父の誕生日 ③

 当然の結果として、会場内はざわついた。けれど、それはわたしの想定内だった。


『本日ご出席下さった皆さまには、娘であるわたしが両親に成り代わりましてお礼申し上げます。と同時に、この場をお騒がせしてしまいましたこともあわせてお詫び致します。お帰りのお足につきましては、ハイヤーを手配しておりますのでそちらをご利用下さい。皆さま、お気をつけてお帰り下さい』


 マイクを置いてテーブル席に戻ったわたしは、重責から解放された脱力感からか、ふーーーーっと重く長いため息をついた。


「――お疲れさまです、絢乃さん。喉かわいたでしょう? これどうぞ」


 そんなわたしの前に、彼がねぎらいの言葉とともにウーロン茶の入ったグラスを置いてくれた。わたしが挨拶をしている間に、ドリンクバーでれてきてくれたらしい。


「あ……、ありがとう。いただきます」


 冷たいウーロン茶をグッとあおると、優しい彼の気遣いまで心にみ込んで生き返った気がした。


「くぅ~っ、沁みるぅ!」


 ちょっと品がないけれど、思わずそううめいてしまったわたしを、彼はニコニコ笑って見ていた。


「そういえば皆さん、ざわついていましたよね。まぁ、仕方ないといえば仕方ないですけど」


「うん……。でも、これでわたしの務めは何とか無事に終わったわ。あとは家に帰って、ママからパパの様子を聞き出すだけね」


 父がどんな具合なのか、わたしはその時心配でたまらなかった。招待客もほとんど帰ってしまった後だったので、一刻も早くゆうおかの家まですっ飛んで帰りたかった。


「――ところで、絢乃さんはどうやってお帰りになるかもうお決まりなんですか? どなたかお迎えに来るとか」


「あ……、ううん。何も決まってなくて」


 彼に訊かれるまで、寺田さんに連絡しようかどうしようか迷っていた。でも、彼を呼ぶのは気が引けたし、母は多分わたしの乗る車までは手配してくれていなかっただろうし。


「……まぁ、大通りに出ればタクシーくらいつかまるだろうし。どうにかなるわよ」


「そんな、自由が丘までタクシーなんてもったいないです!」


「……え?」


 彼がわたしの答えに対し、勢い込んで意見してきたので、わたしは面食らった。――「もったいない」ってどういう意味?


「……あ、いえ。もしご迷惑でなかったら、僕の車でお送りしようかと思いまして」


「迷惑だなんてそんな……。でも貴方、車の運転は――」


 彼が飲酒をしていたら、運転させるわけにはいかない。――わたしはそのことを心配していたのだけれど。


「大丈夫ですよ。僕はなんで、お酒は一滴も飲んでいませんから」


「……そうなの?」


 彼はニッコリ笑ってそう言った。……そういえば、彼が飲んでいたのはもっぱらソフトドリンクばかりだったと気づいた。

 もちろんわたしは、世の中の大人にはお酒が飲めない人もいることを理解していた。ただ、わたしの両親はどちらもアルコールをたしなむ人だったので、忘れていただけで。


「はい。――ああでも、立派な乗用車とかじゃなくて、軽自動車ケイなんですが。それでもよければ……」


 彼は自虐的にそう言ったけれど、何をそんなに恥ずかしいと思っていたのだろう?


 わたしは男性が運転する車に対して、特に偏見やこだわりがあるわけではない。

 世の中には、軽自動車を持っている男性を「カッコ悪い」とか言ってバカにする女性もいるみたいだけれど、わたしに限ってそれはないから、する必要はないのに。


 そして何より、せっかくの彼の厚意を「車種が気に入らない」とかぜいたくを言って断っていい立場でもなかったし。


「ありがとう。わたしは軽でも全然構わないわよ。……じゃあ、お願いしようかな」


「はいっ! 安全運転で、無事にお家までお送りします!」


 彼が大真面目にそう宣言したので、わたしは思わず吹き出してしまった。彼は――貢は本当に人の心を和ませる天才だと思う。


「うん。桐島さん、よろしくお願いします」


 というわけで、わたしは彼の厚意に素直に甘えることにした。



   * * * *



 ビルの地下駐車場に停めてある、自分の車のところまで来た彼は、フォードアタイプの軽自動車のロックをリモコンで解除。そしてわざわざ外から、執事のように後部座席のドアを開けてくれた。


