第1章 出会い~会長就任

父の誕生日 ①

 ――その日は父、源一の四十五歳の誕生日だったので、グループ本社〈篠沢商事〉の大ホールを貸し切って、父のバースデーパーティーが盛大に行われていた。

 和・洋・中華・エスニックなどの料理がビュッフェ式で並べられ、アルコール類が提供されており、全国のグループ企業から管理職以上の人たちが大勢招待されていて、会場はとてもにぎわっていた。


「――んもう! パパったら、どこに行ったんだろう?」


 当然ながら、父の身内なので母と一緒にパーティーに出席していたわたしは、あの時一人で会場内を駆け回っていた。フラフラとどこかへ行ってしまっていた、当時すでに体調がすぐれなかった父を探すために。

 膝下たけの、淡いピンク色のパーティードレスは裾がジャマで走りにくかったし、ヒールの靴で転ぶのも怖かったので、実際には「走る」というより早歩きに近かったけれど。


「どこかで具合悪くなって、ひとりで倒れてたりしないかな……。なんか心配だわ」


 一度立ち止まり、あたりをキョロキョロと見回したその時だった。がその会場にいることに気づいたのは。

 彼が明らかに会場内で浮いているなと感じたのは、彼ひとりだけが(わたしを除いて)ものすごく若かったから。

 着ていたのはグレーのスーツだったけれど、まだなじんでいない感じが見て取れたのだ。多分、入社してまだ五年と経っていないんじゃないかな、とわたしには推測できた。


 それともう一つ、彼が周りの人たちに対してあまりにも低姿勢だったから、というのもわたしが彼に注目した理由だった。

 彼が役職ポストくには若すぎたし、そもそもウチのグループに二十代の管理職がいたなんて話、わたしは父から一度も聞かされたことがなかった。

 それに加えてあの姿勢の低さといい、居心地の悪そうな様子といい――。もしかしたら彼は、招待されていた他の誰かの代理で出席しているんじゃないかとわたしは予想した。


 ――ちなみに、あれから二年近く経った今でも、彼の姿勢の低さは健在である。これはどうも彼が生まれ持った性分らしく、「直して」と言ったところでどうなるものでもなさそうなので、わたしもあまり気にしないことにした。


 それはさておき、彼の人のさはわたしも好感が持てた。ただその人の好さがわざわいして、彼が苦しんでいたなんて、わたしはこの時はまだ知るよしもなかった。


 身長は百八十センチあるかないかくらい。スラリとせているけれど、貧弱というわけでもなく、程よくガッシリとした体型。

 そして、顔立ちはなかなかに整っている。間違いなく〝イケメン〟のカテゴリーには入るだろう。何より、優しそうな目元にわたしはかれた。


 ――と、思いがけず彼とわたしの目線が合った気がした。

 あまりにもジロジロとぎょうしすぎていたかも、と少し気まずく思い、それをごまかそうとこちらから笑顔でしゃくすると、彼も笑顔でお辞儀をしてくれた。


 ……なんてりちな人。こんな年下の小娘に丁寧に頭を下げるなんて。――彼に対するわたしの第一印象はこれだった。でも、彼のことが気になって、彼から目が離せなくなっている自分がいた。

