恋も、仕事も ①

 ――会長に就任した翌日から、さっそくわたしの仕事がスタートした。


 その後数日間はまだ学校は忌引きの期間中だったため、朝からの出社となった。服装はもちろん制服姿だ。


 わたしが朝から出社できる日には、母は出社する必要がないのでわたしは彼の送迎を独占できる。というわけで、念願だった彼の新車での助手席デビューが実現した。


「――絢乃会長、おはようございます」


「おはよう、桐島さん。今日から本格始動ね。お互いに頑張りましょう!」


 コートを脱ぎ、助手席に収まったわたしはいそいそとシートベルトを締めた。


「――やっぱりいいなぁ、ここから見る景色は」


「会長、嬉しそうですね。そんなに助手席がよかったんですか?」


 ハンドル操作をしながら、ご機嫌なわたしに訊ねた彼も何気に笑顔だった。


「後部座席も十分快適だったわよ。広々してたし、乗り心地もよかった。でも、やっぱり落ち着かなくて」


「……珍しいですよね、大企業のトップで後部座席が落ち着かない人って」


「そういえば……そうだね」


 父もそうだったけれど、大企業のトップといえば高級リムジンや黒塗りの外車の後部座席にデデンと座っているイメージ。……まあ、父も座っていたかどうかは分からないけど。

 そんな人が多い中で、「後部座席より助手席の方が落ち着く」という人は珍獣並みにレアだろう。まして、わたしは日本屈指の大財閥の総帥なのに。


「なんか、そうやってってるのってわたしのキャラじゃないのよ。会長の椅子に収まっても、わたしは常に謙虚な姿勢でいたいの」


「それはご立派なお心がけだと僕も思います」


「ありがと。あと、常に感謝の気持ちを忘れないようにすることも」


「はい」


 わたしがそう心がけていたいのは、自分一人の力でこの地位にいられるわけではないと自覚しているからだ。

 彼はもちろんのこと、母や村上さんや、わたしの考え方に賛同してくれた人たちがいたから、わたしは会長になれたのだ。もちろん、父の遺言があったからということは言わずもがなだ。


「――昨日は就任会見、お疲れさまでした。あの後、すごい反響がありましたよ。ネットやSNSにも関連のコメントが多数書き込まれているそうで」


「うん、わたしも見たよ。SNSに『昨日の会見た』って投稿がいっぱい上がってて、『制服会長カワイイ!』とか『JK会長いいね!』とか、好意的なコメントが多かったかな」


 就任前までは、わたしはこうして騒がれたり目立ったりすることがあまり好きではなかったけれど。好意的な意味で騒がれるのはイヤでもなかった……かも。


「でも、これでうぬれてたらダメなのよね。気を引き締めて仕事に励まなきゃ!」


 人間というのは、なまじ有名になると舞い上がってつい勘違いしてしまう生き物なのだ。だから、こういう時にこそ謙虚な気持ちを忘れてはいけないのである。


「そうですね。僕も同感です。――さて、会長。本日のスケジュールですが」


「はい、どうぞ」


 彼の口調が〝秘書モード〟に切り替わったので、わたしは姿勢を正して彼の言葉に耳を傾けたのだった。



   * * * *



 ――それから一ヶ月ほど、わたしは高校生活と会長の仕事とで忙殺されていた。


 まずは各取引先への挨拶回り。

 篠沢商事の取引先だけでもかなりの数があるけれど、わたしの負担が重くならないように秘書である彼が主だった十数社に絞り込んでくれたおかげで、それは忌引きの期間中に済ませることができた。


 そして、新聞社や経済誌・果てはネットニュースの取材。これも彼が数を最低限に絞ってくれたけれど、先方のスケジュールの都合もあって忌引きの期間中にすべてを受けることは叶わず、放課後に受けることになった取材も数知れず……。これは仕方がない。


 そしてその合間に、各部署から届く決裁の必要な案件メールへの返信や各部署の視察や陣中見舞い、会議などなどの雑務もこなし……というなかなかのハードスケジュール。それでも、彼や母と相談しながらこなしていたおかげで、仕事にも学校生活にも支障が出ない程度にはどうにかなっていた。


 もっと大変だったのは彼だと思う。朝から母の秘書としても働き(母には専属の秘書がいなかったのだ)、わたしを学校まで迎えに来て、わたしの秘書という本来の業務を行って、帰り――他の社員の定時より一~二時間遅い退社時間にはわたしを家まで送って行って……という日常をこなしていたのだから。


