魔法少女との邂逅
ヘカテ氏の邸宅が誇る大廊下は、深夜のトンネルの様な印象を受ける物であった。一定間隔に設けられたランタンの青い照明は、蛍光灯を思わせる不自然な明かりであり、暗がりで無ければさぞ貴族的だった事だろう複雑な装飾も、今はその形に影を落として殊更に恐怖を誘うばかりだった。今は昼間の筈なのに、窓の奥は一寸たりとも見る事は出来ず、日光もペンタブラックに吸われた様に入ってこないのだ。尤も、ここへの転移の直前の時間が昼だったというだけで、今の時間が昼かどうかは解らないのだが。
暗さばかりでは無い。この廊下は異常に長いのだ。その長さたるや、幅4メートルはあろうかと言う廊下の壁に4、5メートル間隔で設置されているランタンが目視出来なくなる程であり、長さに至れば何百メートルあるのかの判別も付かない。廊下の高さがおよそ不要な程に高く、天井に至っては完全に闇に包まれてしまっているのも、恐ろしさを増す要因となっている。
結衣は窓とは反対側の壁を伝って、恐る恐るといった体で廊下を進んでいた。足はすっかり竦み、不安は最早取り繕う事すらされておらず、時折床に敷かれた絨毯の模様や装飾の影の作り出す虚像の怪物に、ウサギの様に怯える様子を見せていた。無論そんな為体では進むものも進まず、5分が経過した今でも、100メートル歩いたか歩かぬか程度しか移動してはいなかった。
廊下には時折扉が存在した。通常は如何にも西洋の屋敷らしい木製の物であり、これ自体は至って正常極まりないものであったが、今の結衣に対しては、塵一つ程度の変化でも、スプラッター映画の殺人鬼の挙動と同じだけの効能を持つのであった。
しかしある時の事である。結衣はある一つのドアと対面した。それは今までのものとは全く異なっており、この場に則わぬ異質感を溢れんばかりに撒き散らすものであった。
材質は鋼鉄。蝶番の存在を確認する事は出来ず、黒い油の汚れが四隅にこびり付いている。丁度彼女の顔程の高さには、潜水艦の様なドーム状の窓があり、汚れ曇って中を見る事は叶わなかったが、赤い光が一つだけ、覗き込む様に差し、闇に一筋の線を描いて鋭く突いていた。
結衣はその視線とも機械のライトとも付かぬ明滅を目に入れるなり、すぐさま廊下の反対側に飛び退き、恐る恐るといった風に注意深く奇妙な扉を監視しながら、元からゆっくりだったのを、更に慎重な足取りで進むのであった。
赤の点はこころなしか、常にこちらに相対する様であった。それに気付いた彼女は注意深く一、二歩踏み出し、目を離したかと思うと、間を置かずに全力で駆け出した。
するとそれを追うように金属を踏む、ダアンダアンと重い足音が鳴り始め、白い蒸気が凄まじい勢いで壁の至る所からプシュウと噴射して廊下中に薄黄色の霧を充満させ、先程の赤い光がレーザーサイトの様に背中を差し、霧に乱反射してランタンの青を打ち消したのだ!
彼女は死に物狂いで逃げるも、凄まじい速さの足音は忽ちの内に背後へと迫り追い越し、かと思えば破砕音と共に壁を障子の如く突き破り、人程の赤い光の主は、結衣の目鼻のすぐ先に飛び込んで来た!
結衣は金切り声を上げて急停止、やにわ後ろに逃げようとするも、腰を抜かして倒れ込んだ。あまりの驚愕と狼狽に、可哀想にも表情は引き攣り、失神をも引き起こしかねなかった。それを知ってか知らずか、目の前の怪人追跡者は、ゆっくりと蠕き歩き、崩れ落ちた結衣に迫って来た!