 この感情が〝恋〟なのだと気づいたのは、その翌日のことだったけれど……。だってわたしは、それまでに一度も恋をしたことがなかったのだから。


「――あっ、いけない! パパを探してる途中だったんだ!」


 わたしはハッと我に返り、彼のことをもっと見ていたいという誘惑を頭の中から追い払い、再び広い会場内を早歩きで移動し始めたのだった。

 その時、母が貢と何か話している光景がわたしの目に飛び込んできた。

 母は楽しそうに彼をからかっているように見え、それに対して彼は何だか恐縮している様子で、母にペコペコと頭を下げているようだった。


「ママ、あの人と一体、どんな話をしてるんだろう……?」


 二人の様子も少し気になったけれど、その時の優先順位は父を探すことの方が上だったので、その疑問はとりあえず頭の隅っこへと追いやっておくことにした。


「――あっ、いた! パパー!」


 その少し後、わたしはバーカウンターにもたれかかっている父の姿を見つけた。


「絢乃? どうしたんだ、そんなに血相かえて」


「どうしたんだ、じゃないでしょ? パパのことが心配だったの! 最近、具合悪そうにしてるし、食欲もないみたいだから……」


 そう言いながらわたしがカウンターの上にチラッと目を遣れば、そこにはウィスキーの水割りが入ったグラスが。


「お酒……飲んでたの? ママに止められてるのに」


 とがめるわたしに、父は困ったような表情を浮かべてこう言った。


「心配するな。これでまだ一杯目だから。誕生日なんだから、これくらい許してくれよ、な? 頼むから」


「もう……、パパったら!」


 心配をかけた父に、わたしは怒ってもいたけれど、わたしや母の前では子供みたいにダダをこねる父が憎めなくて、ついつい笑ってしまった。

 これでオフィスにいる時には、堂々たるボスの風格をたたえていたのだ。そんな父のギャップを見られるのは、家族であるわたしと母だけの特権だったかもしれない。


「仕方ないなぁ……。じゃあ、その一杯だけでやめとこうね? ママもそれくらいなら許してくれると思うから」


「ああ、分かってるさ。すまないな。絢乃もいつの間にか、こんなに大人になってたんだなぁ」


「……パパ、わたしまだ高校二年生なんだけど」


 どこか遠くを見るような目をして言った父に、わたしはそうツッコんだ。けれど、多分父が言いたかったのはそういうことじゃなかったのだ。

 父親にお説教ができるくらい、わたしが成長したと言いたかったのだと思う。


 ちなみに、その当時わたしが高校二年生だったというのは事実である。


 ――わたしは初等部から、はちおう市にある私立めいおう女子学院に通っていた。

 女子校に入ったのは両親の意向では決してなく、わたし自身の意思からだった。

「制服が可愛いから」というのが、その理由である。

 父も母も、わたしの教育に関してはげんかくでなく、どちらかといえば「お嬢さまイコール箱入り娘」という考え方こそ時代遅れだと思っていたようだ。わたしには世間一般の常識などもちゃんと知ったうえで、大人になってほしいという教育方針だったのだろう。


 その証拠に、両親はどんな時にもわたしの意思をキチンと尊重してくれて、わたしがやりたいと思ったことには何でもチャレンジさせてくれた。

 習いごとに関してもそれは同じで、父や母から強要されたことはなく、わたしが自分から「習いたい」と言ったことをさせてくれていた感じだった。

 だからわたしは、初等部の頃からずっと電車通学だったし、放課後には友だちとショッピングを楽しんだり、カフェでお茶したりといったことも禁止されなくて、のびのびと自由度の高い学校生活を送ることができたのだと、両親には今でも感謝している。


 ――それはさておき。


「あら、あなた。こんなところにいたのね。……まあ! お酒なんか飲んで! ダメって言ったでしょう!?」


 父と二人で楽しく談笑していると、そこへ母がやってきて、父の飲酒に目くじらを立て始めた。


「あなた、体調があまりよくないとか言ってなかった? なのにお酒なんて! まったく何考えてるの!?」


「ママ、そんなに怒ったらパパがかわいそうよ。今日はお誕生日なんだし、それくらいわたしに免じて大目に見てあげて!」


 母からくどくどとお説教されていた父が何だかびんに思えてきて、わたしはとっさに父の肩を持った。

 ……特に、自分ではファザコンだと意識したことはなかったのだけれど。


「ね? ママ、お願い!」


 手を合わせてこんがんしたわたしに、母はやれやれ、と肩をすくめて白旗を揚げた。父もそうだったけれど、母も何だかんだ言ってわたしにめっぽう甘いのだ。


「…………しょうがないわねぇ。ここは絢乃に免じて目をつぶってあげる。ただし、その一杯だけにしてね?」


「分かったよ。ありがとう、加奈子。君にも心配をかけて申し訳ない」


 父は許可してくれた母にお礼とおびを言って、チビチビとクラスをかたむけた。

 母はどうやら娘のわたしにだけでなく、夫である父にも甘かったらしい。


 そしてわたしがおぼえている限り、父はいつも母に頭が上がらなかった。それは父が結婚前、篠沢商事の営業部に勤めるイチ社員にすぎなかったからである。


 父は当時の上司――営業部長の勧めで、会長令嬢だった母とお見合いし、その日にすぐ共通の趣味であるジャズの話で意気投合したそうだ。そんな二人が結婚を決めるのに、それほど時間はかからなかったらしい。

