会長としてすべきこと ②

「これは会長! こんな時間にどうされたんですか? ――どうぞ、立ち話も何ですし、ソファーへおかけ下さい」


 彼は椅子から立ち上がった状態でわたしを迎え入れてくれて、応接スペースの黒い革張りのソファーを勧めてくれた。


「ありがとうございます。――ごめんなさいね、終業時間の間近に突然おジャマしちゃって。貴方にちょっと急ぎの話があったものだから」


「急ぎのお話ですか。――上村君、会長にお茶を差しあげて。コーヒーの方がよろしいですか?」


「あ、いいの。すぐに失礼しますから。――ありがとう。貴女あなたは元のお仕事に戻って」


 山崎さんは続いて入室してきた秘書の上村さんにお茶汲みを命じようとしたけれど、わたしはそれを丁重にお断りした。あくまでも、お二人に気を遣わせないように、それでいてそれぞれの顔を潰さないように気をつけて。


「分かりました。失礼いたします」


 上村さんはわたしに頭を下げ、退室していった。



「――それで、会長。〝急ぎのお話〟とおっしゃいますと……」


 山崎さんと二人になったので、わたしはさっそく本題を切り出した。


 ただでさえ彼は終業時間前でバタバタしている時だったので時間がなかったのに、ムリを言ってわざわざ時間を取ってもらったのだ。


「じゃあ単刀直入に言いますね。わたしが伺ったのは、総務課で起きていたパワハラ問題について貴方にお訊きしたいことがあったからなんです。――山崎さんはご存じでした?」


「ええ、もちろん存じております。総務課の社員が何人も――いや、九割の人間が毎日のように相談に来ておりましたからね。労務災害の申請をしたい、と」


「そうですか……、やっぱり」



 わたしの予想がこれまた当たっていた。貢や久保さんが言っていたことは本当だったのだ。

 総務課の社員の実に九割が、連日相談に来ていたというのだから、人事部の人たちもさぞかし大変だったろう。


「山崎さん、つかぬことを伺いますけど。――その相談者の中に、桐島さんはいました? 現在わたしの秘書を務めてくれている、桐島さんです」


 これは個人情報だから、山崎さんもわたしに打ち明けるのが難しいことは重々承知のうえだった。


「桐島君……ねえ。いえ、そういった相談はなかった気がしますがね。転属の相談には来ておりましたが、その時にもパワハラの話は出ていなかったような……。――おっと、失礼しました」


「……そう、ですか」


 腕組みをして唸っていた山崎さんは、相手がわたしだということを思い出して慌てて姿勢を正した。



 ――かれはパワハラ被害のことを言えなかったのか、それともあえて言わなかったのか。


 わたしには分からないけれど、もしも彼が上司しまたにさんからの報復を恐れていたから言えなかったのだとしたら、それはそれで由々しき事態だといえた。

 幸いにも、彼はわたしと出会ったことで気持ちが楽になり、転属を決めてパワハラから解放されたけれど。他の社員たちはまだその苦しみから解放されていなかった。まだ終わっていなかったのだ。


 これは、早急さっきゅうに対策を講じなければ……。



「――山崎さん。もうすぐ新年度も始まりますし、わたしは新入社員が入る前に、この問題は解決した方がいいと思うんです。早速この件について話し合いたいんですけど、山崎さんは明日の朝、ご都合はいかがですか?」


「大丈夫……だと思いますが。いつものとおり、社長・常務・私と四人でミーティングを行うということでよろしいですね?」


「ええ、もちろんです。広田さんと村上さんにも声をかけてみますけど――あ、ちょっと失礼します」


 わたしはブレザーのポケットからスマホを取り出し、貢に電話をかけた。

 彼は秘書室の所属だから広田さんとも連絡が取りやすいし、大学時代の先輩だったという小川さんを介して村上さんにも連絡が取れる。こういう時、彼のポジションを利用しない手はないと思ったのだ。


「――もしもし、桐島さん。今大丈夫?」


『ええ、たった今給湯室から戻ってきたところですが。――会長は今どちらにいらっしゃるんですか?』


「人事部長室よ。山崎さんのところ。――あのね、急な話で申し訳ないんだけど、明日の朝イチでミーティングをやるから。山崎さんはご都合大丈夫らしいから、村上さんと広田さんには貴方から連絡しておいてくれないかな?」


『ミーティング? ……ああ、例の件で、ですね』


 さすがはわたしの秘書。そしてこの件の当事者だ。呑み込みが早い。


「そう。お願いね。村上さんご本人に繋がらなかったら、秘書の小川さんに伝えておいてくれて構わないから。――広田さんには連絡つくよね?」


『はい、大丈夫だと思います。分かりました。――あの、一度こちらにお戻りになりますよね?』


 彼はわたしがあのまま直帰するとでも思っていたのだろうか? でも、バッグは会長室に置いたままだったし、出社時と退社時の送迎は彼の務めだったので、わたしがひとりで帰宅する可能性はほぼゼロに近かった。


「うん。もう話は終わったから、これから戻るわ。じゃあ、また後で」


 電話を切ると、わたしは山崎さんに改めて言った。


「それじゃ、わたしは上に戻ります。明日のミーティング、よろしくお願いしますね」


「はい。わざわざお疲れさまでございました」


 人事部長室を出ると、わたしは上村さんを始め、まだお仕事中だった社員のみなさんに「おジャマしました」と声をかけてから、人事部を後にした。

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