覚悟と恋の自覚 ②

 ――わたしの家は洋館だけれど、生活スタイルは玄関ホールで靴からスリッパには)替える日本式である。


 玄関でスリッパを履いていると、母と住み込み家政婦のやすふみさんがリビングから出てきた。


「お帰りなさいませ、お嬢さま!」


「お帰りなさい、絢乃。疲れたでしょう? ゴメンね、急にあんなこと頼んじゃって」


 母はわたしの精神的な疲れを気遣ってくれているようだった。


「ただいま。ママ、わたしは大丈夫よ。――それより、パパはどんな様子?」


 わたしはリビングに入るよりも、父のことを優先した。


「さっき――ほんの二、三分前かしら、寝室を覗いたら、もう起き上がっても大丈夫そうだったわ。目眩は一時的なものだったのかしらね」


「……そう」


 母の答えを聞いた限り、父と話しても問題はなさそうだとわたしは判断した。

 ただ、わたし一人ではこころもとない、母にもついていてもらった方が心強いと思ったことも事実だった。


「――ねえママ、これからパパのところまで一緒に来てもらえる? 、パパに伝えなきゃいけないから」


「あの話、って……、電話であなたが言ってた話ね。分かったわ」


 わたしが相当思いつめた顔をしていたからだろう。母は頷き、そのまま父が休んでいた両親の寝室までついてきてくれた。


「――実はね、パパのことなんだけど……」


 その途中の廊下で、彼からの助言についてわたしが話すと、母の表情もぐっと引き締まった。


「なるほど……。もしかしたら、桐島くんの言うとおりなのかもね。それなら話すのが早いに越したことはないわ」


「うん、わたしもそう思ったの。パパに万が一のことがあったら、って思うと……」


 彼から最初にそのことを聞かされた時、わたしは目の前が真っ暗になった。

 それはあまりにもこくな宣告で、できることなら耳をふさいでいたかったけれど、わたしよりもつらかったのはその宣告をした彼自身だったのだろう。


「その気持ちは、ママにもよく分かるわ」


「ありがと。でも、パパって病院嫌いじゃない? ちゃんと聞いてくれるのかな……」


 わたしが母も連れて行ったのは、そのためでもあったのだ。


 父は大の病院嫌いだったうえに、自分に都合の悪い話には耳を傾けたがらないという、ちょっと子供っぽいところがあった。

 そんな父を、子供であるわたしが説得するのはなんわざ。そこは父よりも立場が上である母に任せた方が得策だろうと思ったからだ。


「――あなた、起きてる? 絢乃が帰ってきたわよ。入っていい?」


「パパ、ただいま。大事な話があるの。聞いてもらっていいかな?」


 母がドアをノックして、わたしも呼びかけると、中から父の苦しそうな声で「どうぞ」と返事があった。


「おかえり、絢乃。今日は心配をかけてすまなかった。――疲れてるんじゃないか?」


「ううん、いいよ。わたしは大丈夫」


 ベッドの上で半身だけ起こしていた父は、少しはマシになっていたとはいえ、顔色はまだ冴えなかった。

 体のあちこち痛かっただろうし、つらかっただろう。なのに、わたしの心配をしてくれた父に、胸が痛んだ。


「――で、大事な話って何だ?」


 父の様子を目の当たりにして、わたしと母は視線を交わし合った。自分からは言い出しにくいので、母から話してもらうことも考えた。

 でも、話すと決めたのはわたし自身だと思い直し、意を決して口火を切った。


「――あのね、パパ、今日倒れたでしょ? それでね、あの会場にいたある人がパパのことすごく心配してくれて、『お父さまには、病院で検査を受けることをお勧めしたい』って言ってくれたんだけど……」


「……検査?」


 わたしの話を聞いていた父が、顔をくもらせた。不機嫌になるほどではなかったけれど、あまりいい反応ともいえなかった。


「うん。もしかしたら、命に関わる病気かもしれないから、って。――わたしもパパの病院嫌いはよく分かってるけど、一度キチンとてもらった方が安心できると思うから」


 父は前述のとおり、病院へ行きたがらない人だった。ちょっと体調を崩したくらいだったら、家でゆっくり休めばよくなると言っていたのだ。

 でも、この時ばかりはそうも言っていられない状態だった。


「わたしもママも、ただパパの体が心配なだけなの。お願いだから、それだけは分かってね」


「あなた、私からもお願い。絢乃の気持ちも考えてあげて。そのアドバイスを聞いた時、この子がどんなに心を痛めたと思う? 助言をくれたっていうその人だって、あなたのことが心配だからこそ、言ってくれたのよ。分かってるの? あなたは私と絢乃だけじゃなくて、たくさんの人の生活を背負しょってるんでしょう?」


 母は必死に父を説得してくれたけれど、生き方がどことなく上から目線だったのは気のせいだったろうか?

