第3章 秘密の格差恋愛

会長としてすべきこと ①

「――絢乃さん、すみません」



 せっかくやっとのことで想いが通じ合ったと思ったら、貢は突然わたしに謝った。


「ん……? 『すみません』って何が?」


 わたしは彼から体を離すと、首を傾げながら彼の顔を覗き込んだ。理由も分からずに謝られても、一体何のことやらさっぱり分からない。


「いえ、あの……。もしかしたら僕は、絢乃さんが僕よりもっといい男性と出会う機会を奪ってしまったんじゃないかと思いまして」


「そんなこと、あるわけないじゃない! さっきも言ったでしょ? 貴方が初恋の相手でよかったって。貴方よりいい男性ひとなんて、これから先も絶対に現れないから」


 わたしは胸を張って断言した。


 もしも、彼ではなく別の若い男性と知り合っていたら、わたしはきっとその人とは恋に落ちなかったはずだ。彼だったから、わたしは惹かれたのだ。これだけは紛れもない事実だった。


「そ……そうですよね。ハイ。……よかった」


 彼はわたしの口からちゃんと聞けたことで、やっと安心したようだった。


「……実はね、わたしも昨夜、里歩に電話したの。で相談に乗ってほしくて」


「えっ、そうなんですか?」


「うん」


 貢は驚いていた。彼が悠さんおにいさまに相談していたように、わたしも親友である彼女を頼っていたことが分かったからだろう。


「だからね、さっき『あ、この人もわたしと同じなんだ』って思ったの」


「そうですか……。そりゃ同じですよ。僕だってあなたと同じ人間ですから。ただ年上というだけで、まだまだ人として半人前なんですよ」


 そんなことはわたしもよく分かっている。彼がそんなにできた人じゃないことくらい、百も承知だ。だからこそ、わたしは彼のことを放っておけないくらい愛おしいんだもの。


「うん、知ってるよ」


 だから、わたしはもう一度自分から彼にキスをした。



「――ところで桐島さん。ひとつ、貴方に念押ししておかなきゃいけないことがあるんだけど」


「はい。何でしょうか?」


 これはわたしたちカップルにとって、すごく大事な話だった。他の人が聞いたら、そんなに大事なことではなかったかもしれないけれど。


「わたしたちが付き合い始めること、社内では秘密にしておきたいの。そのことを貴方も了承しておいてほしくて」


 別に、わたしと彼との関係は不倫でも何でもないし、法に触れるわけでもなかったのだけれど。前にわたし自身が気にしていたことを、彼にも打ち明けた。


「今のところ、このことを知ってるのはママと里歩だけなんだけど。二人は口が堅いから問題ないの。――でも、他の人たちもそこまで信用していいかどうかはちょっと自信がなくて」


「そうですよね……。今はマスコミやメディアだけじゃなく、どこの誰でも気軽に情報を発信できる時代ですからね。ましてや、絢乃さんはセレブですから。社員が何気なくSNSで発信した情報が、どこからマスコミに流れるか分かりませんもんね」


「〝僕と違って〟は余計だけど。余計な噂流されたり、冷やかされたりしたら貴方だって仕事がしにくくなるでしょ? だから、オフィス内ではなるべく恋愛モードは封印するようにしましょう」



 わが社の女性社員たちはウワサ好きなのだ。特に、彼が所属している秘書室のお姉さま方は業務に関する守秘義務こそ守るけれど、それ以外の男女問題などにさといときている。

 彼女たち(男性もいるけれど)を信用していないわけではないのだけれど、念には念を入れて、ということだった。


「そうですね。分かりました」



 ――よくよく考えれば、この会話だって社内の他の人に聞かれればあやうい内容で、わたしたちはこれだけでも危ない橋を渡っていたと思うのだけれど。幸いにも、この間は誰ひとりこの部屋を訪ねてこなかった。


「わたし、貴方にはこれ以上傷付いてほしくないの。今の部署に異動する前にもつらい思いをしてたみたいだし。――あ、そうだ! 桐島さん、ちょっと来て」


「……はあ」


 わたしはそこまで言うと、彼を再び応接スペースに呼んだ。


「――何ですか? 改まって」


「わたしね、貴方が苦しめられてたパワハラのこと、もっとよく知りたいの。わたしがこの組織のトップとして何とかしなきゃいけないと思うから」


「はあ」


 経営者として、社員を苦しめる問題がそれまで放置されていたことは由々ゆゆしき事態だとわたしは受け止めていた。これは見過ごすことができない問題だったのだ。


「だから桐島さん、貴方が被害に遭ってたパワハラについて、もっと詳しく話してくれないかな? 具体的にどんなことをされてたとか、何を言われてたとか。思い出したくないことを掘り返すようで申し訳ないんだけど……」


 彼をもっと苦しめてしまうかもしれない……。わたしは良心が痛んだ。パワハラの被害者当人である彼に話させることは、残酷以外の何ものでもなかったはずである。

 でも、話を聞かなければ彼のことも、他に嫌がらせを受けていた社員たちのことも守れないと思ったわたしは、心を鬼にしたのだった。


「……いえ、大丈夫です。僕の話が会長のお役に立てるんでしたら」


 わたしの心配を表情から読み取ったからなのか、彼は聴取に協力してくれた。


「ありがと、桐島さん。――じゃあまず、パワハラをしてたのは、総務課長の島谷さんで間違いないのね?」


「はい。間違いないです」


 やっぱりそうだ。わたしの予想は的中していた。


「それじゃあ、彼のパワハラ被害に遭っていたのは貴方ひとりだけだった?」


「…………いえ。多分、僕以外にもいたはずです。前に久保くぼが言っていたんです。『お前だけじゃない』と。その時は、ただの気休めで言ってくれているのかと思ったんですが」


