第13話
「言い訳をさせてください」
伊吹がそういうと、波打ち際に寝そべった璃夕がこちらへ瑠璃色の視線を向けてきた。伊吹はなんとか彼を浜辺まで連れてくることに成功した。というか、嫌だと駄々をこねて海から出ようとしない伊吹に、璃夕が呆れて譲歩したという方が正しいだろう。さすがに浜へ上がれた時は、安堵と同時にどっと疲労が押し寄せてきてその場にうずくまってしまった。璃夕は尾をそのままに、下半身だけ波の中へ沈めたまま、肘を立てた格好で横になり伊吹を見ている。
「俺、ずっと夢だと思っていたんです。夢の中で人魚に出会ったって」
伊吹はぽつりぽつりとあの日のことを話し始めた。人魚と別れてすぐに熱を出してしまったこと、三日後目が覚めたとき周りの大人たちがそれは夢だと言ったこと、そして伊吹自身もそのことを信じてしまったこと。それから少ししてこの町を離れ都会に戻り、日々の喧騒の中で人魚の夢を見たことさえ、伊吹は思い出すこともなくなってしまった。
しかし、両親の離婚からこの町へ戻ってくることになった。
この町はどこにいても波の音と潮の香りからは逃げられない。海を見ても波の音を聞いても潮の香りを嗅いでも、しかし伊吹はすぐには人魚のことは思い出さなかった。胸元に揺れる鱗のペンダントも、いつの間にか体の一部分のようになってしまっていて、それがかつて夢の中で人魚から貰ったものなのだと意識することさえ、しなくなっていた。
それは、この水辻の町へ引っ越して、一週間が過ぎた頃だった。祖母に頼まれて商店街へお使いへ行った帰り、堤防沿いを歩いていたとき、ふと見た海の色が、夕暮れの終わり際の濃い青と西の端に小指だけを引っ掛けたような太陽の切れ端に照らされて、一面が濃紺の海面みなもに真っ直ぐに伸びた夕日の帯が出来ていた。
ああ、昔、一度だけこれと同じものを見たと、伊吹は思ったのだ。
そのときは、もっと波の色は黒く、夕焼けの色は濃かった。ちゃぷちゃぷと体の側では冷たい波が揺れていて、それがひどく恐ろしく感じたけれど、体に回された腕の力強さに、泣き出さずにすんだのだ。「海には鮫がいるから怖い」と伊吹がいうと、ちょっと呆れた顔で「僕が側にいるから大丈夫だよ」と笑ってくれた。優しい顔だった。その優しさが嬉しくて暖かくて。きゅっと抱きしめて離れたくないと思ったのを覚えている。帰りたくないとだだをこねた。綺麗な色をした瞳が困ったように細められ、伊吹をあやしてくれた。
夕日が波の合間に沈みこもうとする。空は茜と青と淡い紫色に染まっている。それは光が見せる優しい優しい色。人魚の瞳はその夕日の色に似ている。
記憶の奥から静かに浮かび上がってきた映像は、伊吹の胸を痛くなるほど締め付けた。泣きたいと思った。切なさと愛おしさで涙が滲んだ。どうして忘れてしまったんだろうと思った。夢だったとしても、それは大切な大切な夢だった。
「初めて璃夕さんを見たとき、似ていると思いました。すごくそっくりだって。でも、俺は人魚を夢だと思っていたから、どうしてこんなにも人魚と璃夕さんがにているんだろうって、不思議に思うばかりでした。確かに助けてもらったはずなのに、僕は人魚はおとぎ話の中の架空の生き物だって、思いこんでいたんです」
伊吹は胸の中の息を全部吐き出す。
「璃夕さん」
伊吹は佇まいをなおして、璃夕に向き直った。背筋を伸ばし畏まった自分を、彼は不思議そうにする。伊吹は微笑んだ。
「ずっとずっと言いたかったことがあるんです。あの時、俺はまだ小さくてよくわかってなくて、だから何も言えないまま別れてしまったけど」
伊吹は息を吸い込んだ。
「あの時、俺を助けてくれてありがとうございました。鱗をくれてありがとうございました。ずっとお礼を言いたかった……。あの鱗、今でもペンダントにして持ってるんです。ほら、これ。俺、お守りにしてるんです。ずっと肌身離さず持ってて、嫌なこととかつらいこととかあっても、これ握ってると元気湧いてくるんです。だから、璃夕さんにはたくさん助けてもらった。ありがとうございました。」
一気にそこまで言って、頭を下げた伊吹の上を、海風がさらりと通り過ぎた。俯いたまま彼の言葉を待っている伊吹の顔を、下から掬い上げるようにして璃夕が上向かせた。
「おまえの役に立ったのなら、それでいい。それだけで満足だ」
静かな声だった。それきり、何も望まず期待しないような声。伊吹は彼の手首を掴んだ。
「帰ってきますよね、郁春さんのところに?」
道で海で、くるりと背を向けた璃夕の後ろ姿は、まるで永遠の別れを告げているよう見えた。もう二度と、伊吹の前に現れないのではないか、そんな気がした。この間までの伊吹なら、気にしなかったかもしれない。だけれど、今の伊吹は璃夕と別れたくなかった。人魚だからだけではない。今日学校まで謝りに来てくれた彼を、優しい人なのだと知ったから。
懇願するような声になる。
「璃夕さん、だって遊びに来てっていいましたよね。俺遊びに行きますから。だから――――」
「僕のことを、怒ってたんじゃないのか?」
「そ、それは・・・・・・」
怒っていたわけじゃなく、苦手に思っていただけだ。
「僕は怒ってたよ、伊吹のことを」
璃夕が言った。
「僕のことを忘れていた。僕はずっと伊吹が会いに来るのを待ってた。でも会いに来ない。待ちくたびれて、自分から陸に上がった。僕はすぐに伊吹がわかったよ。なのに、伊吹は僕のことを覚えていなかった。いや、違うな。昔出会った人魚のことを思い出しても、僕と結び付けられなかったんだ。そのことに腹が立った。自分だけが覚えていて、会いに来るのを待ってたなんて馬鹿みたいだって。だから、伊吹に意地悪なことばかりを言って、怒らせてしまった。――――でも、仕方がないことだともわかってはいたんだ。人の一生や流れる時間は僕たち人魚とは違う。星の一瞬きにも似てはかない人間にとって、昔一瞬触れ合っただけの存在なんて、忘れてしまって当然のことだ。だから今は、感謝している。僕のことを思い出してくれたことに。ありがとう、伊吹」
優しい声で紡がれる、切ない言葉に伊吹は頭を振った。違う違う、悪いのは伊吹だ。命を助けてもらったのに、優しくしてもらったのに、忘れてしまった伊吹が悪いのだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
どうしたらこの人を引きとめられるのだろうか。海に戻ってしまっては、伊吹にはもう追うことができない。璃夕は伊吹に失望してしまったのだろうか。ただただ離れたくなかった。夢だと思っていた人が目の前にいる。その人を苦手だと思っていた気持は、一瞬で掻き消えてしまっている。今はただただ、離れたくないその気持ちでいっぱいだった。
「璃夕さん、璃夕さんっ」
懇願するように彼の名前を呼ぶ。
「・・・・・・美術室の描きかけの絵。あの絵のモデルは僕?」
冷たい手が、伊吹の腕に触れる。伊吹は深く頷いた。璃夕が笑った。
「なら、それで許してやるよ。だから、伊吹。おまえも僕のことを許してくれるか? 意地悪をして、ごめんね、伊吹」
伊吹は急いで頷いた。頷きながら、笑った。
「はい!」
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