第5話 7月の炭酸水

とうとう7月となった。

南米フェスティバルは今月末だから、練習期間はいよいよ1カ月を切った。



その日の放課後、私は一人、非常階段で悩んでいた。


今日はフェスティバルで演奏する曲を決める日だということで招集を受けたのだが、先輩方はまだ来ていない。


私はため息をついた。憂鬱だった。春からずっと練習を続けてきたが、まだ3オクターブ目が出せずにいた。さらにいうと2オクターブ目も怪しいぐらいだった。ケーナの魅力は高音にあると言ってもいいぐらいなのに、その肝心の高音が出ないのである。


こんな状況で曲を決めるだなんて。

そもそも私が出場するのが無理なんだ。



私がうじうじ考えていたら、川上先輩がやってきて、ペットボトル入りのサイダーを手渡してくれた。ペットボトルはひんやりと冷たい。たった今自販機で買ってきたのに違いない。

「最近よく頑張ってるから。差し入れだ」

先輩はそんなことを言う。私は思わず泣きそうになった。全然頑張ってない、いや、頑張っているけど結果が出ていない。なんて情けないのか。

「うう……」

私は半泣きでペットボトルのふたを開けて、サイダーをひとくち飲んだ。しゅわっと泡が口の中ではじける。うう……冷たくて美味しい……。


「あまり思い詰めるなよ」

半泣きの私を見て、川上先輩はそう言ってくれた。

先輩は初めて会ったときは冷たくて怖い先輩だと思っていたが、最近は以前のような冷たい目で見られることはなくなっていた。もしや毎日必死にケーナの練習をしている私の努力を認めてくれたのだろうか。


「でも、高音が出ないんです……」

つい川上先輩には愚痴ってしまう。こんな自分が情けない。

「努力を続ければいつか必ず音が出る日が来る。それだけは間違いないから信じろ」

「だけど……」

南米フェスティバルは今月末なのだ。間に合わなかったらどうするのだ。

「桜木の音色はいい。俺は好きだ。自信を持て」

川上先輩にそう言われて、私はまた涙がこみ上げてきた。


そのとき、誰かが非常階段を駆け上がる足音がした。きっと部長たちだろう。私は慌てて涙をぬぐった。なんとなく部長たちには涙を見られたくなかった。

「ごめんごめん、遅くなった」

「……待たせた……」

部長と長谷川先輩がやってきて、本日の部活がスタートした。



「さて、演奏曲だけど、『コンドルは飛んでいく』は外せないとして、俺としてはもう1曲ぐらいやりたいと思っているんだ」と部長が切り出した。

コンドルは飛んでいくは人気曲なので、コンサートでは必ず演奏するものらしい。その1曲だけでも大変そうなのに、それとは別にもう1曲だなんて無謀ではないだろうか。

「桜木さん、悪いんだけど、選曲の参考にしたいからケーナの演奏をしてみてくれないかな。今どの程度出るのか聞かせてほしい」

「うう……わかりました」

私は言われるがまま吹いてみた。低音から高音へと跳躍するとき、音がかすれたり、出なかったり。ひどい音だった。


部長はひととおり聞き終わると、腕を組んで考え込んでしまった。

私はいたたまれなくなって俯く。やっぱり無理だよ……。


そのとき、川上先輩が、

「美しいウマウアカ娘だ」と突然言った。

ウマ……娘? え、何?

すると、先ほどからずっと黙っていた長谷川先輩が、「……桜木さんに合っている曲だ……」と言って、うんうん頷いた。

「なるほどね。確かにあれなら高音パートも少ないし、サンポーニャがサポートできるか。よし、2曲目は『美しいウマウアカ娘』にしよう!」部長はにっこり笑った。


というわけで、私はこれから1カ月以内に『コンドルは飛んでいく』と『美しいウマウアカ娘』の2曲をマスターせねばならないことになった。


無茶すぎる。しかし文句を言っている暇もない。

とにかく時間がないのだ。

私はすぐさま練習を開始した。



まずは必須曲であるコンドルから始めることにした。

が、試しに吹いてみたら、4小節目にしてつまずいた。高音過ぎて音がうまく出せないのである。



それから1週間以上、毎日練習したけれど、ちっとも吹けるようにならなかった。

練習時間は刻一刻と減っていくのに。フェスティバル当日はどんどん迫ってくるのに。


私は気持ちばかりが焦ってしまって――。



――そして、私はもう泣きたくなるほど嫌になってしまった。


こんなみじめな演奏でステージに立ちたくない。

部活に出て、先輩たちに気を遣われるのもつらかった。

やっぱり部活に入ったのが間違いだったのではないか。そんなネガティブな気持ちでお腹が痛くなってくる。もう泣きたい。



それ以降、私は部活に顔を出すのをやめた。

少なくとも2オクターブくらいはきれいに出せるようにならなければ。そうでなければ部活にも出られない。情けない自分のままで先輩たちに会いたくなかった。


私は楽器店のレンタルスタジオに通って、個人練習を頑張ることにした。学校から帰ったらスタジオの閉まる時間まで籠もり、ひたすら高音を出す練習を頑張った。



――

部活のほうをサボって1週間ほど経ったある金曜の夜。

川上先輩から電話がかかってきた。


部活を休み続けていることを叱られるのだろうかと思い、胃が痛くなってしまって電話は無視させてもらった。しかし何度も何度もかかってきたので、私は仕方なく電話に出た。

「桜木、あした、動物園に行かないか」

てっきり叱られるものとばかり思っていたので、川上先輩からそんなことを言われて驚いた。




<つづく>

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