彼女が息を荒くしてひとしきり震え、ブラウン色の瞳孔が明後日の方向へ飛んで行き、意識も現実から飛び去る直前、奴はなんと実にフレンドリーな様子で手を差し伸べ、結衣を起き上がらせようとしたのである! 彼の奇怪も奇怪なる化け物は、実は味方であったのだろうか! 予想外も篦棒ひとしお、結衣は失神への移行を中断し、ぱちくりと間抜けに手を差し伸べる実体を見た。
結衣はまず、それが人の姿、それも女性のそれであった事が意外に思われた。足音は絶え間なく、ともすれば蜘蛛か蜈蚣の化け物を幻視させる嫌悪を与えるものであったからである。茶とネイビーの中間の髪は無造作に散らばり片目を隠し、見えている方の真紅の瞳こそ、あの光の正体だった。
格好はドレス、長いスカートと鳶と紺、そして錫粉色の変わった配色、そして通常の服にはあるまじき量のフリルとリボンのあしらわれた、ゴシックファッション風のデザインが特徴の服だが、丈の長すぎる袖と何故か煤けたそれは、神聖さを織り交ぜた可憐さを感じさせはしなかった。恐らくは今日魔法少女の契約を取り結んだばかりの結衣の先輩にあたるだろう、小学生でも低学年程と思われる少女は、随分とはしゃいでいる様だった。
「ごめんなさいネェ、居ても立ってもいられなかったのヨ。あなた、新入りでしょゥ? ようこそォ! あなたは魔法少女なのねェ、そうでしょゥ? アァ、心が躍る! 私の後輩が出来たのネ!!」
ギラリギラリと目を輝かせ、手を出鱈目に振り回して余分な丈の袖をぶらつかせ、起き上がった結衣の周りを猛烈な速度と勢いで跳ね回りながら、魔法少女は覚束ない話し方で、歓迎の言葉をかけた。ひとまず害意は無いとは分かったが、それまでの全体像がベールに包まれた怪物の振る舞いとは違うベクトルで、この態度も又心の平穏を脅かした。
「見たところ、あなたは困ってあるみたいですネエ。でも、安心すると良いワ! 何しろ私は、あなたの先輩なんだからネエ! 何か筆問…ハテ。詰問、日問、ちつ…」
「質問? じゃないの?」
「エエ、そうでしたワ! もし質問があれば、ずゃんずゃん聞いてもらって…ウン?」
「じゃんじゃん?」
「あなた、ものを良く識っているのネ、感心しますワ! …ゥヴン! 質問があるなら、じゃんじゃん聞いてもらって構いませんワア!」
結衣はこれを情報を得られるいい機会と捉えた。彼女は未だ魔法少女に関しての知識はあまり無いのだ。テレビなどで怪獣と戦っているのが報道されている事もあったが、それでも今の状況では、ヘカテ氏に魔法少女として仕事をしてもらう、などと言われても、未だに現実感すら沸かないのである。
「わかった、じゃあ一つ、お願い。"魔法少女"について、教えて? 魔法少女になったって言われても、ぜんぜん何かわからなくて…」
「エヘヘェ、お任せアレェ! でも、こォんな薄ぐらな廊下じゃア話すに話せないワ。あなたの部屋に、案内してくれないか知ラン。」
「この廊下の先…だって。でもいくら歩いても…」
「アア! この先ネェ! ちょっと遠イ処よねェ、でもこの頼れる先輩に、任せて頂戴! すぐにでも連れてってあげるワァ!」
言うが早いか、魔法少女は結衣をいとも簡単に抱え上げ、ロケットの打ち上げ時の様な衝撃と共に、例の金属音を追跡の時よりも更に連続して響かせて、体感としてはフォーミュラレーシングカーにも追随しようと言う速度で廊下の奥へと走り出した。勿論速さにも驚いたが、その豪脚…と言うにも異質な速度を以ってしても、十五秒以上も掛かる程の廊下の長さも又異常であった。
結衣が叫ぶのも、魔法少女は聞こえないのか返答も無く、そのまま扉を蹴飛ばし、鍵を使うまでも無く壊して部屋の中に侵入した。結構な広さであり、此処に関しては明るさも充分な、幾分豪華な部屋である。
すっかり疲労した様子の結衣を下ろし、魔法少女は最早唯我独尊の風格を漂わせる様子で、魔法少女について話し始めた。
「あなたも怪獣については知っているでしょう? 他にも妖怪、悪い宇宙人、そしてヘカテさんみたいな神の中でも、悪神のヤツラ。そんな感じの、人に仇なすソレラからみんなを守る為に戦うのが私達の役目ヨ。そのために、ヘカテさんからこんな感じの恰好を貰ったのヨ。カワイイでしょう、エエ。…アー、他にも色々な事がありますけれども、マア追々話しましょう。実験第一…実践第一ダワ!」