「う~ん、やっぱりそうか……。島谷さんなら、一人だけにピンポイントで嫌がらせするようなことはないと思ったのよね」


 久保さんは今も総務課に残っている。わたしが会長就任を発表した株主総会の時に司会を務めてくれていたけれど、あの時の貢と彼との親しげな様子からして、彼の言葉がただの気休めとは思えなかった。

 ということは、久保さんが言ったことは事実だったのだろう。


「――で、具体的にはどんな嫌がらせをされてたの? 思い出せる限りで構わないから教えてくれる?」


 彼から話を聞くうえで、これにいちばん良心のしゃくをおぼえた。だって、まるで彼の心の傷を深く抉るような問いだったから。


「えーっと……、自分が任された仕事を押し付けられたり、ミスの責任を被らされたり……。あと、残業や休日出勤は当たり前のように命じられましたね。それなのに、手当の申請はされていなかったり」


「何それ!? ひどい……」


 彼の中ではもう終わったことだったのか、淡々と語られたハラスメントの実態に、わたしは深いいきどおりを感じた。我が一族のの方がまだマシだとさえ思った。



「……ねえ、人事部はこの件について、何か対策を講じてくれた?」


 これはもはや大問題だ。内部の人間である(まだ新参者しんざんものだけれど)わたしでさえ知らなかったのだから、もちろんおもて沙汰ざたにはなっていなかったはずである。――実際問題、そうだったのだけれど。

 それでも、社員思いの山崎さんが何もしないで手をこまねいているとは思えなかった。


「僕は被害の相談に行っていなかったんですが、他の同僚や先輩たちは人事部に相談していたそうなんです。でも、『証拠がないから』と島谷課長がすべてうやむやにしてしまったらしくて」


 被害者たちの証言だけでは、パワハラの証明は難しいのだろうか? ――確かに、客観的にパワハラが「あった」と判断するのは厳しいかもしれないけれど。


課長あのひとはずる賢いうえに外面そとヅラだけはいいので、人事部の人たちもついそちらの証言を信じてしまったそうで……」


「そんな……、許せない! 自分がやったこと、全部なかったことにしようとするなんて卑怯よ!」


 わたしは無性に腹が立って、気がつけば貢相手に怒鳴っていた。


「……あ、ゴメン! 貴方に怒ったって仕方ないよね」


「いえ、僕なら平気です。会長がお怒りになるのも当然ですから」


「…………うん」


 彼の落ち着いた態度が、わたしの中の怒りという熱を冷まさせてくれた。



「――さて、問題はこの件をどう解決するか……よね」


 ひとまず冷静になったわたしは、改めて問題と向き合った。


「とはいっても、わたし一人でできることなんて限られてるし……。他の人の意見も聞きたいなぁ」


 それに、貢以外の社員たちの被害状況も把握しておかなかれば――。そのためには、この件にもっとも関わっている人に話を聞く必要があった。


「――桐島さん、わたしちょっと出てくるね。貴方は給湯室で、食器の後片付けよろしく」


「……えっ、またですか!? 今度はどちらに!?」



 彼は目を剥いた。〝〟と言ったのは、「また留守番ですか!?」という意味だったのだろう。


「人事部よ。この問題のことをいちばんよく知ってるのは人事部長やまざきさんでしょ?」


「あ……、そうですよね。僕はてっきり、これから島谷課長のところへ怒鳴り込みに行かれるのかと」


「行くわけないじゃない。これ以上問題をややこしくしてどうするのよ」


「…………そうですよね」


 彼を守りたくてやろうとしているのに、そのことでかえって彼を追い詰めてしまう結果になったら、それこそ本末転倒である。


「わたしは会長として、そして貴方の恋人として、わたしにしかできない方法で貴方を守るから。――じゃあ、行ってくるね」


「そういうことでしたら……分かりました。行ってらっしゃいませ」


 彼は納得してくれたらしく、恭しくわたしに頭を下げて見送ってくれた。



   * * * *



 ――人事部は、三十階にある。そして、人事部長である山崎さんは、自身の執務室を持っていた。



 わたしはまず、部長室の前に席を構えている秘書の上村さんに声をかけた。


「――お疲れさま。山崎さん、まだいらっしゃる?」


「あっ、会長! お疲れさまです! ――ええ、いらっしゃいますよ。お声がけいたしますので、少々お待ちください」


 彼女はわたしに断りを入れてから、人事部長室のドアをノックした。ちなみに、この部屋のドアも木製だけれど、会長室ほどの重厚感はない。


「――山崎部長、今よろしいでしょうか。会長がいらしておりますが……」


「会長が? ――分かった。入って頂きなさい」


 しばらく待たせてもらっていると、室内から渋い男性の声で返事があった。この声の主は、紛れもなく山崎さんだった。


「どうぞ、お入りください」


「ありがとう。――失礼します」


 彼女がドアを開けてくれたので、わたしは遠慮なく入室した。

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