父の誕生日 ②

 ――それから一時間ほどが過ぎた。


 わたしは母から頼まれたとおりにパーティー会場に残り、それまでの一時間のうちに招待客であるグループ会社の役員や管理職の人たちに、父が体調を崩して早めに帰宅したことを伝えた。


「それでも、たいしたことはないと思いますので、心配なさらないで下さい」


 わたしは本心からそう思っていたわけではないものの、彼らにひとまず安心してもらうためにそう言った。

 それに納得してくれた人、「本当なのか」とわたしに詰め寄ってきた人、「お大事に」と声をかけてくれた人……。返ってきた反応は様々だった。


 その対応にも少し疲れてきたわたしは、テーブル席で料理に手をつけ始めた。

 とはいってもあまり食欲はかず、父の容態が心配だったこともあって、美味しいはずの料理の味もほとんど分からなかった。


「――ママからまだ連絡来ないなぁ……。パパ、今はどんな状態なのかな」


 適当に食事を済ませた後、そのままテーブル席でオレンジジュースを飲みながら、スマホを気にしていると――。


「失礼ですが、絢乃お嬢さん……で間違いないですよね?」


 すぐ側で若い男性の声がして、わたしはパッと声のした方へと顔を上げた。

 とはいっても、その会場にいた若い男性は一人だけだったので、わたしはその声のぬしが誰なのかすぐに気がついた。


「えっ? ……ええ、そうだけど。――あ、貴方はさっきの……」


「はい。僕は篠沢商事本社・総務課の桐島貢といいます。憶えていて下さったんですね」


 彼は丁寧に名乗ったあと、向かいの席に座ってもいいかどうか訊ねた。

わたしが「どうぞ」とこころよく促したので、彼は「失礼します」と頭を下げて席についた。


「桐島さんっていうのね。……えーっと、わたしの名前、どうして知ってるの?」


 わたしと彼――貢はその少し前に目礼をわしただけで、お互いの自己紹介はまだしていなかったはずなのだけれど。

 そんなわたしの疑問には、彼があっさりとタネ明かしをしてくれた。


「ああ、それはですね、先ほどお母さまからうかがったからです。お嬢さんは今、高校二年生だそうですね」


「ええ。茗桜女子学院の高等部二年生よ」


「そうですか、茗桜女子ですか……。あそこって、名門のお嬢さま学校として有名なんですよね」


 わたしは目をしばたたかせた。彼が茗桜女子の評判を知っていたことに驚いたからである。


「……そうらしいわね。わたしはあんまり、そういうの意識したことないけど」


 ――わたしが通っていた学校は、彼も言ったとおり世間では〝名門女子校〟として名をせているらしい。でもわたしは、そこに在籍していたからといって、それを鼻にかけるようなことはしなかったつもりだ。

 だって、たとえ名門校に通っていても、自分は普通の女子高生でしかないと思いたかったから。


「――ねえ。貴方、総務課所属って言ったよね? じゃあ、今日は貴方の上司のかたは?」


 この日父から招待され、本当に出席すべきだったのは総務課の課長さんだったはずなのだ。


「……はあ。課長は今日、急用で出席できなくなったとかで。僕が急きょピンチヒッターとして出席することになりまして」


 彼の言い草からして、それがとても不本意なことだというのはわたしにも十分伝わってきた。


「そうなのね。……うん、確かに貴方は、頼まれたら断れないタイプに見えるわね」


 彼はわたしの第一印象どおりのお人好しだったらしく、性格も真面目なので職場で相当苦労させられていたようだ。よくそんな状況にずっと耐えられていたものだと、わたしは彼に対して称賛を禁じ得ない。


「でもね、桐島さん。どうしてもイヤだと思ったら、ちゃんと断らなきゃ。パワハラがあまりにもひどいようなら、人事部の労務課に相談することも考えた方がいいわ」


 この時のわたしは、まさか彼がパワハラ上司のどくにかかっていたとは思わなかったのだ。

 でも彼は、初対面だったわたしに余計な心配をかけたくなかったらしい。つとめて明るくこう言った。


「はい、そうですね……。ありがとうございます。ですが、今日はむしろ出席してよかったと思っています。こういう場でもないと、絢乃さんや加奈子さんとお話しする機会なんてめったになかったでしょうから」


