第12話
伊吹は結局そこで彼と別れ、さっき曲ったばかりの角を引き返した。歩きながら、優しい人なのか意地の悪い人なのか、まったくわからない人だと思った。いや、口が悪い人だということだけはよくわかる。だけれど、とても綺麗な顔で笑うのだということも、今日知った。そして、本当はとてもとても優しい人だということも。
彼は伊吹のことを気にかけてくれていた。だから、わざわざ謝りに来てくれた。今だって、結局は伊吹のことに気を遣って先に帰れと言ってくれたのだ。足が悪く、何度も転んで手や足に傷を作っても、すごく疲れていても、彼は自分自身のことよりも伊吹のことを先に気にかけてくれた。
別れる間際、彼が見せた顔を思い出した。「じゃあ」と頭を下げた伊吹に、夕日の中にいまにも溶けて消えてしまいそうな柔らかな微笑を浮かべ「さようなら」と彼は言った。さようならと、別れの言葉を。綺麗な笑みとともに。そして、もうひ一言、そのあとに言葉を付け足した。小さな声で。伊吹がそれを耳にしないことを願うような、それでいて聞いていてほしいと望むような、曖昧でか細い声で。「綺麗な絵を見せてくれてありがとう」と。空耳かと思って振り向いたときには、璃夕はもう背を向けてゆっくりと歩き出していた。小さな背中が夕日の色に染まって、長い影が道の上に落ちていた。
急に、伊吹は不安になった。歩みを止める。振り返る。しかし、とうに角を二つも曲がっているので、璃夕の姿は見えるはずもない。なのに、無性に彼の姿を見て、その存在を確認したくなった。どうして自分がそんなことを思うのかわからない。だけれど、今日の璃夕は、とても優しくて―――――そして淋しそうだった。
保健室で伊吹に学校のことや友達のこと祖父母のことを尋ねたとき、不思議そうに学校の廊下を歩いているとき、美術室で絵を見せたとき。嬉しそうに笑いながら感心している顔の中に、ほんの一瞬痛みに耐えるような表情がよぎった。もちろん伊吹の気のせいということもある。だけれどもしそうじゃなかったなら、璃夕は何を堪えていたのだろうか。
やはり一人で帰すべきではなかった。そう思った。家まで送るべきだった。彼は足が悪い。無理をしてまで学校に来てくれたのは伊吹に会うためだ。伊吹は彼の誠意にこたえるべきだろう。彼をほおって帰るべきではなかった。伊吹は急いできた道を引き返した。駆け足で先ほど別れたところまで戻る。しかし、そこに璃夕の姿はない。
「え?」
伊吹は驚いた。堤防沿いの道はまっすぐな一本道だ。途中に曲がり角はいくつかあるが、さっき別れてまだ五分と経っていないから、彼の足の遅さから考えても姿が見えなくなるなんてことはないはずだった。どこへ行ってしまったのか。そのとき、ちゃぷんと水が跳ねる音が聞こえた。無意識に海へ視線をやる。
白い何かが夕暮れの落ちかけた海面みなもの中から浮かんでくる。それはいくつもの泡を伴って海中から浮かび出てきた。白いTシャツ。瞬間、血の気が下がった。璃夕の着ていたものだ。
「まさか、海にっ・・・・・・!」
海に落ちたのか。伊吹は堤防にしがみつき海面を覗きこむ。しかし、想像以上に波が激しく暗い。黒い何かがすいとよぎったような気もしたが、わからない。どうしよう。あたりを見回す。人影はない。商店街に戻れば誰かいるかもしれないが、そこまで助けを求めている時間はない。荒い波間に、白いシャツが持ち主を失ってぷかぷかと浮いている。この海は見かけほど穏やかではないし、離岸流もあるという。地元の人間でも日が暮れれば泳ぐことはない。
