戦闘服は制服! ⑤

 ――それから十数秒後。


「――会長、お待たせしました。淹れたてをどうぞ」


 通路を通って会長室に戻ってきた彼は、手にしていたトレーから上品なピンク色のコーヒーカップをデスクの上にそっと置いた。

 カップはホカホカと湯気を立てていて、立ちのぼる質のいいコーヒー豆の薫りがこうをくすぐった。


「わあ、すごくいい薫り! ありがとう。いただきます」


 カップを持ち上げると、そんなに熱すぎないことが分かった。……キチンと適温を守って淹れてある。

 彼はわたしが猫舌だということを、ちゃんと憶えてくれていたようだ。

 一口すすってみると、リクエストどおりの優しい甘みが口の中に広がり、その後にコーヒーの苦みとスッキリとした薫りが鼻を抜けていった。


「……どうですか、お味は。ちゃんとお好みどおりになっているでしょうか?」


「うん、美味しい! こんなに美味しいコーヒー飲んだの、初めてかも。まるでプロのバリスタが淹れてくれたみたい」


 おずおずと感想を訊いてきた彼を、わたしはベタ褒めした。


「っていうか、もしかしてホントにバリスタ目指してたことあった?」


「……はあ。高校生の頃までは、本気で資格を取ろうと思ったこともありましたが。その……諸事情により、それは考えるのをやめました」


「…………そう」


 その〝諸事情〟が何なのか分かったのはそれから二ヶ月以上も先のことだったけれど、家庭の事情なら首を突っ込まない方がいいと判断し、わたしもそれ以上の詮索はやめておいた。


「ですが、道具だけは一式揃えてあったので、給湯室に持ち込ませて頂いています。……ちなみに、僕専用で」


「え……。ってことは、このコーヒーって自前の道具で淹れてくれたの?」


「はい、そういうことになりますね」


「でも、どうしてそこまで……」


 お茶みなんて、秘書の本来の仕事ではないのに。それこそ、コーヒーサーバーをリースする方が効率もコスパもいいのに。彼はどうしてそこまでしてくれるのか、わたしにはまったくもって分からなかった。


 ……いや、里歩から「桐島さんも絢乃のことを好きなんじゃないか」と指摘されたことはあったけれど。ずっと頭の中では「そんなわけないじゃない」と否定し続けていたのだ。


「それは……、もちろん絢乃会長に喜んで頂くためです。自分がお仕えするボスに気持ちよくお仕事をして頂けるよう、最善を尽くすことも秘書の大事な務めですから。……という理由ではいけませんか?」


「いけない……ことはないけど」


 この答えは建前で、彼の本音は他にあるのではないかとわたしは思った。なんだかしっくりこない。ちょっと腑に落ちない。

 いちばんしっくりくるのは、やっぱり「わたしのことが好き」だから……?