「…………そう」


 今思えば、貢のそのセリフはき文句だったような気がする。当時のわたしは恋愛未経験者だったので、気づきもしなかったけれど。


「――そういえば、お父さまは大丈夫なんでしょうか? 先ほどお倒れになったの、僕も見ていましたけど」


 彼自身も自分のセリフが恥ずかしくなったのか、それをごまかすように表情を一変させて、深刻そうな表情でわたしに訊ねた。


「うん……。ママに付き添われて早めに帰ったんだけどね。パパ、最近具合悪そうだったから、いつかは倒れちゃうんじゃないかってわたしもママも心配してたの」


 彼になら、胸の内を素直に吐き出せると思ったのは、彼なら何でも受け止めてくれそうだと思ったからだろうか。


「ママね、『家に着いたら連絡する』って言ったの。でも、あれから全然連絡なくて。わたしに連絡するヒマもないくらい、パパの具合悪いのかな……」


 父の体調を心配する余り、わたしの表情はその場のふんに似つかわしくないけわしいものになってしまう。

 そんなわたしの様子を見て、彼がおずおずと口を開いた。


「それは心配ですね……。あの、僕のような平社員がこんなことを申し上げるのも差し出がましいとは思うんですが……」


「なぁに? 言ってみて」


 彼はしばらく言うのをためらい、意を決したように再び口を開いた。


「……お父さまには、ちゃんと病院にかかって頂いた方がいいと思うんです。あと、できれば精密検査もお勧めしたいんですが」


「え……?」


「もしかしたら、命にかかわる病気かもしれないでしょう? それなら、発見も一日でも早い方がいいと思うので」


 〝命にかかわる病気〟――。

 その一言に、わたしは頭をガツンとなぐられたようなショックを受けた。

 それはすぐに現実となってしまったのだけれど、「一日でも早い方がいい」という彼の言葉にいくらかでも救われたのも事実だ。


「……そうよね、ありがとう。パパにはわたしから話をしておくわ。わたしの言うことなら耳を貸してくれると思うから」


 母から言うとかどが立つかもしれないけど、わたしには甘いから、父もすんなり受け入れてくれるだろうと考えた。


「はい、それがいいと思います」


 父が病気かもしれないと知り、身内であるわたしはもちろんショックだった。でも、わたし以上にこころぐるしかったのはこの提案をした彼自身だったろう。そう思えばこそ、わたしは彼のしんげんを素直に受け入れることができたのだ。

 それに、わたしは彼から「ワガママなお嬢さま」というイメージを持たれたくなかったので、彼の進言をにできなかったのだとも思う。


「――ところで絢乃お嬢さん、デザート召し上がりませんか? さっき、デザートテーブルに美味しそうなフルーツタルトがあるのを見かけたんですけど」


 少々沈みがちになったその場の空気をふっしょくしようと思ってか、彼が満面の笑みでこんな提案をした。

 でも、彼のその表情はスイーツに目がない人ののようにわたしには見えた。


「そう言うってことは、ホントは貴方も食べたいんじゃない? 桐島さん、実は甘いもの好きでしょ?」


 わたしはからかっただけのつもりだったけれど、どうやらそれは図星だったらしい。彼は恥ずかしそうに頬をポリポリいていた。


「ハハハ……、バレちゃいました? 実はそうなんですけどね、男ひとりで取りに行く勇気がなかったもので……」


 父が倒れた後の緊迫した雰囲気の中で、不謹慎だったかもしれないけれど。彼と一緒にいることで、わたしは何だか気持ちがなごんでいくのを感じていた。

 やっぱりわたしは、この夜から彼に惹かれていたのだろう。


「じゃあ……、わたしもお付き合いしましょうか」


 彼のお誘いに乗り、わたしは席を立った。

 食事はあまりのどを通らなかったけれど、スイーツなら食べられるだろうと思ったのだ。


「はい! ありがとうございます!」


 嬉しそうな彼と一緒に、オススメのフルーツタルトがあるというデザートテーブルへ向かった。

 そして二人とも、二切れずつお皿に載せてテーブル席に戻った。



「――お嬢さん、どうですか? 美味しいでしょう?」


 わたしにそう訊いた彼は、早くも一切れ食べ終えていた。わたしはまだ、一切れの半分も食べていなかったのに。


「うん、美味しい! これなら二切れは軽く食べられそう」


 とはいえ、本当に美味しいスイーツにわたしの顔も自然とほころんだ。

 サクッとした歯ざわりのタルト生地に、たっぷりと盛られたフルーツはどれも瑞々みずみずしくて、あっさりめのカスタードクリームとの相性もバッチリ。罪悪感もなくて、甘いもの好きにはたまらない一品だった。