「…はあ。」
怪獣、妖怪、宇宙人、神。怪獣と神に関しては直に接触したとは言え、矢継ぎ早に繰り出されたこれらの単語は、益々彼女から魔法少女への現実感を取り去って行った。泡沫の夢の中に居る様な心地だ。
その後、これからここで生活するのだから、どこに何があるのかを知っておいた方が良いだろうとの計らいで、屋敷の各部を見て回った。もう慣れてきてしまった魔法少女の高速移動に身を揺られながら思うのは、矢張りここは馬鹿みたいに広く、そして矢鱈に暗いと言う事だった。あの廊下は大廊でも何でもなく、全てあの大きさなのには驚かされ、生活に使う範囲ばかりはそこまで遠くは無かったが、それでも数十メートルもの距離があるのには辟易した。そしてそこは隅々までも光が入って来る事が無く、無機質な寒色の僅かな灯りのみが標であった。
神を自称する位の者が、この屋敷の主人で無い筈は無いと思っている彼女は、ヘカテ氏の趣味を疑い、そして態々取っていた魔女の格好を思い出して一人合点した。
数分後に部屋に戻った時には、総移動距離は十数キロにも達しようと言う程になっていた。何時の間にか、次は壊さない事、と書いてあるメモが貼られ、直っていた扉をやっと日の目を見た鍵で開けると、煤と金属音の魔法少女は、ポンと手を叩き屈託無き笑みを浮かべ、貴方は初めてなのだから、魔法の練習をしなければならないワネと言うが早いか、再び結衣を軽々と担いで移動を始めた。面倒見が良く、決して悪意満々の者では無い好人物ではあろうが、どうにもそそっかしいものである。未だ両者は名も知らぬと言うのに。
あの怪速は広い館を移動するのには便利な時間の短縮となった。しかし下りの階段に差し掛かり、三階程降りた時などには、速度を全く落とさずにぐるぐると回り降りるので、平衡感覚が揺さぶられ、目的地に着いた頃には参ってしまった。魔法少女が停止した場所は、恐ろしく無機質で何もなく、暗所に慣れ切っていた眼が潰れそうな程白い、高さを含めて一辺50メートル位ありそうな部屋の中である。恐らく廊下を歩いて、正確には背負われて酔った者などは、彼女をおいて他には居ないだろうと思われる。それを見兼ねて、まだ名乗りを上げない魔法少女は、ガシャリガシャリと腕から機械音を上げ、容姿の割に肉付きの少ない手の平に、最初からあったが如く鎮座していたカプセル状の物を渡し、飲む様に促した。それを飲むと、酔いが止められた。いまいち魔法なのか、はたまた只の備えなのか判然としない。
「魔法少女の活動っていうのは、それはそれはキレイで美しくて……そう、美しいものヨ。でも、それと同じ位には危ないものなのヨ。敵はおっかない奴らだらけで、怪我をしちゃうかもしれないワネ。だから、今の内に練習をしておく必要があるワ。まずは、そこの壁に向けて何か出してみましょう。」
魔法少女の言う事は、語彙は少々不足と見えるが、成る程至極全うである。確かに奇酸怪虫アシッドロンの様な化け物と戦うのであれば、訓練をせずに挑むのは蛮勇の極み、烏滸の沙汰としか言い様が無い。だが一つ、これには大きな、それこそ致命的な欠陥があった。彼女は特別な力など、当然ながら使えはしないのである。結衣はそれを聞いてみると、流石にそれを考慮に入れぬ程の昼行灯では無かったらしい。彼女は少しはにかんで見せると、薬剤の置かれていたもう片方の手から、ピンク色のステッキを取り出した。また訳の判らぬ機械音と共に、違和感のある取り出し方をしたのから見るに、これがこの子の魔法なのだろうかと、結衣は推測した。
「心配には及びませんワ、この杖にはヘカテさんが何かをしてて、これを持てば、その人の意思を云々とかで、魔法少女に変身出来る…と言う事ですワ。これを持って何かをイメージすればいいんじゃないかしらン?」
本人もまた魔法少女の一員である筈なのに、随分と婉曲な説明である。結衣は訝しみ、眉を寄せたが、行動を起こさなければ何も始まるものでは無いので、比較的に白い肌の魔法少女の手から、30センチ程度のステッキを受け取った。受け取る際に、その軽いのには多少驚いた。その軽さたるや、まるでプラスチック…と言うより、これはプラスチック製のおもちゃであった。