「いいんですよ、会長。これは僕が自分で決めたことなんですから」


 わたしが「ゴメンね」と謝るたびに、彼はそう答えていた。彼には本当に、感謝と申し訳ないという気持ちしかない。


 そんな日常にもどうにか慣れてきた頃――。バレンタインデーが近づいてきた頃だった。

 わたしは父がやり残した仕事に取りかかることにした。篠沢商事、そして〈篠沢グループ〉全体の改革に。


 その数日前、日々の雑務に追われる合間に、わたしはデスクのパソコンに保存してあったある文書ファイルを見つけたのだ。開いてみると、それは父がこのグループや会社の中で改革したいポイントが事細かに書かれたもので、その内容は些細なことから重大なことまでに渡っていた。

 ちなみに、このファイルの存在はまだ母にも、秘書である彼にも伝えていなかった。


「――ねえ、桐島さん。ちょっと来て、これ見て?」


 わたしは自分のデスクでメールの返信を手伝ってくれていた彼を会長のデスクまで呼び、彼にパソコンのディスプレイを見せた。

 ちなみに、この日は確か木曜日だった。


「はい。……会長、これは?」


「このパソコンに保存されてたの。多分、パパが生前作ってたこのグループの改革案だと思う」


「へえ……、源一会長がこれを……。内容もすごいですね。この会社にこんなに改善点があったとは、実際に三年近く働いていた僕も知りませんでした」


 彼も心底驚いていた。わたしが会社経営に携わり始めるずっと前から勤めていた彼にすら、その内容は驚くべきものだったらしい。


「多分、社員からトップっていう立場になったパパだから気づけたんじゃないかな。ずっと同じ立場にいたら気づけないことにも、視点が変われば気づくってこともあるし」


「なるほど……」


 当たり前だと思っていたことが、視点を変えれば当たり前ではなかったのだと気づく。――父はそうして、様々な改善点を発見することができたのだと思う。


「――あれ? パパも考えてたんだ。会社で行われる誕生日パーティーを廃止すること」


 画面をザッと目で追っていて、わたしはそこに注目した。


 会社の経費を使って大々的に催される会長の誕生日パーティーは、わたしも廃止すべきだと考えていたのだ。それは立派な経費のムダ遣いだし、公私混同になるという理由からなのだけれど。

 それなら、その分に確保されていた予算を別の目的に使ったり、どこかに出資したりした方が会社のためにもなるし、社会の役にも立つというものだ。


 ――たとえば、彼がわざわざ自腹で購入してくれているコーヒー豆の代金を経費で落とすとか……。


 味にうるさいわたしには分かるのだけれど、これはなかなかいい豆を使ってくれている。代金もけっこう高額に違いない。その分を、ローンの返済もあって大変な経済状況の中、自分のふところを痛めながら支払ってくれている彼を、わたしはどうにか助けてあげたかったのだ。

 でも、遠慮深い彼のことだから、「そんなお気遣いは無用です」と断られる可能性が高かったので、わたしも言うのをためらっていたのだけれど――。


「お父さま、ということは会長も同じお考えなんですか? 会長のお誕生日パーティーの廃止について」


「うん、実はそうなの。パパも気にしてたのね……。自分の誕生日が社内行事と化してて、そのせいでパワハラまがいの問題まで起きてたこと」


「…………そのようですね」


 彼の表情が一瞬曇ったように見えたのは、きっとわたしの気のせいではなかった。


「ですが、廃止されてしまうというのは……。今年だけ、会長が喪に服されているので中止というならまだ分かりますが」


「それじゃダメだと思う。会長個人のお祝いに会社の予算を割くなんて、それこそ公私混同でしょ? 古きしき慣習は、ここでスッパリやめちゃうべきなのよ。お祝いしてくれるみんなの気持ちはホントにありがたいと思ってるけど、その気持ちだけで十分。何も大ゲサに祝ってもらう必要なんてないの」


「……はぁ」


 彼は分かったような、イマイチ要領を得ないような相槌を打った。

 彼の中ではいい思い出に変換されていたようだけれど、わたしと出会ったあの夜、彼はパーティーに出席していたはずである。それを思い出してほしかった。

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