「絢乃さん、どうぞ」


「ありがとう。――でも」


 わたしは彼に送ってもらう身だったけど、ちょっとだけ、本当にささやかなワガママを言ってみたくなった。


「……ねえ、助手席でもいい?」


 厚かましくない程度におずおずと、助手席の前まで進むと、小首をかしげて彼に訊ねた。


「えっ? ……はあ、絢乃さんがそれでいいなら、僕は構いませんが」


 彼は戸惑いつつも、わたしの望みどおりに今度は助手席のドアを開けてくれた。


「ちょっとせまいかもしれませんが……、どうぞ」


「ありがとう! ワガママ言っちゃってゴメンなさいね?」


「……いえ」と彼は軽く首を振った。どうやら困らせてしまってはいなかったようだ。

 わたしが助手席に乗り込み、キチンとシートベルトを締めるのを見届けて、彼は運転席に収まってエンジンをかけた。


「――すみません、こんな貧乏くさい車で。きゅうくつじゃないですか?」


 彼は運転しながら、かわたしに謝っていた。


「こんな車でも、後部座席ならまだ広いと思ったんですけど……」


「ううん、いいの。わたしがお願いして乗せてもらってるんだもの。助手席に乗るの、昔から憧れてたのよねー」


 わたしは初めて乗った助手席にワクワクしていた。フロントガラス越しに見た景色は、普段後部座席からながめていた景色とはまるで違っていた。


「へえ……、前の席からだと外の景色ってこんなふうに見えるのね。面白ーい♪」


「絢乃さんは普段、車に乗られる時は後部座席なんですか?」


 わたしが楽しんでいる様子を見た彼が、こんな質問を投げかけてきたので、わたしは首を傾げながら答えた。


「そうね……、乗る時はやっぱり後ろの席ばっかりかな。もっとも、車に乗る機会自体あんまりないんだけどね」


「……そうなんですか?」


 わたしの答えがあまりにも意外だったのか(実際に意外だったらしいと後から聞いたのだけど)、彼は目をみはった。


「うん。初等部時代から電車通学だし、寺田さんに送迎を頼むのも何だか申し訳なくて。パパの運転で親子三人で遠出する時も、わたしはいつも後ろで、ママが助手席だったし。だからわたし、一度助手席に乗ってみたかったの。前から見る景色っていうのがどんなのか知りたくて」


 その当時、父はすでに自力で運転できるような状態ではなかったので、彼に出会っていなければあんな機会は当分なかっただろう。


「そうですか……。じゃあ僕は今、身に余る光栄をたまわっているわけですね」


「……えっ?」


「だって、絢乃さんの助手席初体験が僕の車なわけですから」


 彼があまりにも大真面目な顔でそう言うものだから、わたしは一瞬呆気あっけに取られ、思わず吹き出した。


「そんな、〝賜っている〟なんて大ゲサな。わたしは女王さまでも、お姫さまでもないのよ?」


 ただ、明治時代から続く経営者一族の家に生まれ育っただけで、わたしはあくまで普通の女の子だったのだ。 たとえ彼が雇い主の令嬢むすめに敬意を払っただけだったとしても、〝賜っている〟はオーバーすぎると思った。


「そうですよね。でも、絢乃さんをお乗せするのに、こんな車じゃちょっともったいなぁと思いまして。自分で買ったんですけど、軽じゃなあ……と。もっといい車にすればよかったかな」


 彼はわたしを乗せる車が軽では失礼だと思っていたようで、しきりにボヤき始めた。


「あら、そんなことないと思うけどな。自分で買ったってだけでもスゴいことなんじゃないの? わたしはそう思うけどなぁ」


 彼は当時、まだ二十五歳だった。その若さで(今でも十分若いけれど)マイカーを持っているだけでも大したものだと、わたしは心から思っていたのだ。


「絢乃さんのお言葉は嬉しいんですが……。実はこの車のローン、もうすぐ完済するんですよ。そしたら、別の車に買い換えようかと思っていまして」


「そうなの? もう車種も決めてあるの?」


「あ……、はい。今度は国産のセダンにしようかと。ローンのがくは少し高くなるんですけど……」


 ローンで買うということは、当然新車だろうとわたしは確信した。

 新車のセダンだと、国産でも数百万円はかかる。実際、その車は四百万円くらいかかったのだと、のちに彼自身が話してくれた。

 そして、その支払いは今も続いているのだけれど、それはさておき。


「まあ、そういうことなので。次に絢乃さんをお乗せする機会があった時は、こんなに窮屈な思いをして頂くこともないと思います」


「…………あ、ありがとう」


 ――〝次の機会〟があるなんて、この時のわたしには想像もつかなくて、胸のざわめきがおさまらなかった。

 また彼に会えるかもしれないんだ。――そう思うだけで胸がおどって、ときめいていたわたしは間違いなく、この夜彼に恋をしていたのだ。


「――ねえ桐島さん、貴方のこと教えてくれない? ご家族のこととか、今住んでるところとか、何でもいいんだけど」


 外の景色を眺めるのにもきてきて、時間を持て余していたわたしは、彼自身のことをもっと知りたくなった。彼が生まれ育った環境バックグラウンドを知ることで、もっと彼と近づけそうな気がしたから。

