初陣

 嗚呼、視界が潰れるのは今日で何度目だろうか。デジャヴを感じつつ、彼女は視界が戻るのを待った。程無くして視界は戻る。そこは家の中であった。特筆の必要も無いモダン風の家の二階である。そこは問題無い。異変は目の前にあった。恐らくヘカテ氏の言っていた仕事の内容とは、目の前の存在をひっ捕らえる事であろうと結衣には思われた。清潔感のある部屋の中央、ベッドに横たわる、明らかに人間の形では無い寝袋の様なものと、それに怪しい注射機を刺している、これまた怪しい真黒の人影。黒尽くめのシルエットはこちらを確認すると、迷い無き素早い動きで逃げようとする。彼女はそれを追おうとするも、その思考が行動に移る前に、例の金属音と共に少女インダストが弾丸の様に飛び出し、その速度に比例した鋭さで叫んだ。




「私はこいつを追いますワ、貴女はその芋虫を引き受けて頂戴!」




 あたふたとしながらも、窓を一撃で割り、飛び降りた黒い影を追って彼女も又割れた窓から外へ脱出する。そちらへ結衣が意識を向けられたのもそこまでの事、何故ならば、寝具からドサリと落ちる音がしたかと思えば、大角花潜の幼虫を何十倍にも巨大化させた様な化け物が、此方を捕捉していたのだから! 




 全長およそ2メートル、白いぶよぶよとした体は動く度に嫌悪感を催し、それを支える三対六本の脚部と橙褐色の頭の大顎は、思いがけず鋭く凶悪、あれに掛かればただでは済むまいと思われた。虫は何時でも攻撃が出来る態勢であり、結衣も又青白い氷の魔法少女の姿に変身し、互いに臨戦態勢で睨み合う。


 果たして、芋虫の方が先に動いた。今までの動作の緩慢さからは思いも寄らぬ、二乗三乗の法則を完全に無視した俊敏さで飛び掛かる! 咄嗟に彼女は長物となっていたステッキを構えて受け止め、大顎によって柔らかな肉を抉られる事無きを得た。相当の重量――200キログラムはあろうか――が腕に負担を与えるも、彼女が力を籠めれば、驚く程簡単に押し戻し、投げ飛ばす事が出来た。魔法少女に変身すれば、身体能力も並外れて高くなるらしい。家具や壁を巻き込んで砕け吹き飛んだ虫は、建物の外壁に到達してやっと止まり、強く叩き付けられて漆色の体液を垂れ流しながらも、戦意はあくまで失われず、果敢に向かってくるのである!  




 向かわれた結衣は何をするかと思えば、なんと敵を目の前にして目を閉じ、かと思えば、ステッキの先の雪の結晶が淡く煌めき、周囲に複数の氷の結晶が出現し、高速で芋虫目掛けて飛んで行った! 結晶の先端は鋭く、柔らかい体に次々と突き刺さり、二十を超える美麗な氷柱が全て発射された時には、既に幼虫は息絶え、体液を辺り一面に散らし、動かなくなっていた。




 彼女が目を開き、必要以上に冷めた骸を目にすると、結衣は急に背筋に重石の如き質量と、ナイフの冷たさがあてがわれた様な心持ちになった。今までは怪物等と戦うと言われ、言葉や理屈の上でのみの事で理解していたと思い込んでいたが、いざ肌で感じる滔々とした死の香り、確たる悲壮、寂寥、凄惨を纏う屍を体感すると、心が酷く苛まれたのだ。この不安! 恐怖! 罪悪! 良心が背中を這い上がり、心の臓府を掴んで絶えず苦しみを与えるのである! ここで読者諸君は、たかが虫一匹殺した程度で大げさに、と思うやも知れぬ。しかし、圷結衣と言う人間は、僅か九歳の良心の持ち主、聖人君子に及ばぬまでも、純真なる慈愛の心を有したいたいけな少女市民である事、虫も大きく、一層の生物としての表情や性格を顕著に表していた事を留意してみれば、これは無理からぬ事であるのと分かって頂ける事だろう。




 無為の哀悼を捧げていると、ガアンと金属を叩き付けた音が耳朶を揺さぶる。そうだ、インダストちゃんはどうしたのだろうとの心配が結衣の脳裏を過る。彼女はあのちみっこい魔法少女の実力など殆ど把握していない。時速約300キロで移動して壁を障子同然に粉砕したり、零下200度の氷の中で平然としていたにはしていたが、容姿が容姿である上、能力がそれだけである可能性も在るのだ。しかしその実、そんなものは建前、彼女はこの死の巣窟から抜け出したいが為に、自分の心に言い訳をしていたに過ぎなかったのであった。




