第6話 今はまだ


翌日の土曜日、私は川上先輩と市内の動物園へ出かけた。


そこはあまり規模の大きくない動物園だったが、ふれあいコーナーなどもあり、小さな子供連れの家族がたくさん来園していた。



川上先輩はそのふれあいコーナーに私を誘った。

「あそこ、アルパカがいるんだ」

アルパカ、それは園内の紹介看板によると、南米の生き物であるらしい。そう、ケーナと同じ地域出身なのだった。


私たちは、ふれあいコーナーのスタッフから白いアルパカと、茶色いアルパカを触らせてもらった。

「モフモフですね。あ、まつげ長いなあ」

毛がみっちりと生えていて、触るとモフモフしていた。

「かわいいな……」先輩は茶色いアルパカを撫でながら、柔らかく微笑んでいた。

「先輩、アルパカがお好きなんですか」

「当たり前だ。アルパカを嫌いな人間などいない」

「わあ、めっちゃ好きなんですね……」

それにしても、ふかふかのモフモフだ。こんなに毛深くて南米で暮らすのは暑くないのかな。もしやアルパカの住んでいる地域は寒いのだろうか。南米って暑いイメージがあるのだが。そういえば有名なケーナ奏者も、わりと厚着で写真に写っている気がする。

「アルパカとケーナは出身地が同じなのかな」思わず口から出てしまったケーナという言葉に私は慌てた。誤魔化すようにモフモフする。川上先輩に聞かれたかな。横目でちらっと川上先輩のほうを見ると、どことなく笑っているような気がして、私は顔が赤くなるのを感じた。き、気づかないふりをしよう。



しばらくアルパカを撫でさせてもらった後、私たちは園内カフェで休憩することにした。


アイスティーが席に運ばれるのを待ってから、川上先輩はついに本題を切り出してきた。

「部活、もう辞めたいのか?」

「……」

部を嫌だと思ったわけではない。ただ、つらいのだ。どんなに頑張っても報われない、結果が出せないつらさ。そしてみじめな自分のままで部活動に出るつらさ。このつらい気持ちから逃げたいのだ。

「部を辞めたいのではなくて、つらい気持ちから逃げたいんです」

と我ながら情けないことをつぶやいた。


川上先輩は、冷たい目をした。昔のあの冷ややかな目だ。

「桜木」

「は、はいっ」

「何か勘違いしていないか」

「は、はいっ?」

どういう意味だろうか。

「うまい演奏をしようとか、完璧に吹こうとか、そういうことを考えてないか?」

「はい……」

私は頷いた。

「だって演奏するのですから、そう考えるのは当然ではないですか?」

「……」

川上先輩は黙り込んだ。ややあって、「気持ちはわかる」とぽつりとつぶやいた。

「わかるが、でも、今はそんなことは考えなくていい」

「そう……でしょうか」

「桜木がまだ初心者なのは部長たちもわかっている。もちろん俺も。だが、それでもきみのケーナとともにステージに立ちたいと言っているんだ。その意味を考えてほしい」

「えっと……」つまりどういうことだろうか。

「俺たちは、今の桜木に演奏技術は求めていない」

ええ……。それはそれでどうなのか。

「まだそんなことを言えるレベルまで行っていないだろう、きみは」

「それは、はい、そのとおりです」

ぐうの音も出ない。

「一緒にステージに出て、人前で演奏する楽しさを知ってもらえればそれでいい。少なくとも俺はそう思っている」

「でも、人前で演奏するってことは、やっぱりちゃんと吹けないといけないと思うんです」

これは真実だと思う。

「もちろん人に聞かせる以上、最低限必要なレベルはある。今回で言うなら、ギターに合わせてテンポよく、観客が楽しめる音楽をやることがそれだ。ただただ高音を出して楽譜どおりに吹けば良いという話ではない。きみは考え間違いをしているぞ。ひとりで練習してたって、腕は上がったとしても、楽しい音楽は育たないだろう。俺たちは合奏してこそだ」

「うう……」そうなのだろうか。私の努力は間違いだったのだろうか。

「泣くな。泣く暇があったらケーナを吹け」

「うう……はい」

鼻をすすって、涙をこらえ、私はバッグからケーナを取り出して吹こうとした。

「ま、待て、何で持ってきているんだ、いや、感心なことだが、吹くな、動物園では周りの迷惑になる」

呆れたような顔の川上先輩に止められてしまった。

「もう出ようか」

川上先輩に連れられて、カフェを後にした。私は慌ててバッグにケーナをしまい、先輩についていった。



強烈な日差しを避けるため、園内の木陰を歩いていたら、川上先輩がこらえきれないといった感じで笑いはじめた。

「しかし、ケーナを持ってきているとは思わなかった」

「どこに行くときも持っていくようにしていますから」

川上先輩はずっと笑っている。何がそんなに可笑しいんだろうか。ケーナ吹きがケーナを持ち歩くのは当たり前じゃないのだろうか。でも、川上先輩が笑ってくれるのはなんとなく嬉しかった。私も笑った。



やがてカワウソのパネルのある建物へとたどり着いた。

カワウソは人気なのか、建物の入り口には多くの人が集まってきていた。

私たちも人の輪に加わって中に入り、カワウソをガラス窓越しに眺めた。思っていた以上に大きい。そして、せわしない。何匹ものカワウソたちがじゃれたり追いかけ合ったりして、その無邪気に遊ぶ姿は何時間でも見ていられそうだった。


カワウソを見ながら、川上先輩は言った。

「一番大事なのは楽しむこと。楽しさが観客に届くよう表現すること。それが俺たち南米音楽研究部なんだ」


先輩の言葉を聞いて、フラッシュバックのように一番最初に先輩方の演奏を聴いたときのことを思い出した。本当に楽しそうで、聞いているこっちまで楽しくなってきて、私もこの楽しそうな人たちの仲間になりたいと思ったのだ。

私はひとりぼっちで上手に笛を吹けるようになりたいわけじゃなかったのに。


こんな大事なことを忘れていたなんて。


「川上先輩、私、また部に戻っても良いですか」

思わずそう口走っていた。

「私はまだまだですが、だけど、今の自分でできる最高のものを、皆さんと一緒に演奏したいです」

今度こそ楽しさを忘れずに頑張ってみたい。


川上先輩は笑って私の頭を撫でてくれた。


<つづく>

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