 政略結婚だったわけではないので、父は母のことを本当に愛していたと思う。娘のわたしが見た限りでは、夫婦仲もよかった。

 そして、父はひとつぶだねだったわたしのことすごく大事に思ってくれていた。

 わたしも父のことが(もちろん、母のことも)大好きで、尊敬もしていたので、子供の頃から「わたしが父の後を継ぐんだ」と思うようになったのもごく自然なことだったのかもしれない。


 わたしたち親子三人は本当に、心から幸せだった。――から三ヶ月後までは。



   * * * *



 ――ガタン!


 父が座っていたバーカウンターの椅子が、突然音を立てて倒れ、すぐそばには真っ青な顔をした父がうずくまっていた。


「……パパ!? どうしたの!?」


「あなた、大丈夫!?」


 わたしと母が驚いて呼びかけると、父はどう聞いても大丈夫じゃないでしょうと言いたくなるような声で「大丈夫だ」と言った。


「少し目眩めまいがしただけだよ。本当にすまん」


 父はどう見ても強がっているようで、そのままヨロヨロと立ち上がろうとしたけれど、足元に力が入らないのか一人ではなかなか立ち上がれなかった。


「……あれ? おかしいな」


「あなた、ムリしないで。私の肩につかまって、ほら」


「ああ……。加奈子、迷惑かけてすまない」


 しきりに謝る父に母は首を振り、「いいのよ、気にしないで。夫婦でしょ?」と言っていた。


 母の支えを借りながらどうにか立ち上がることができた父だけれど、見るからに体調が悪そうで、もうパーティーどころではないなとわたしも母も思った。


「パパ……、今日はもう帰って休んだら? そんな状態じゃ、もうパーティーどころじゃないでしょ?」


「そうね、私も絢乃の意見に賛成。あなた、帰りましょ? すぐに迎えを呼ぶわ」


「……ああ、そうだな。申し訳ないが、そうさせてもらうことにするよ」


 母は我が家のお抱え運転手に電話をかけ、通話を終えるとわたしにこう頼んだ。


「絢乃、悪いけどあなたはここに残ってくれる? 主役のパパがいなくなったら、招待客の皆さんが混乱されると思うの。あとでちゃんと連絡するから、九時ごろになったら、パパの代わりにパーティー終了の挨拶をしてほしいのよ。お願いできる?」


「うん、分かった。任せて。ママ、パパのことよろしくね」


 わたしは母の頼みごとを二つ返事でかいだくした。責任重大だったけれど、こうなったらもうやるしかない、と腹をくくった。



 ――それから十数分後に、母に呼ばれた運転手のてらさんが会場に現れた。


ダンさま、奥さま! 急いでお迎えに上がりました! 一体何があったのでございますか?」


「寺田、呼びつけて悪いわね。この人、具合が悪くなって倒れたの。私、この人と一緒に帰るから、あなたも彼を車に乗せるのに手を貸してくれる?」


 母から手伝いを頼まれた彼は、「はい、かしこまりました」と頷き、母と二人で両脇から父の長身の体を支えた。

 父は痩せていたけれど軽かったわけでもないので、女性である母一人の力では、地下駐車場まで抱えていくことは不可能だったと思う。


「お嬢さまは……、ご一緒にお帰りにならないので?」


 寺田さんは会場から動こうとしなかったわたしに、不思議そうに首を傾げた。


「わたしはここに残って、お客さまたちを送り出すことになったの。――寺田さん、パパとママのことお願いね」


「かしこまりました、お嬢さま」


 寺田さんは頷き、母とともに父を連れて会場を後にした。



 その数分後、体調の悪い父とその付き添いの母を乗せた黒塗りのセンチュリーが、夜のまるうちの闇にまぎれていくのがホールのガラス窓から見えた――。

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