 わたしは体ごと運転席に向き、彼に問いかけた。


「……はあ。えっと、家族は両親と僕と、四歳上の兄との四人です。住んでいるのはしぶ区ので、僕は社会に出てからは実家のすぐ近くにアパートを借りてひとり暮らしをしています」


 彼は代々木住まいなのか……。わたしの中に、彼の情報の欠片ピースが一つ増えた。


「へえ……。じゃあ次は、ご家族の職業について教えて?」


「はい。父は大手メガバンクで支店長を務めています。母は専業主婦ですが、結婚前は保育士だったそうです。兄は……三ヶ所くらいでアルバイトをしていて、調理師免許も取っていて、将来は飲食店をやりたいそうです」


 彼がお兄さまのことを話す時だけ、何だか歯にものがはさまったような言い方をしていたので、てっきり兄弟の仲がよくないのかとわたしは思った。――お兄さまご本人にお会いして、それが誤解だったと知るまでは。


「お父さまは銀行の支店長さんなのね? きっと勤勉で誠実な方なんでしょうね」


「……はい。確かに父は勤続三十年以上のベテランで、人望にも厚いですが。どうしてお分かりになったんですか?」


 彼はわたしの洞察力に目を丸くした。


「だって、支店長を任されるくらいの方だもの。それだけ信用があるってことでしょ? 今日会ったばかりだけど、貴方を見てたらお父さまのお人柄も分かるわ。貴方の人柄は、きっとお父さまゆずりでしょうね」


 彼が誠実で真面目な人だということは、わたしもあの数時間ですでに分かっていた。だからお父さまのことを聞いた時に自然とそう思えたのかもしれない。


「そうですかねぇ……。ありがとうございます」


 彼は照れ臭かったらしく、少しぶっきらぼうにお礼を言った。その様子から、彼がお父さまのことを尊敬していることが窺えた。


「ねえねえ、桐島さんは、お父さまと同じように銀行に就職しようとは思わなかったの? もちろん、篠沢ウチに入社してくれたことは嬉しいけど」


「それは思いませんでしたね。人には向き不向きというものがありますから。少なくとも僕は、自分で銀行づとめは向いていないと分かっていたので、就活の時真っ先にその選択は外しました。父の後を継ぐ必要もありませんからね」


「なるほどね……。うん、何となく分かる」


 お父さまもいわゆるサラリーマンなのだから、彼が父親と同じ職種に拘る必要はなかったわけだ。

 それで彼は、就職先として篠沢商事を選んでくれたのだ。たとえそれが、彼が内定をもらった何社かのうちの一社であったのだとしても――。


「僕は篠沢に入社してよかったと思っています。楽しいことばかりじゃないですが、給料はいいですし、大企業なのにみんなが家族みたいな温かい社風ですし。働きやすくて居心地もよくて。絢乃さんのお父さまのおかげです。本当に感謝しています」


 彼の言葉からは、父への感謝の思いや会社への愛情があふれ出していた。それは決してお義理ではなく、彼の本心だったのだろう。


「ありがとう! それを聞いたら、パパもきっと喜ぶわ!」


 彼が語った内容は、まさに父の理想としていた企業像であり、経営理念でもあった。それを素直にきょうじゅしている社員がいると分かれば、父も会長みょうに尽きるだろうとわたしは思った。


「源一会長は、会社やグループのみんなから愛されているんですね。だからこうして、毎年会長のお誕生祝いが会社のイベントとして開催されているんですよね」


 父の誕生パーティーは、父が会長に就任してから五年間、毎年欠かさず行われていた。

 それも業務命令で、ではない。最初は父が所属していた部署の有志のメンバーが始めた会らしかったのが、いつからか会社全体に「会長のお誕生日をお祝いしよう」というムードが広がり、あれほど大規模なもよおしになったのだと、わたしは母から聞いたことがあった。


「うん、そうね。……でもね、多分パパの誕生パーティーは今年が最後になると思うの」


 わたしは沈んだ声で、彼に答えた。


 父はもう長く生きられないかもしれない。――わたしは何故かこの時、そんな予感がしていたのだった。

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