まるで璃夕が自分を呼んでいるような気がした。助けてと。伊吹は鞄を放り投げると、堤防に足をかけ一気に乗り越えた。
ざぶんと音を立て、海の中に飛び込む。視界を白い泡がふさぎ、全身を冷たい水が包む。必死で目を凝らし、海中を探る。暗い波間の中を、揺れる泡と魚の影が見えた。肝心の璃夕の姿は見えない。とうに流されたのか。透明度は低くないが、海の底には一足先に夜が訪れている。視界はほとんどきかない。
(どうしよう)
すぐに息が切れてきた。苦しさに喉が鳴る。とにかく一度顔を出さなくてはと水をかくが、今になって自分が泳げなかったことを思い出した。手足をばたつかせても一向に浮上する気配は見せず、むしろ水は蜘蛛の糸のように絡みついてくる。
(く、くるしっ)
口元を押さえ、必死で呼吸をこらえるが、肺は酸素を求めて暴れている。だめだ。伊吹は口を開けた。がぼりと酸素が海の中へ流れ出てしまう。きんと耳の奥が鳴っている。
もしかして自分はこの海とは相性が悪いのだろうか。溺れるのはこれで三度目だ。だけれど、この海でなければ人魚に会うこともなかっただろう。
唇に何かが触れた。強く押し付けられ、次の瞬間肺にどっと酸素が流れ込んだ。衝撃に伊吹は呻く。硬く瞑っていた目を開けると、白い顔がすぐ目の前に。伊吹は瞠目した。深い群青の瞳が、伊吹を見つめている。顔は一度離れ、また近づいてくる。再び酸素が肺の中に送り込まれた。息苦しさが弱まる。
その瞳はじっと観察するように伊吹を見つめていたが、もう大丈夫と判断したのか顔が離れた。あ、と声を出そうとして、ぼこぼこと口から酸素が零れる。慌てて手で覆うと、呆れたように瑠璃色の瞳が細められた。しかし、その瞳をもつ美貌の顔は苦笑を刻んだだけだった。ついと白い手が伊吹の手を掴み引っ張った。ぐいぐいと海中を泳ぎ、瞬く間に海面へと浮上する。
伊吹は口をいっぱいに大きく開いて酸素を全身で取り込んだ。そして、吸い込んだ酸素を吐き出しながら「璃夕さん!」と叫んだ。
目の前では、伊吹が溺れないようその手を掴んだまま璃夕が瑠璃色の瞳を向けている。瑠璃色の、瞳。夜の闇の中でも星のように瞬いている。
璃夕の瞳をよく見たことはなかった。ただ漠然と、同じ黒い色だと思っていた。なのに目の前にいる人は、瑠璃色の瞳をしている。人魚と同じ、色。深い夕暮れの空の色。
名前を呼んだはいいが、呆然としてその次の言葉が出ない伊吹の頬を伝い落ちる雫を、璃夕の手がぬぐった。
「馬鹿」
彼は小さな声で言った。伊吹は首を振った。混乱する頭をどうにかしたかったのだ。
「引き返したら璃夕さんがいなくて、おかしいって思って。それで海を見たら着ていたTシャツが浮いてて、り、璃夕さんが海に、落ちたんだって。でもほかに人がいなくて。だから、た、助けないとって」
「僕のために、泳げもしないのに海の中に飛び込んだか?」
「だって、あなたを一人で帰してしまったから・・・・・・・」
泳げないことなど忘れていた。ただ必死だった。
「璃夕さん? 璃夕さんですよね?」
伊吹は縋るようにその名を呼ぶ。璃夕は何も言わなかった。ただ静かに瑠璃の瞳に伊吹の顔を映している。水晶のような雫がぱたぱたと彼の髪から滑り落ち、こめかみ頬、顎を伝い首筋を通って胸元へ落ちる。その下は暗い海中へ。だが、それでも伊吹には見える。海面みなもの中をひらりとそよぐ紫紺の尾鰭が。
璃夕の唇が細く吐息を吐きだした。
「おいで」
彼は伊吹の手を引いたままゆっくりと泳ぎ始めた。
そのときになって伊吹は、自分がずいぶんと沖へと流されていたことに気づいた。首をめぐらすと飛び込んだ堤防が遠くにある。璃夕は堤防の方ではなく、浜の方へ向かっているようだった。彼はずっと無言のままだった。硬く引き結ばれた唇は伊吹との会話を拒否しているように見えた。
