覚悟と恋の自覚 ①

 ――わたしが発した一言のせいだろうか、車内には気まずい空気が流れた。


 よくよく考えたら、彼だって父のことをしたい、ついてきた社員の一人なのだ。だから、彼も彼なりに責任を感じていたのかもしれない。

「絢乃さんにこんなつらい表情をさせているのは、自分があんな進言をしたからではないか」と。――「」というのは他でもない、父に受診を勧めたことだろう。


 まったく、彼は何を思いつめていたのか。わたしは彼を責めるつもりなんてもうとうなかったというのに。本当に生真面目きまじめな人なんだから!

 彼のそういうところにさえ、わたしはいとおしさを感じてやまないのだ。


「――あ、あのっ! 絢乃さんって一人娘なんですよね? ご結婚相手に制約とか、条件なんてあったりするんですか?」


 そんな愛すべき彼は、おもくるしくなった車内の空気を変えようとこんなとっぴょうもない質問をしてきた。


「ええっ!? 急にどうしたのよ」


 本当に思いがけない質問だったので、わたしはたじろいでしまった。結婚相手の話題、それも気になり始めた異性からの問いに戸惑ったからである。


「……失礼しました。ほら、絢乃さんってグループの跡取り娘ということになるじゃないですか。なので……ちょっと気になって」


 彼はしどろもどろになって、質問の意図いとを釈明した。

 わたしは一瞬リアクションに困ったけど、彼がわたしを気遣って質問してくれたことは分かっていたので、答えてあげるのが誠意というものではないかという結論に達した。

 所在なくクリーム色のジャケットの襟元に触りながら、口を開いた。


「えーっとね、制約……っていうほどのものは特にないかな。どんな職業で、どんな家柄で、年収がいくらで年の差が何歳あっても、問題はないの。もちろん、常識の範囲内ならね。……ただ、いて言うなら一つだけ、絶対に譲れない条件がある」


 わたしは運転席の彼にチラリと流し目を送り、襟をいじっていた右手の人差し指をスッと立てて見せた。


「……それって、どんな条件なんですか?」


 彼は眉をひそめた。どんなきびしい条件を突きつけられるんだろう? と言いたげな表情で、ハラハラしている様子だった。

 そんな彼に、わたしはズバリ言った。


「長男じゃないこと。それだけよ」


 それを聞いた途端、こわった表情をしていた彼は脱力したようだった。


「なぁんだ、そんなことか……。なんか力抜けちゃいました」


 彼はもっと厳しい条件を想定していたようなので、脱力したのは仕方ないと思う。けれど、他に言いようはなかったのだろうか?


「そんなこと、って……。我が家にとってはコレがいちばん大事なことなのよ? 結婚する相手には、婿入りしてもらわないといけないんだから!」


 ……いや、相手(とその家族)さえよければ、長男でも問題はないのかもしれないけれど。少なくともわたしと母は、長男以外がなんだろうと思っていたのだ。

 父も実は次男だった。父の二歳上の兄である伯父おじの家族は、現在もアメリカに住んでいる。


「はあ、なるほど。絢乃さんが跡取りだからということですよね」


「そういうこと。実は篠沢の家系って、祖父から後の代は男子が生まれてないのよねー。だからママの代もわたしの代も、一人娘が跡取りで婿を迎えることになっちゃってるの」


 現在の当主は母だけれど、父のこともあったしいつまでも長生きできるとは限らない。いずれは一人娘であるわたしが家を継ぐことになるのだ。だとしたら、いいお婿さんを迎えて後継者を産み育てることが母への親孝行であり、ひいては家のためでもあるとわたしは考えている。

 なんて古臭い考え方だろう、と自分でも思っているけれど……。


「うーん、なるほど……。じゃあ仮に、絢乃さんが選ばれたお相手で、もうお付き合いまでなさっている方から結婚前になって、『婿入りはできない』と言われたら?」


「その時は……残念だけど、その人のことを諦めるしかないわね」


 これはあくまで「仮に」の話だった。けれどそれ以前に、多分そういう人とは結婚の話が出る前にお別れすることになっただろうなと今は思う。

 少なくとも、彼がそういう人ではなくてよかった、とわたしは思っている。


「はあ……。大変なんですね、名家って」


 名門一族の現実を知った彼は、そう呻いていた。もしかしたら、そんな家柄に生まれついたわたしに同情していたのかもしれない。


「大変……なのかなぁ? わたしはまだ恵まれてる方だと思うけど」


 彼の漏らした感想にあまりピンと来なかったわたしは、首を傾げた。


「生まれた時から親同士が決めた許婚いいなずけがいるっていう人も、今時のセレブには少なからずいるもの。そんな中で、自分で相手を決められる権利があるだけ、わたしはまだいい方なんじゃないかな」