「………。これ、おもちゃじゃないの?」
「そうですノ? マア……ヘカテさんが魔法の杖だって言うなら、見た目がどんなでも魔法が使えるハズじゃないかしらン。」
これはまた適当で呑気なものである。もう話に対する信用は無くなりかけている。だが念じる他に道は無い。小学生にもなって何が悲しくておもちゃを手にしなくてはならないのか、少々顔を赤らめながら、彼女がプラスチックのステッキを翳す。すると、脳から次々とヴィジョンが湧き出、普段の数倍もの容量で思考が回転する! 彼女の過去の人生の記憶の全て、感情の全て、思考の全てが竜巻の様に舞い上がり、組み立てられて形を成す! 全官能は魔法少女の言っていた云々とやらに使われ、羞恥も消え去り、目を閉じ、耳も塞がれ、嗅覚すら鈍らせ、やがて一つの結晶となり…
…結衣はゆっくりと、格段に軽くなっていた瞼を開いた。何かが変わった感覚がある、それが何かは分からないが。言い表せぬ違和に包まれ、開けた視界、そこには、全く様変わりした部屋の姿があったのだ! 広い部屋は全て凍り付き白い冷気を立ち昇らせ、天井を貫く様な氷柱が至る所に生えていたのである! 実に壮観、実に凄絶な効能! 結衣はこの凄まじい光景を見て一度驚き、更に空気が凍り付く程の低温でも、凍傷はおろか、冷たさすら感じないのに気付いて再び驚いた。
「え!? これ、私が…やったの…?」
「エエ、そうヨ、成功も成功、大成功ネ! 貴女は氷の力を持ったのヨ! やったわネェ! これで貴女は敵と戦う事が出来る様になったのヨ! それと、恰好も変わったワ! カワイイですわネ!」
魔法少女は平然と氷の中で燥ぎ回り、流麗に結衣に抱き着き抱き上げ、そのまま三回転回って下ろした後、鏡を取り出した。そうして、鏡を覗き込んだ彼女は、三度驚いた。鏡の中には、確かに自分ではあるが、それを認識出来ないまでに印象の変化を果たした彼女の姿があったのである! 黒い髪は透き通る白となり、背中に掛かる程伸び、服も青と白のコントラストが掛かり、フリルがあしらわれ、肌などは直射日光への防御手段が無いのではないかと思われる迄の純白へと変貌し、瞳もサファイアの様に青く輝いていた。ステッキのチープさも無くなり、雪の結晶の意匠がチャーミングな長物となっている。形容するなれば、雪の妖精とでも言おうか、自分で自分の容姿を称賛するのはあまりしたいものでも無かったが、結衣は鏡に写った姿に見とれてしまっていた。
「ドレドレ…同じく強く思えば元にも戻れるそうネ。やってみましょう。」
説明書と思わしき紙切れを取り出して魔法少女が言う。先輩としての威厳などとうに超音速で墜落して地べたで爆炎を上げているのだが、未だにその国民的美少女の素養を十二分に備えた御尊顔には、何より頼られる先輩たらんと言う気概が溢れている。無知とは時に幸福なものだ。残念な魔法少女の事は置いておいて、結衣は容易に元に戻る事が出来た。あの感覚は一度限りなのか、何度か変身と解除を繰り返してみたが、何の中継も無く、ノータイムで容姿が変わった。
前触れ無く、室内の氷が消滅した。代わりに出づるは、地獄の底の主の如し禍々しいプレッシャーと、ひしひしと大気を揺るがす力を湛えた無数の魔法陣。紫色の光が辺り一面を照らす中、一陣の黒い風がごうと吹き荒れ、後に残るは老婆の姿。誰あろう、ヘカテである。
「魔法少女に変身出来るようになったかい。よしよし、さぁて、戦力が増えた所で、早速仕事だよ! 此処に入れば現場に転送されるわ。インダストや、結衣を案内しておやり。練習替わりにするのだ。経験が無ければ戦うものも戦えんからね。」
「了承しましたワ、ヘカテさん。ア、自己紹介を忘れてしまっていましたワ、いけない、イケナイ。じゃあ結衣ちゃん、私の事はインダスト先輩、と呼ぶと好いですことヨ! よろしくお願いしますワ!」
「…インダストちゃん、よろしくね!」
ようやっと知った名前の魔法少女、目を輝かせたインダストに手を引かれ、一つだけ緋色に光った文様の上に立つと、そこからは強烈な光が放たれて、眼球の機能を一時的に、瞬く間に奪っていった。
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