璃夕が泳ぎを止めたのは、浜まであと十メートルというところだった。無言で手を放されたので一瞬慌てたが、足が立った。海水は腰の少し上までしかなかった。伊吹は浜へ向かってざぶざぶと歩く。が、半分ほど来たところで璃夕が一緒ではないことに気づいた。振り向くと、彼は海中の中でじっと伊吹を見詰めたまま、同じ場所にいる。
「璃夕さん?」
すいと璃夕が顔をそらすようにして背を向けた。そのまま水の中に潜ってしまおうとする。伊吹は仰天した。水を慌ただしく掻きわけ追いかける。
「り、璃夕さん待ってくださいっ!」
上がった飛沫が目や口の中に入るのも構わず海の中を走る。ここで彼と別れてしまったら二度と会えなくなる気がした。それだけは嫌だった。璃夕は人魚だ。ずっとずっと夢だと思っていた、だけど会いたくて会いたくてしかたがなかった人。足がもつれ、伊吹はばたんと倒れこむ。いっきに海水が口や喉の奥に流れ込み、激しく咳込んだ。喉も肺も痛い。眼尻に涙がに滲む。それでも璃夕を追いかける足をとめられない。もがくように体をばたつかせて立ち上がろうとしたとき、その体を支えた手があった。だらだら流れ落ちてくる海水が視界を邪魔をするが、それでも怒ったように眦を険しくした璃夕の顔は見えた。
「また溺れる気か? 自分が泳げないことをいつになったら自覚するんだ」
冷たい声でぴしゃりと言われ、伊吹は反射的に謝る。瑠璃の瞳。怒りを浮かべている綺麗な顔。伊吹の知る人魚は優しく笑っている。伊吹の知る璃夕はいつも怒っている。全く違うものだと思っていたものが、ゆっくりと重なり合う。どちらも、同じ存在だったのだと。
今度は彼の手が放される前に、伊吹の方から掴む。彼は何も言わなかった。伊吹はもう一方の手で、璃夕の頬に触れた。彼は眼を伏せ、その手にすり寄るように身を寄せてきた。
「あなたが人魚だったんですね」
伊吹の言葉に、目を閉じたまま璃夕が小さく笑った。
「忘れていたくせに」
批難というよりは、拗ねたような物言いが、逆に胸に突き刺さった。否定できない伊吹は、謝るしかできない。
「ごめんなさい。ごめんなさい、璃夕さん。ごめんなさい」
「・・・・・・いいよ、もう。人の子がそうゆうものだと忘れていた僕が悪いんだ。・・・・・・思い出してくれたなら、それでいい」
璃夕は短く言うと、頬にある伊吹の手から身を離した。瑠璃色の瞳を浜へと向ける。
「さあ、浜はあっちだ。もう一人でも歩いていけるだろう? いつまでも海の中にいると、風邪をひいてしまうぞ。おまえは、陸おかの上にお帰り」
「璃夕さんは、どうするんですか?」
「僕のいる場所は、ここだよ」
ここというのは、海の中のことか。伊吹の手から逃げようとするように腕を振られ、その手を逃がさぬため指にいっそう力を込めた。
「伊吹?」
「いやです。いやだ。せっかく会えたのに。璃夕さんがあの時の人魚だとわかったのに、ここで別れるのはいやです。絶対に放さない」
うまい説得の言葉も浮かばず、ただただ嫌だと首を振って全身で否定する。ただ放したくない一心で強く強く華奢な腕を握りこむ。そんなことをすれば彼が痛みを感じるだろうことにも気付かずに。しばらくの間璃夕は無言だった。じっと嫌だと幼子のように駄々をこねる姿を伊吹の姿を見つめていた。その唇に小さな笑みが浮かぶのを、しかし伊吹は気付かなかった。
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