 今思えば、両親の関係は世間でいう〝かかあ天下〟だったのかもしれない。

 そしてそれは今、娘であるわたしにも受け継がれつつある。――それはさておき。


「……分かった。二人の気持ちは十分伝わったよ。早速さっそく、明日にでも検査を受けてくることにしよう。――加奈子、悪いがとうに今から連絡を取ってみてくれないか?」


「ええ、分かったわ」


 父は渋々ながら、わたしと母、そして彼の願いを聞き入れてくれた。


「パパ、ありがとう!」


 母が連絡を取った後藤さと先生は、学部は違っていたけど父の大学時代からの友人だった。当時は大学病院に勤務していて、内科部長だったらしい。

 現在はそこを退職して、個人病院を開業している。


「――えっ、本当に明日、診て頂けるんですか!? 検査も? ――ええ。――はい。では明日の午前、診察をお願いします。わざわざありがとうございます。では、失礼します」


 自分のスマホで通話していた母は、電話を切ると後藤先生とのやり取りの内容をわたしと父に報告してくれた。


「――後藤先生ね、明日の午前中に診察して下さるそうよ。合わせて詳しい検査もしましょう、っておっしゃってたわ」


「そうか。ありがとう、加奈子。絢乃も」


「パパ、よかったね。じゃあ明日は、わたしも一緒に――」


 一緒に行く、と言いかけたわたしに、母が「待った」をかけた。


「何言ってるの、絢乃。あなたは明日、学校に行かなきゃいけないでしょう? パパにはママが付き添うから、あなたはちゃんと授業受けてらっしゃい。検査が終わったら連絡するから。――今日はもう、お風呂に入って寝ること。いいわね?」


「……は~い。じゃあパパ、ママ、おやすみなさい」


 わたしはちょっと納得がいかなかったけれど、渋々頷いて部屋へ行くことにした。


 本当は学校なんてどうでもよくて、父に付き添うために一日くらい休んだところでどうということはなかった。

 この日ほど、高校生という自分の身分をうらめしく思ったことはなかった気がする。



   * * * *



 両親の寝室がある一階から階段を上がり、わたしは二階にある自分の部屋へ戻ると、室内にあるバスルームに入り、バスタブのじゃぐちをひねった。


 我が家には他にもゲストルームや使用人一人一人の個室が何室もあり、その各部屋に専用のバスルームとトイレが完備されていて、よく「ホテル並みだ」と言われる。

 つまり、この部屋のバスルームはわたし専用、ということである。


 バスタブにお湯を張っている間にメイクを落とし、ドレスから部屋着のワンピースに着替えると、わたしはクラッチバッグからスマホを取り出した。

 もしかしたら彼が連絡してきているかも、と淡い期待を抱きつつロックを解除してみたけれど、彼からの着信も、メールやショートメッセージも一件もなし。――つまり、母からのメールから後はウンともスンとも鳴っていなかったのだ。


「――そうだ、わたしから電話してみようかな」


 わたしから男性に連絡を取ったのは、実はこの夜が初めてだった。

 ものすごく緊張したし、すごい冒険ではあったけれど、彼は唯一父のことでアドバイスをくれた人だったので、父が受診する気になってくれたことを早く報告したいという気持ちの方がまさっていた。

 それに、彼からの連絡を待っているだけの〝受け身〟ではいけない、という気持ちもどこかにあったかもしれない。


『――はい、桐島です』


 電話口の彼の声は、少しモゴモゴしているように聞こえた。何か食べていたのかな?