 許婚や政略結婚など、〝自由のない結婚〟というものがまかり通っているセレブの世界で、篠沢家――特に本家はかなりオープンというか条件がゆるい方だ。

 〝長男がダメ〟という部分さえ無視スルーできれば、あとはわたしが好きになって結婚を考える相手なら、どこの誰でも構わないということなのだから。


 両親はわたしがまだ幼い頃から、わたしに舞い込んできていた縁談をことごとく断ってくれていたそうだ。それはきっと、わたし自身が本当に愛した人と結ばれて幸せになってほしいという願いからだったのだろう。


「だからね、……たとえばの話、よ。貴方も十分、わたしのお婿さん候補に当てはまるってこと」


 この時は特に深い意味なんてなく、あくまでたとえ話として、わたしは彼に言ったにすぎなかった。――まさか、そうなるなんて思っていなかったから。


「それは……、僕も次男だから、ということでしょうか?」


「うん、そうよ」


 わたしは頷いた。


 〝長男以外〟という意味でなら、次男だと言った彼も当然そのカテゴリーに入ってしかるべきだと思ったのだ。――その時はまだ、数多くいるであろう候補のうちの一人、というだけだったのだけれど。


「そっか……、そうなんですね……」


 そう呟いた彼は、何だか嬉しそうな表情をしていた。その理由を当時のわたしはまだ知らずにいたのだった。



   * * * *



 ――車は間もなく恵比寿えびす、という地点まで来ていた。


「――ゴメンなさい、桐島さん。ちょっと電話かけてもいい?」


 わたしはクラッチバッグからスマホを取り出して、ハンドルを握る彼に断りを入れた。


「ああ、お母さまにですね。どうぞ、お家で心配なさっているでしょうし」


 彼はすぐに、わたしが連絡しようとしていた相手を察して、許可してくれた。


「ありがとう。……じゃあ、ちょっと失礼します」


 わたしが母に電話している間、彼が運転しながら空気に徹してくれていたことはありがたかった。


「――もしもし、ママ。絢乃だけど」


『ああ、絢乃? 今日はお疲れさま。今、どこにいるの?』


「ママ、ありがと。今は……えーっと、恵比寿のあたりかな」


 話している途中でふと見上げると、ちょうど青い行先表示の道路標識が見えた。


『そう。――ところで、あなた今、どうやって帰ってるの? タクシーで?』


「ううん、桐島さんに車で送ってもらってるの。彼がね、『タクシーなんてもったいないから、僕の車でよかったら』って言ってくれたから」


 わたしがそう言うと、母は何やら楽しげに笑いながら、わたしをからかってきた。たとえるなら、新しいオモチャを手に入れた無邪気な子供みたいな、というべきか。


『あらあら、桐島くんがねぇ……。ふふっ、彼が親切でよかったじゃない』


「うん……? どういう意味?」


 母の怪しげな笑いの意味をはかりかね、わたしは眉をひそめた。チラリ、と彼を横目で見たけれど、彼は聞こえないフリを決めこんでいて取りつく島もなかった。

 でも、きっとあのパーティー会場で、母と彼とでなされていた会話に関することではないかという推測くらいはできた。


『ううん、別に深い意味はないから。気にしないで』


「……そう?」


 母にうまくはぐらかされた気がして、わたしはモヤモヤした。

 母と貢は、あの時どんな会話をしていたのだろう? ――それは結局、今も謎のまま。彼も母も、わたしがいくら訊いても教えてくれないから。


「――ねえママ、パパは今どうしてるの? 具合、どう?」


 わたしはそこでやっと、電話をかけた本来の用件を切り出した。母のこんな与太よたばなしを聞くために電話したわけではなかったのだ。


『そうねえ……。家に帰ってすぐはだるそうにしてたけど、今は寝室で休んでる。さっき様子を見てきたら、顔色も倒れた時より少しはマシになってるみたいだったわ』


「そう。……それならいいんだけど」


 母の返答に、わたしは少しだけホッとしたけれど、事態はだんを許さないほど深刻だったことに変わりはなかったので、わたしの声は無意識のうちに暗くなっていたようだ。


『……絢乃? 何か心配なことでもあるの? パパの容態が心配な気持ちは分かるけど、大丈夫よ。今のところは』


 それを耳ざとく察したらしい母は、温かな声でわたしを励ましてくれた。

 を、電話で先に母にも話しておいた方がいいだろうか? ――わたしはしばらくの葛藤かっとうの末、これだけを伝えることに。


「あのね、ママ。――実はパパのことで大事な話があるの。家に帰ったら、聞いてもらえる?」


『大事な話……って? それは電話では済ませられないような話なの?』


 母は電話の向こうで戸惑っていた。これはどうもただごとではないらしい、と母にも伝わっていたようだ。