「…………まあ、貴方がそう言うならそういうことにしておくわ」


 とりあえず、この場はわたしが折れることにして、ひたすらカップを傾けた。彼の気持ちは、彼自身から聞かないと意味がないと思ったから。


「畏れ入ります。――ところで、こちらが午後の記者会見用に作成した原稿です。お飲みになりながらでけっこうですので、目を通しておいて頂けますか?」


 彼は一旦自分のデスクに戻り、ダブルクリップでじられたA4サイズのコピー用紙数枚をわたしに手渡した。


「分かった。さっそく読ませてもらいます」


 わたしはカップ片手に、ペラペラとそれをめくっていった。

 書かれていた文章はすごく丁寧で、想定される質問とそれに対する答え方までもうされていた。


「……ねえ、ここに載ってる以外の質問が来た時はどうするの?」


 わたしはふと浮かんだ疑問を口にした。

 マスコミ関係者の中には、もっと意地の悪い質問をぶつけてくる人だっているはずである。それは想定に入っていなかったのだ。


「それはあくまでも参考程度にして頂いて、会長ご自身のお言葉で述べられるのがいちばんよろしいかと。なんでしたら、その原稿の内容はすべて無視されても構いませんので」


「それじゃ、原稿作った意味ないんじゃない?」


「それはまあ、そうなんですが。いいんです、それで。秘書の仕事なんてムダなことがほとんどらしいですから。これは小川先輩から聞いたことなんですが」


 わたしがツッコミを入れると、彼は悟ったように肩をすくめた。


「小川さんが……ねぇ。貴方と彼女、仲いいのね。大学の先輩・後輩なんでしょ?」


「そうですが……、それが何か?」


 わたしの訊ね方は、ちょっとトゲがあったかもしれない。無意識に彼女にヤキモチを焼いていたのだろうか?


「…………ううん、何でもない」


 ちょっと自己けんに陥って、わたしは首を軽く横に振った。……ダメダメ、気持ちを切り換えないと!


「……ま、あとは会見の場で出たとこ勝負ってことでいいかな。他には何かない? 今のうちにやっておけること」


「そうですね……、ではパソコンのログインのしかたを覚えて頂きましょうか」


 彼はそう言うと、わたしに「まずは電源を入れて下さい」と指示した。


「それくらい、わたしにもできるわよ!」


 わたしはぶうたれながら電源ボタンを押した。――これでも一応、現役のデジタル世代だ。バカにしないでほしい。


「はい。そうしましたら、次にIDとパスワードを入力して下さい。IDは、そのIDカードに刻字されている十二ケタの数字です。パスワードは本体に貼り付けてある付箋に書かれているそれです」


「了解! ……はい、できた♪」


 わたしはスラスラとキーボードを叩き、エンターキーを押した。


「会長、お若いですね。覚えられるのがお早い……」


「若いって……、わたしと貴方じゃそんなに歳も離れてないじゃない。桐島さん、今年でいくつよ?」


 まるでおじさんみたいなことを言って感心している彼に、わたしは呆れてツッコんだ。


「僕ですか? 五月で二十六です」


「だったら、わたしと八つしか違わないでしょ? 貴方も十分若いじゃない」


 二十代なら十分〝若者〟である。何をそんなに気にしているんだろうと、わたしはおかしくなった。今どき、三十代だってまだ〝おじさん〟と呼ぶには早すぎる。


「……えーとですね、会長。パスワードは先代会長――つまりお父さまが設定されたものなので、お好きに変更して下さって構いませんが。いかがなさいますか?」


 父が設定したパスワードは、〈Ayanoアヤノ0403〉、つまりわたしの名前と誕生日だった。ここにも父の生きていたあかしが遺されていたのだ。


「ううん、変えないでこのまま使う。こんなの、変えるのがもったいないよ」


 わたしはためらわずに即答した。このまま使用した方が、父も喜んでくれると思ったのだ。


「分かりました。――今のところはこんなものですかね。会長、もうすぐ昼休みに入りますが、昼食はどうされますか?」


 外へ食べに出るか、社員食堂で済ませるか。選択肢は二つだった。


「せっかくだから、社食で食べようかな。視察も兼ねて。――もちろん桐島さん、貴方も一緒にね」


 まだ学生だったわたしには、社員食堂でランチを摂ることが憧れだった。

 篠沢商事の社員食堂は外部委託ではなく、グループの子会社である〈篠沢フード〉が運営していて、メニューのバリエーションも豊富なことで有名なのだ。学生の身分でそれが堂々と味わえるのは、会長になった役得と言ってもいいかもしれない。


「僕もご一緒していいんですか? 畏れ入ります。……では、お言葉に甘えて」


 彼にとってはそれが普段どおりのことなのに、会長わたしと一緒というだけで何だか恐縮していた。わたしはむしろ、こんなことを普段からしていた彼が羨ましくて仕方がなかった。


「じゃあ決まりね! ――ねえねえ、貴方のオススメはなに?」


 わたしは大はしゃぎで、彼にオススメのメニューを訊ねていた――。

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