「よかったです、お嬢さんのお気に召したようで」


 彼は二切れ目もあっという間に半分以上平らげてしまっていた。


「……ねえ、桐島さん。わたしのこと『お嬢さん』って呼ぶの、いい加減やめてくれないかな?」


 わたしはずっと感じていたいらちを、やっとのことで彼にぶつけた。

 わたしの名前は〝絢乃〟であって、〝お嬢さん〟という名前ではない。それに〝お嬢さん〟と呼ばれること自体、特別扱いを受けているようでわたしは好きではなかったのだ。


「……すみません。分かりました。では、〝絢乃さん〟とお呼びしてもいいですか? れ馴れしかったら申し訳ないんですが」


 彼はすぐにきょう案を出して、オドオドとわたしの反応をうかがった。


「うん、そう呼んでもらえる? 馴れ馴れしくなんかないわよ。貴方の方が年上なんだから、そんなこと気にしないで」


 わたしは快く、彼の案を受け入れた。わたしと彼とは年が離れているけれど、わたし自身ももっと彼との距離を縮めたいと思ったから。


「そうですか! よかった!」


 それまでビクビクしていた彼は、わたしの返事を聞いてホッとしたような表情を浮かべていた。



   * * * *



 ――二人での楽しいデザートタイムから、そろそろ三十分が経とうとしていた頃、クラッチバッグの中でスマホが短く震えた。

 この振動のしかたは、メール・メッセージなどの受信通知。――わたしは淡いピンク色の手帳タイプのスマホカバーを開いた。


「……あ、ママからのメールだわ」



〈パパはもう部屋で休んでます。

 九時になったら終了の挨拶よろしくね。

 お客さまたちのお帰り用ハイヤーは、私が手配しておいたから安心して!〉



 メールの文面に書かれていたのは、たったこれだけの内容。父の具合がどうなのかも、わたしの帰る方法すらも何も書いていなかった。


「ママ……、わたしが帰る方法は?」


 わたしは一瞬彼の存在を忘れ、思わずそんなボヤきを漏らしてしまった。


「――お母さまは何と?」


「あ……、うん。『九時になったら終了の挨拶よろしく』って。あと、『お客さまたちの帰りの車は手配しておいたから』って」


 さすがは篠沢家の当主で元教師である。なんと手回しのいいことか。……ただ、どうして可愛い一人娘の心配はしてくれないのか、わたしははなはだ不満ではあったけれど。


「…………あの、絢乃さん」


「うん? なに?」


 その時、彼がわたしに言いかけた。何を言おうとしたのかは、その後に分かったのだけれど。


「……いえ、いいです。――あ、もうすぐ九時になりますね。少し早いですが、そろそろ行かれた方が」


 彼はお茶をにごしてから、腕時計に目を遣ってわたしに言った。

 主役のいなくなったパーティーは、早くお開きにした方がいい。というか本当は、父が帰宅した時点でそうすべきだったのだろう。


「そうね。じゃあ、行ってくるわね」


 母から頼まれた大仕事から一刻も早く解放されたかったのは、わたしも同じだった。

 ステージのだんじょうに立ち、スタンドにセットされたマイクを手に持つと、わたしは深呼吸をしてからスイッチを入れて話し始めた。


『――皆さま、本日は父のためにお集まり下さいまして、本当にありがとうございます。わたしは篠沢源一の娘で、絢乃と申します』


 そこまで一気に言ってしまってから、わたしの頭の中は真っ白になった。

 ――終了の挨拶って、何を言えばいいの?

 どう言って主役がいないことを伝え、その会場にいらっしゃるお客さまたちの機嫌をそこねることなく、気持ちよくお帰りになってもらえばいいの? ――当時高校生だったわたしは、この無理難題に限りなく近い大仕事とできるだけしんに向き合ってみた。


『……えー、皆さまもお気づきかもしれませんが、本日の主役である父は体調を崩して早めにこの会場から引き揚げさせて頂いております。予定より早い時刻ではございますが、このパーティーはこれでお開きとさせて頂きたいと思います』

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