「うん、電話じゃちょっと――。できれば、パパのいるところで聞いてほしいから」


『……そう、分かったわ。じゃあ、詳しい話は帰ってきてから聞かせてもらうわね。待ってるから。桐島くんにもよろしく言っておいてね』


 母はそれ以上追求せず、最後にそう言ってくれた。


「うん。じゃあ……切るね」


 終話ボタンをタップすると、わたしはホッとしたような、疲れたような複雑な気持ちになり、大きく息を吐いた。


「――お母さまは、何とおっしゃっていたんですか?」


 わたしが心なしかグッタリしていたせいなのか、彼が運転席から心配そうに訊ねた。

 それに、きっとスピーカーフォンにしていなかったので、母の言っていた内容が分からずに気になっていたのだろう。


「あー、うん。『詳しい話は帰ってから聞かせてもらう』って。パパは今のところ、顔色もマシになってるから大丈夫だ、とも言ってたわ」


「そうですか。――他には? 前半、何だか楽しそうに話していらっしゃったみたいですが」


 ……桐島さん、本当は聞いていたのね。やっぱりあれは、聞いていないフリだったらしい。


「……桐島さんによろしく、って。――あ、そういえばパーティーの時、貴方もママと楽しそうに話してたわね? 一体どんな話してたの?」


 彼はあの時から、やたら母に気に入られていたような気がするのだけれど。


「それは……ノーコメントで」


 わたしが訊いても、彼はました顔でとぼけるだけだった。



   * * * *



 ――その十数分後、わたしを乗せた彼の車は自由が丘の篠沢邸、つまりわたしの家のゲート前に着いた。


 この家は母の生まれ育った家で、真っ白な壁がまぶしい二階建ての洋風邸宅――それも大豪邸である。玄関へ続く広いアプローチは中庭もねていて、常駐の庭師が管理する広大な英国式庭園イングリッシュガーデンになっている。


「――桐島さん、送ってくれてありがとう! パパのことも心配してくれてありがとね」


 乗り込む時と同じく、うやうやしく外からドアを開けてくれた彼に、車を降りたわたしはお礼を言った。


「いえいえ。こんな僕でもお役に立ててよかったです」


 彼はあくまで謙虚にそう言って、会釈を返してくれた。



 ――このまま、彼との接点はなくなっちゃうのかな……。せっかく知り合えたのに。

 わたしは一度は彼に背を向けて、広い玄関アプローチへ足を踏み出そうとしたけれど、そこで踏みとどまった。

 ――やっぱり、そんなのイヤだ! 心の中で首を振り、もう一度彼に向き直ると、思いきって彼に声をかけた。


「……ねえ桐島さん。あの……もし迷惑じゃなかったら、連絡先、交換しませんか?」


 それまではくだけた口調で彼に接していたけれど、これは〝お願い〟だったので、自然と敬語になっていた。


「はい? 僕と……ですか?」


 彼は戸惑っている様子だった。まさか女子高生、それも雇い主の娘からそんなお願いをされるとは思ってもみなかったのだろう。

 彼はしゅくしているかも……。断られても仕方ないかな、と思いつつ、わたしは言い訳がましく付け加えた。


「あの……ね、どうしてもってわけじゃないの。もし迷惑だったら断ってくれて全然構わないんだけど、ただ、パパのこととか、アドバイスをくれた貴方にはちゃんと伝えたいから。これも何かの縁……っていうか……」


「いいですよ、絢乃さん。連絡先、交換しましょう」


 どうにかこの縁をつなぎとめたくて必死だったわたしの言葉をさえぎり、彼は快く内ポケットからスマホを取り出した。


「えっ、ホントに……いいの? 迷惑じゃない?」


 彼の言動に、今度はわたしが戸惑う番だった。


「ええ。迷惑だなんてとんでもないですよ」


「そ……そう? じゃあ……お願いします」


 わたしはおずおずと彼に頭を下げ、自分のスマホを取り出した。

 無事に連絡先の交換を終えたわたしは、改めて彼にお礼を言った。


「――桐島さん、今日は色々と、ホントにありがとう」


 父のこと、車で送ってもらったこと、連絡先を交換してもらったこと――。この日は彼のお世話になりっぱなしだった。


「いえ。お礼なら、先ほども言って頂きましたよ?」


 そんなわたしに、彼はそう言って笑った。

 ああ、もうダメだ! ――その優しい笑顔に、わたしの心は、もうかんらく寸前だった。

 彼は本当にステキな人だ。初めて親しくなった男性が彼でよかった。わたしは今でもそう思っている。


「では、僕はこれで。お父さまとお母さまによろしくお伝え下さいね。絢乃さん、おやすみなさい」


「……うん。おやすみなさい」


 車に乗り込み、去っていく彼を見送ってから、わたしはまだ高鳴っていた胸を押さえながら、家の玄関へ向かって歩き出した。

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