 窓から飛び降りるのは憚られたので、可能な限り急ぎ、脱兎の様にドタドタと階段を降りて二階から離れ、魔法少女の元へ走った。彼女が家の玄関を開けた直後、目に飛び込んできた光景の余りの衝撃に崩れ落ちた。




 家の直ぐ前で、インダストが黒い人影を拘束していた。白い細腕はその形を留めず、無数のパイプ、クレーン、歯車等の機械類の集合体に変形しており、太さ2メートル、長さ4メートル程の腕…と呼ぶのも抵抗がある物体の先に、半ば埋め込まれる形で人が囚われていた。黒の覆面は剝がされて、男の顔が露わとなっていた。そしてその下、そこにあったのは…切断された人の足。見る見るうちに、足の肉と皮と服とを突き破り、幾つもの金属塊が蠢き、腕の方へ伸びて、魔法少女に同化する。




「助けてくれぇ! 助けてくれぇ!! 死にたくない! し、死にたくないぃぃぃぃ!!!」




「五月蠅いですわネ。そんな元気があるのなら、早く話してくださいナ。貴方が…アー、なんちゃら組織の一員である事は既に分かっているんですのヨ。私は貴方が使っていた注射器を作ってたラボの場所が知りたいんですノ。」




「知らない! そんなものは知らない!! 下ろしてくれ! 助けてくれぇぇぇぇ!!!」




「幾ら叫んでも、誰も来ませんヨ。早く話して下さいナ。次は腕、耳、鼻、目、命の順番に貰って行きますわヨ?」




 そう言った次の瞬間には、男の腕からも同様に夥しい数の機械が生身を浸食し、脱落させ、金属と化し、冒涜的な音を立ててインダストの腕の中へと自律的に取り込まれて行った。次いで耳が切り落とされ、鼻が削がれ、次々と有機が無機の鋼となり、精緻さの無い機械の中へと取り込まれる。今や男は筆舌には尽くし難い絶望と、結衣が抱いていたものとは全く異質かつ度合いも段違いの恐怖を浮かべた表情を虚空に向けて哀れにも喚き散らすも、インダストは眉一つ動かさない。




「待ってくれ! 話す! 話すよ! お願いだ、頼むから殺さないでくれぇぇ!!」




「知ってるじゃないノォ、物分かりが遅い事ネ。アア、結衣ちゃん、もう倒して来たのネ! よくやったワネ! この人が案内してくれるそうですワ。早くナントカカントカとか言うところに行きましょう!」




 二本の蛇口の見た目をしたものが、眼を抉らんと這い出て来た所で、男はやっと折れた。インダストはその悪魔の所業を全くの無表情で行いながらも、結衣の姿を見るなり、満面の笑みで、相も変わらず友好的に話し掛ける。結衣は怖じた。その酷く損壊した男の姿に。その異様なる変形した腕に。そして何よりも、これほど残酷な事を、何とも思わぬこの少女に。




 されど彼女は怖気を表に出す事が出来なかった。彼女は人間一人など羽虫を潰すより簡単に殺す事が出来た。結衣も例外では無く、魔法少女インダストの気さえ向けば、浮塵子の如く挽肉にされてしまう光景が、ありありと脳裏に浮かんだのである。彼女は笑顔を張り付けた。彼女は平静を取り繕った。彼女は疑心を押し殺した。魔法少女はそれを心底から信じ切っている様だった。全く無邪気な様子に、結衣は眉を少し下げた。どんよりとした空模様の下に広がる住宅街からは、騒ぐ男に誘引された様子の人は、誰一人として見えなかった。




 組織のラボとやらは、案外に近かった。街中に巧みにカモフラージュされた、地下に続く階段、そこに着いた時には、彼女の手には、階段へ続く道を開いた等身大の人型金属製アクセサリが付けられていた。階段を降りる時のダアンダアンと響く足音は、死刑執行人の歩みに思えてならなかった。病院の様な、殊更に濁った蛍光の照明の源が見えた途端。




 髪がはためく。風が吹く。鳶の残像が一直線上に駆け抜け、数十人の人間が跳ね飛ばされ、後を追う様に施設の壁があの腕と同質の乱雑な工場を思わせる機械に変質する。そこが何だったのか、飛んだ欠片が元はなんだったのかすら理解させぬ早業。轢断された頭部が一本の鉄骨に貫かれ、金属と化したキャベツ大の肉塊からは四本の配管が生え、更に三人の首級を上げて放射状に十六本のケーブルを張り巡らす光景が、そこかしこで繰り広げられた。分解された肉と骨は全て鋼と化し、地に横たわる人の残骸は機械となって存在せず、断末魔を上げる間も無く、血が飛び散る余地も無い。これは一方的な虐殺ですら無かった。死の匂いも、生命の痕跡も、何もかもが否定されていた。形成される機械群の全てからは、赤い光が差していた。魔法少女は突き当りからさらに曲がり、捕捉させる事を許さなかった。




