにシートをリクライニングさせたわたしに、彼がそう言ってくれた。


「うん…………、分かった。おやすみ……」


 そう答えるやいなや、わたしはほんの数秒で眠り込んでしまった。

 彼がわたしにそうさせてくれる時には、いつも決まって遠回りをしてくれていた。もちろん、家で待ってくれていた母を心配させないように、キチンとその旨を連絡したうえで。

 それはもちろん、疲れているであろうわたしをムリに起こさないようにという彼の気遣いからでもあったと思うけれど、実は彼自身も言ったとおり、わたしの寝顔を長く眺めていたかったから……なのかもしれない。

 彼は彼で必死に闘っていたのだろう。まるでスキだらけで無防備なわたしを目の前にして、ケモノになってしまいそうになる自分自身と。――そういえば、里歩も言っていた。「男というのはいつ豹変するか分からない生き物だ」と。


 それでも、わたしは彼の紳士な部分を信じていたのに……。


 ――感覚的には三十分以上眠り込んでいた気がする。彼に話しかけられているのかどうかも憶えていないくらいの完全熟睡だった。

 その瞬間、車が一時停止したという感覚はあった。その数秒後、わたしの唇に何か柔らかいものが触れたことに気づいた。

 ……これは一体なに? 頭はまだ眠りから覚めていなくて、何が起こったのか理解が追いつかなかった。


「……………………んー……?」


 やっとのことで目を覚ますと、ぼやけた視界の中に彼の顔を捉えた。しかも、思いっきり至近距離に。


「桐島さん……? 車、どうして停まってるの?」


「今、大きな交差点で。信号に引っかかっていて……」


 わたしが目を覚ましたことに気づくと、彼はそう答えるなりサッと身を引いた。


「どうしたの? 顔真っ青だけど」


 彼の顔から血の気が引いていることに目ざとく気づいたわたしは、眉をひそめて彼に訊ねた。――彼はまさに、この世の終わりみたいな顔をしていたから。


「あ……っ、絢乃さん! 申し訳ありません! 僕はあなたにとんでもないことをしでかしてしまいました! 秘書失格です! もうクビにでも何でもして下さいっ!!」


「…………はあっ!?」

 

 血相を変えてひたすら謝り倒す彼に、わたしは何がなんだか分からなかった。


「ちょっと桐島さん、落ち着いて!」


 わたしは彼をどうにかなだめようとしたけれど、そのままガックリとうなだれた彼の耳にわたしの声は届いていないようだった。

 とにかく、何が起こったのかをわたし自身も理解しないと――。わたしは自分の頭の中に叩き込んである知識と、自分の身に起きた出来事を照らし合わせて考えてみた。


 ――その結果導き出された結論は、「彼にキスをされた」という事実だった。


「……桐島さん。さっきのアレね、実はわたしのファーストキスだったの」


「そうですか……。もしかして怒ってらっしゃいます?」


「別に怒ってなんかないよ。ただ初めてだったし、不意討ちだったからちょっとビックリしただけ」


「はあ……」


 それでも絶望的な声で返事をした彼は、わたしが本当に自分をクビにするものと思い込んでいるようだった。


「――ほら、信号変わったよ。今は運転に集中して。この話はまた後で、いい?」


「…………はい」


 彼はまだビクビクしたままで、わたしの顔色をチラチラと窺いながら再びアクセルペダルを踏みこんだ。


 

 好きな人にキスされて、いくら初めてでも怒ったりするわけがない。確かに不意討ちは卑怯だと思いはしたけれど、だからといってそれで彼を解雇するなんて論外だ。

 だって、彼にいなくなられていちばん困るのは、誰でもないわたし自身だったのだから。


 それよりも、わたしは何が彼にを取らせたのか、その理由が気になって仕方がなかった。

 彼は決して、わたしを困らせたり怒らせたりしたかったわけではないと思った。もし最初からそのつもりでやったのなら、あんなにも絶望するはずがない。つまりあのキスは、衝動的なものだったということ。