「あの……、絢乃です。さっきはありがと。――あ、ゴメンなさい。もしかしてお食事中だった?」


『ええ、まあ。ですが大丈夫ですよ。自宅でカップ麺をすすっていただけですから』


「……そう」


 彼が外で食事中だったら申し訳ないな、と思っていたので、その答えにわたしはホッと胸を撫で下ろした。


『でも、ビックリしましたよ。まさか絢乃さんの方から連絡を下さるとは思わなかったので』


「え……そう? まあ、連絡先を交換しようって言い出したのはわたしの方だしね。こっちから連絡を取るのが礼儀かな、と思って。――あ、そうそう。さっきね、パパにあのこと話したの。ママにもついてもらって」


 わたしはそこから、父が翌日、友人である大学病院の先生に診てもらうことになったと伝えた。病院嫌いである父を説得するのがどれほど大変だったか、ということも付け加えて。


『そうですか。それはご苦労さまです』


 彼はボスの意外なエピソードを聞いて、少し笑っていた。


「あのね、一応貴方の名前は伏せておいたのよ。わたしから言うべきじゃないと思ったから」


『お気遣いはありがたいんですが、僕の名前を出して頂いてもよかったんですよ。多分お父さまの中では、僕の顔と所属や名前が一致していると思うので』


「えっ?」


 驚いたわたしに、彼はさらにきょうがくの事実を告げた。なんと父は、篠沢商事の社員全員の顔と名前、所属部署まで記憶していたというのだ!


「うそ、知らなかった……」


 わたしは絶句した。

 父はわたしに、経営者やリーダーになるための心構えなどはよく話してくれていたけれど、の話はあまりしてくれたことがなかった。

 組織のトップでいるということは、社員一人一人の個人情報も握っているということ。――真面目な父は、それを家族に対してとはいえ、おいそれと話すわけにはいかないと思っていたのだろう。


『――それはともかく。とりあえずひと安心ですね、絢乃さん』


 彼みずから、脱線していた話を戻してくれた。


「うん……。でも、わたしは付き添いを断られちゃった。『学校に行かなきゃダメでしょう』って」


 わたしはつい、彼にも不満をこぼしてしまった。


『そうなんですか……。お父さまが心配な絢乃さんのお気持ちも分かりますが、お母さまはあえて心を鬼にしてそうおっしゃったんだと思うので。お母さまのこと、恨まないで差し上げて下さい』


「それは……、わたしだって分かってる。けどなぁ……」


 彼の言い分は正しい。それは理解していたけれど、納得がいかなかった。

 父親が重病で、命だって危ないかもしれないという時に、のんに学校で授業なんて受けていていいのだろうか? ――と。


『絢乃さんがご一緒に病院へ行かれたところで、お父さまのご病気を代わって差し上げられるわけではないでしょう? あなたが普段どおりに過ごされる方が、お父さまも安心されるんじゃないですかね? ……と、僕は思うんですが』


「…………」


 彼は子供をなだめるように言ったけれど、途中から説教臭いと自分で気づいたのか、最後は取ってつけたように言い換えた。


『あ、もちろんこれはあくまで僕個人の考えで、お父さまも同じお考えかどうかは分かりませんが。もしも僕があなたの父親ならきっとそうだろうなあ……と』


「うん、……そうよね。そうかもしれない」


 わたしまで思い詰めていたら、その方が父もつらいかもしれない、とわたしは思った。


 それに、お医者さまから父の病名や余命を告知された時、大人の母ならまだ冷静でいられるだろうけど、果たしてわたしも取り乱さずにいられるのかと訊かれると、あまり自信がない。

 それならいっそ、この件は母に任せておいた方がいいとわたしは考え直した。


「明日はママに言われたとおり、ちゃんと学校へ行って授業を受けてくる。検査が終わったら連絡をくれるっていうママの言葉、信じて待つことにするわ」


『そうですね、その方がいいと思います。まあ、絢乃さんも落ち着かないでしょうけど、まずはご病気で苦しんでいらっしゃるお父さまを安心させて差し上げるのが親孝行だと思いますよ、僕は』


 彼は父のことだけでなく、わたしのことも心配してくれている……。それが分かったので、わたしも素直に頷くことができた。


「うん、そうするわ。桐島さん、ホントにありがと」


 ――その時、バスルームから聞こえていた水音が変わった。ちょうど、バスタブのお湯も一杯になる頃だった。


「じゃあ、そろそろ切るね。お風呂にお湯を張ってるところだったから。桐島さん、おやすみなさい」


『はい、おやすみなさい。――あ、めしないようにして下さいね? 最近、夜はちょっとえますから』


「うん、ありがとう。……じゃあ」


 通話を終える直前の彼の言葉は、まるで兄が妹をさとしているようにわたしには思えて、何だかおかしな気持ちになった。


 ――着替えを用意してバスルームに入ったわたしは、まずシャワーで髪のスタイリング剤を洗い流した。すると、緩くウェーブのかかっていた髪は、少し茶色がかったストレートのロングヘアーに戻った。――ちなみにこれが、わたしの元の髪質である。

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