 結衣は臆面も無く、数千数万の赤い視線の前で、洟も拭わず、顔を赤く腫らして恐怖に泣き叫んだ。機械が人の形に浮き出し、大いに動揺した様子の赤い視線を向けて、インダストが駆け寄る。




「どうしましたノ!? 何があったのですカ!? アア、こんな酷い事をしたのは誰でしょう! すぐにでもとっちめますワ! サア、誰が貴女を泣かしたんですノ? 早く話して下さいナ。」




 結衣は答えられる筈も無かった。インダストが自身より背の高い結衣を軽々と抱き上げると、更に結衣は赤ん坊の様に泣いたが、まだ暴れないだけの理性は残っていた。彼女は何故あの行為と両立させる事が出来るのかが不可解な程に優しく話し、穏やかに歩いた。あの地獄さえ見なければ、天使にさえ見えたかも知れなかった。全く警戒も無く、敵地の中心だと言うのに、自分の家の如く歩いていたが、襲ってくる敵など居なかった。殺戮の跡地には虚無感や血腥い空気は漂わず、彼女の残滓に全てが塗り潰されていた。




 軈て、機械の壁が途切れ、今までと比べると、格段に広い部屋に出た。其処には怪物が居た。見上げる程の大きさ、全長ならば優に20メートルはあろう。長大に張られた六足は刺々しく、されど推定数百トンの体重を支えるのには細過ぎる。その足は例に漏れず、見た目のそれを逸脱した強靭な力を持ち、空間を占有する、白に茶の模様が入った太々しい図体の先には二股に分かれた角が生えたそれは、あの大角花潜の成虫に違い無いのであった。ガラスの漕を破り這い出、当所も無く徘徊していた怪虫は、此方を確認するなり前翅を閉じたまま、黒々とした虹色の巨大な鉈とも例えられる後翅を震わせながら開き、発するは、恐るべき速度で瓦礫を打ち壊し、破竹の勢いの大突進! 




 しかし、今のこの二人には、巨大な虫が何をしようが関係が無かったのだった。インダストは一瞥すらくれず、全く無防備である。それに向けて一心不乱に襲い掛かる怪虫であったが、機械の壁や床から65,536本のロボットアームとクレーンが外骨格を突き貫き、突進をいとも簡単に止めてしまった。身体の体積の約半分が抉られて掻き出され、二人を含めた部屋全体が艶めいた内蔵の破片と体液で、ペンキをぶちまけた様な有様となっていた。その中でも未だ死に切れずに藻掻いていた巨虫に魔法少女が結衣をぬいぐるみを置く様な滑稽なまでの丁寧さで下ろして近付き、片手を添えると、虫はバキバキと音を立てて潰れ、間髪を入れずに金属の波が死骸と体液を飲み込んだ。




 かつ、かつ、かつ、かつ。




 この詳細も分からぬままに機械に沈んだ地下施設の中で、異質ですらある、"生"の足音が響いた。機械の中から歩み出た、白衣着用の壮年の男性が、周囲をぐるりと見回し、そしてインダストと結衣に相対した。




「………誰も入れるな、と云っていた筈だが、随分な客が来たものだ。こんな血も涙もない魔法少女のお目見えとは。」




「アラアラ、金属分はもう要らないですワ、コバルトとモリブデンの供給にしては、余分な物が多すぎますシ、施設には鉄がそれはもう沢山ありましたもの。それと、私が血も涙もない、ですっテ? 嘘おっしゃいナ! ホラこの通り、ちゃあんと血も涙も通っておりますヨォ!」




 インダストは自分の首を切り裂き、手に持った、冷笑したままの顔から涙を流した。結衣には、これは悪夢としか思えなかった。男は皺を刻んだ顔を嫌悪に歪ませ、髭の手入れが行き届いた頑丈な顎をわなわなと動かした。




「人を人とも思わぬ化け物めが、黙れ、黙れ! 何もかも滅茶苦茶にしやがって。貴様の様な者に人を名乗られる事そのものが、人類に対する侮辱に外ならぬ。人の心こそが、人を人たらしめる最大の要素であるのだ。人の心をそのままに、強力な肉体を得る、素晴らしい研究の成功作、『サンプル1グレゴール』も、こんな冷徹極まりない化け物なんぞにこんな惨い殺され方をされたのでは、さぞ浮かばれん事だろうな。」




