第11話
坂道をゆっくりゆっくりと歩く。足の悪い璃夕に合わせると、どうしてもそうなってしまう。彼は気にせず先に帰ればいいと言ってくれたが、何もないところでもすぐに転んでしまうので危なっかしくて目を離すことができない。実際階段を降りるときに二回、校舎を出る時に一回、計三回も転びかけている。それをすべて未然に防げたのは伊吹がとっさに体を支えたからだ。
璃夕は俯き加減に、まるで自分の踏み出す足を一歩一歩確認するように歩く。それでも足はすぐにもつれてしまうらしい。そのうえ、足元ばかり見ているから車や自転車が前方から来ても気づくのが遅い。そんな彼を置いて一人で帰れるわけがなかった。
「手を繋いでもいいですか? その方が転んだ時にすぐに支えられるし。璃夕さんも、俺のこと杖だと思ってください。俺の体使ってバランスとった方が歩きやすいはずですから」
伊吹が手を差し出すと、璃夕はおずおずと手を伸ばしてきた。冷たい手だった。まるで水に浸し続けた後のように、ほとんど体温を感じられない。その冷たさに思わず驚いて彼の顔を見ると、璃夕は首を傾げた。
「どうした?」
「あ、いえ・・・・・・」
二人はほとんど無言で坂を下りる。坂は海の真正面にあるため、刻々と沈んでいく夕陽がよく見えた。この時間になると青い海が太陽と同じ色になる。最初は薄紅、それからどんどん色が濃くなり燃えるような真紅へ、次にじょじょに青い色が流れ込み赤は紫へと変化する。紫の後には群青が訪れ、最後は夜の闇に染まる。
今は濃い赤だ。
璃夕の歩きはたどたどしく、まるで幼子が始めて歩行を覚えたときのようだ。それでもなんとか時間をかけて坂の下まで辿り着き、商店街を抜けて海沿いの道まで出ることができた。その間に夕日は海面すれすれまで落ちてきていた。
少し休憩をしようと伊吹が言うと、彼は堤防にもたれるように両手をつけて深く息を吐き出した。額にうっすらと汗が滲み、ずいぶんと疲れているようだった。この人はいったいどれほどの時間をかけて、家から学校まで歩いてきたのだろうか。伊吹がほんの十分足らずで下る坂道を、彼はその三倍近い時間をかけて歩くのだ。
たった一言謝るためだけに、それほどの時間と労力と苦痛をかけて、伊吹に会いに来てくれたのだ。そう思うと、意地悪な人だと決め付けていた自分が、恥ずかしくなった。
「あの、大丈夫ですか?」
「なんとかね。こんなに歩いたのは初めてだから、ちょっと疲れただけだ」
こんなに歩いたといっても木嶋の家から学校までは往復で三キロ弱と行ったところだろう。初めて歩いたというほどに、彼は滅多に歩くことがないほど足が悪いのだろうか。そんな伊吹の思考を察したのか、璃夕がちらと視線を向けてきた。
「ずっと歩かない生活をしていたから、まだ足に慣れていないんだ」
「ずっと、歩かない生活、ですか?」
「そう」
璃夕は頷き、どこかはぐらかすような笑みを浮かべた。伊吹に向けられていた視線はすっとそらされ、海をむく。横顔に浮かぶのは懐かしむような愛しむような縋るような、それでいて淋しげな色だ。
「璃夕、さん?」
しかし、彼は瞬き一つですべての色を消してしまうと、いつのように気の強い勝気な笑みを浮かべて伊吹を振り返った。
「もう、ここまででいいよ。あとはこの道を真っすぐだし」
「え、でも・・・・・・」
「大丈夫。もうずいぶんと歩くのにも慣れた。転んだりしないさ。それに、伊吹は家で祖父母が待っているんだろう?」
「そうですけど・・・・・。璃夕さんだって郁春さんが待ってるでしょう?」
「春じいは僕の帰りが多少遅くなったところで心配しないけど、おまえの家は違うだろう?」
「まだ六時過ぎですよ」
「子供は帰る時間だね」
伊吹はちょっとムッとして、反論した。
「璃夕さんだって子供じゃないですか」
年齢を尋ねたことはなかったが、どう見ても同じか、違ったとしても誤差一歳程度だ。しかし、璃夕は悪戯っぽい光を瞳に宿すと、言った。
「僕は子供じゃないよ。少なくとも、伊吹よりはずっと年上だ」
「ずっとって、どれぐらいなんですか? そんなに年上になんて見えません」
「見かけほど若くはないのは確かだな」
璃夕はもたれていた堤防から手を離すとしゃんとした足で立った。
「今日は、遅くまで付き合ってくれてありがとう」
「いえ、それは・・・・・・」
それは逆だ。美術室へ引っ張り込んだのは伊吹の方だ。璃夕がつき合わせたわけじゃない。それでも綺麗ににこりと微笑んだ彼は、伊吹が思っていたよりもずっと大人な人なのかもしれない。
「伊吹は、もうお帰り」
意地悪なときよりも、優しい言葉で言い聞かされる方が、反論できなくなる。伊吹はわかりましたと頷くしかなかった。
「本当に気をつけてくださいね」
「わかってる。伊吹って案外、うるさいんだな。小姑みたいだぞ」
心配しているのにそんな軽口をたたく璃夕に少し腹が立つ。この人はやっぱり意地が悪いし口が悪い。
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