 それまでは理性で抑え込んでいた衝動が、あの瞬間に暴走してしまったのだろう。だからあんなに後悔していたのだ。

 でも、彼の中にそういう願望がまったくなかったのかと考えると、それも違うような気がしていた。


 それにしても、わたしは彼に何だと思われていたのだろう? キスをしたくらいで、あそこまで怯える必要なんてなかったのに。

 わたしはただ、彼のことが好きなひとりの女の子でしかなかったのに――。


「…………あの、絢乃さん。着きましたけど……」


 考え込んでいるうちに、車は篠沢家のゲート前に到着していた。


「うん。――でもちょっと待って。桐島さん、さっきの話の続きをしましょ。貴方の言い分をちゃんと聞かせてほしい。どうしてあんなことしたの?」


 わたしは車を降りず、助手席で腕組みをして運転席にいた彼を見据えていた。

 彼はそんなわたしが怖かったらしく、オドオドしながらしどろもどろに弁解を始めた。


「…………はい。あのですね、先ほどの僕はどうかしていたんです。その……何と言いますか、魔が差したというか血迷ったというか……トチ狂ってしまったと言いますか――」


「ご託はけっこう。っていうか、全部意味おんなじじゃない」


 彼の言い訳は全部かよった意味の言葉だったので、わたしはすかさずツッコミを入れた。


「あ……、ですよね。すみません。とにかく、本当にもう衝動的にあんなことをしてしまったので、自分でもどうしてあんな行動を取ってしまったのか今は頭が混乱していて。ですが、決して許されないことをしたのは分かっています。ですから、僕をクビにするとおっしゃるなら、それは仕方のないことだと――」


「クビになんかしないわよ! するわけないでしょ? 貴方に辞めてもらっちゃ困るの。だからそんなに怯えないで。悲観もしないで! わたし、ホントに怒ってなんかいないんだから」


「…………ほ、本当に……怒ってらっしゃらないんですか?」


「クドいなぁ! さっきからそう言ってるじゃない!」


「……ですよね。ハイ」


 しつこく「怒っていないか」と確認してくる彼に、わたしはイライラしていた。……だから、そんなに怯えなくてもいいってば! と。


 でも、彼がそこまでわたしの機嫌を気にしていたのは、わたしに嫌われたくなかったからだ。それくらいのことは、さすがに恋愛初心者のわたしにも察しがついた。――それも、仕事上の関係だけではなく、きっと一人の異性としても……。


 それまでは、里歩から指摘されても「まさか」と頑なに否定していた可能性も、この時には否定できなくなっていた。


「……ねえ、桐島さん。ひとつだけ、訊いてもいい?」


 まさか、自分からこんな質問をぶつける日が来るとは思わなかった。


「はい、……何でしょうか?」


「貴方って、わたしのこと好きなの?」


 わたしは彼をまっすぐ見据え、思いっきり直球で訊ねた。元々回りくどいのがキライな性分だし、恋愛経験が皆無だったのでこういう時、オブラートに包んだ言い方を思いつかなかったというのもあった。


「え?」


「ねえ、どうなの?」


 彼が答えるのをためらったので、焦れたわたしはさらに追い討ちをかけた。


「えーっと、それは…………」


 そう言ってから数十秒が経ち――、結局彼は答えてくれなかった。


「…………すみません。では、また明日学校までお迎えに上がります。先ほどのはもうお忘れ下さい。お疲れさまでした」


 彼は一方的にそう言ってしまうと、さっさと車外に出て助手席のドアを開けた。


「〝暴挙〟って……。ちょっと待って! 話はまだ終わってな――」


「お疲れさまでした」


 彼はもう一度ニッコリ笑ってそう言うことで、わたしの抗議のセリフを遮った。それはわたしに「早く降りてくれ」と言っているようにも聞こえた。


「…………分かったわよ。お疲れさま」


 釈然としないまま車を降りると、彼はわたしをチラリとも見ずにさっさと運転席に収まり、帰っていった。きっと、わたしと目を合わせるのが気まずかったのだと思うけれど……。


「――何なのよ、もう……」

 

 わたしは彼の愛車を見送りながら、独りごちた。


「好きなら『好き』って、どうして言ってくれないの……?」


 言葉では拒まれたような気がするのに、唇には彼の唇が触れた生々しい感触が残ったまま。わたしはモヤモヤと消化不良の状態で、家の中へ入っていったのだった――。

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