「アア、あの虫ケラの事。ヒドロキシアパタイトの芯が無いのがちょっと戴けなかったワ。歯応えが無いノ。虫の殻は薄過ぎるのよネェ。人を殺すのが化け物なら、人を化け物にしたのは貴方。身体が化け物になっちゃえば、脳だけ人間でもゼーンゼン。動きも基調…気性も、虫と変わらないワ。」




「いいや違う! 絶対に違う! 貴様には分からんだろう! 化け物に人間の感情なぞ、一億年掛かっても分からんだろうな!! 息子を容易くこうすることが出来る、心の無い奴めが!!」




 男は金属の中から息子の頭部らしき金属塊を抱え上げ、青い炎と梵字を浮かび上がらせて高速で接近し、インダストに炎を打ち込むも、その時には既に少女の姿は機械の中に掻き消え、男の背後の機械が人型に浮かび上がり、鋼の綱があらゆる場所から蝮の様に飛び掛かっていたのであった。男は炎を自分の周囲に球状に張って鋼縄を溶かして防ぎ、背後のインダストに向かって、白衣の懐から取り出したコルト・ガバメントを飛び退きながら発砲した! 煤染みた紺のリボンが弾け飛び、錫粉と鳶の生地に幾つもの風穴が空く。硝煙が煙り、すかさず叩き付けられた鋼をも溶かす豪炎に包まれ…




 …中からインダストが片手を振るい、炎を払って姿を現す。服こそ弾丸により蜂の巣になり、炎による焦げが元の煤と合わせて布地の半分以上を黒く染めていたが、その下の白い肌には掠り傷さえ無く、少女の珠を彷彿とさせる容貌を穢す瑕は一つも無かった。彼女は眼光を男に向けると、反応も追い付かない速さで叩き伏せた。落下点の床が棘状に隆起し、心臓を貫く。ところが、男は腕が折れ、上半身のみになっているにも関わらず、憐れみを籠めて、皮肉っぽく、乾いた嗤いを浮かべている。




「なんで、笑っているのかしらン?」




「ははは、はははは。化け物が、人間に勝てる訳が無いだろう。輝く人の意思の力はちっぽけな力関係を覆すのに十分な力があるのだ。怨念に憑り殺されて死ね。貴様の様な人殺しの化け物を斃せるのならば、私の死にも意味が見出せると言うものだ! はははは、はははははは!」




「機械に思念なんてある訳がないでしょうニ。何を言っているんでしょうネ。」




 男が殺意を宿して笑い、全身から炎を出す。おどろおどろしい怨念の塊だ。紫の炎は刻一刻と肥大化し、そしてそれが効力を為す前に、男は金属に取り込まれ、最期に浮かべた無念の表情も、歯車の狭間に突き破られ、これが元は人間であったとは誰も信じないだろう、前近代的な機械になった。




 インダストが男と戦っている所、結衣も又、激しく葛藤し、罪悪と対峙していた。人の心を持ったまま、人ならざる体を得る研究…詰まり、あの虫…結衣が殺した、あの虫は、人の心を持っていたのである。人を殺した、人を殺した、お前は人を殺したのだ、と空想があらゆる姿形を取って取り囲み、呵責を加え続ける。その中には自分自身の姿もあった。それに言い返す言葉を探す事は、それ自体が罪悪の上塗りであった。彼女は蹲り、氷の中に閉じ籠った。それでも押し潰されるのは時間の問題であった。氷の壁が溶け、頬が赤く泣き腫れ、顔をくしゃくしゃにし、それでも構わず泣き続けた。




「ウンウン、終わった、終わった! …アア! こんなんじゃ結衣ちゃんの訓練にならないじゃないノ! 御免なさいね! …アラ? もう大丈夫ヨ、怖い敵は全員この頼れる先輩が倒しましたからネ、サア、帰りましょう。」




 インダストは手を差し出した。それが彼女には、とても恐ろしく見えた。機械と化した施設そのものを飲み込みながら出された手は、自分と言う悪を抹殺する為のギロチンの刃と幻視された。結衣は半ば錯乱状態で、その小さな手を拒絶して、後退った。その直後に結衣は自分が何をしたのかを理解し、すっと赤くなっていた顔を青ざめさせたが、後悔は先に立つものでは無かった。




 魔法少女の、可憐な笑顔が急速に崩れる。吸い込まれる施設は魔法少女の背に巨大な影を作り、見開かれた目から赤の光線が、真っ直ぐに結衣の方面へ照射された。

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