第10話

「そこの椅子に座ってください」


 伊吹が灰色の回転椅子を指すと、璃夕はおずおずというようにそこに腰を下ろした。そして、物珍しそうに辺りを見回している。棚から消毒薬を取り出し、彼の前に座る。


「両手を出してください」


 素直に差し出された白い手に、消毒液を振り掛ける。小さな悲鳴が響き、細い体が縮こまった。


「しみますよ」


「それを、先に言ってくれ」


 秀麗な顔を顰め、璃夕が言った。伊吹は笑ってしまう。


「すみません。大丈夫ですか?」


「なんか、じんじんする」


「手当てですよ」


「こんな痛い手当てがあるもんか。もしかして、まだ僕のことを怒ってるのか?」


 「え?」と伊吹は璃夕を見た。彼は悔しそうに唇を噛んで、じっと掌を見つめている。もしかして、伊吹が意地悪で消毒液を使っていると思っているのだろうか。


「そんなことしませんよ。これは雑菌を殺してるんです。消毒ってしみるものなんですよ。どうして、俺が璃夕さんに意地悪するんですか?」


「・・・・・僕のことを怒ってただろ」


「怒ってません」


 伊吹は言った。怒ってたわけじゃない。ただ璃夕のことを、嫌な奴だと思って嫌っていただけだ。


「今度は肘出して。それに、いくら怒ってるからって、こんな低レベルなイジメしませんよ。璃夕さんだって、俺にずいぶんと意地悪でしたよね」


「・・・・・それは、伊吹が悪いからだよ」


「は? なんですかそれ?」


 消毒液を振りかけようとした手が止まる。璃夕は上目使いにじっと伊吹を見つめている。その瞳の色が、光の加減のせいか青味を帯びて見えて、どきりとした。人魚。璃夕の顔が、人魚の顔と重なる。しかし、慌てて脳内に浮かんだ映像を追いやった。


「俺が悪いってどうゆうことですか? 俺、璃夕さんに何かしましたか?」


 今日で、まだ彼と顔をあわせたのは三回目だ。会話を交わした時間も、短い。その間に、彼を怒らせるようなことをした覚えはまったくなかった。もっともそれは伊吹の言い分で、璃夕は伊吹の言動に違った受け取り方をしたのかもしれない。


 璃夕は恨めしげな目で伊吹を睨み上げたが、すぐに目を伏せてため息を落とした。


「なにもしていないところが、悪いんじゃないか」


「どうゆう意味ですか?」


「なんでもない。いいんだ、諦めた。人の子がそうゆうものだってことを忘れていた僕が馬鹿だっただけだ。―――――伊吹が怒っていないなら、それでいいよ」


 最後の一言を言うとき、彼は唇に微かな笑みを浮かべた。その微笑みに、伊吹はまたどきりと心臓がなる。それは、昔海の中で見た人魚の微笑をそっくりだったからだ。伊吹は急に緊張してきた。慌てて意識を肘の傷に戻す。一言声をかけてから傷口に消毒液を拭きかけ、手首の方へ垂れてきたのをコットンで拭う。さらにガーゼと包帯で傷口を覆うと、終わりだ。


「はい、これで大丈夫。今度は、転ばないように気をつけてくださいね」


 璃夕は両手を広げて白い包帯を眺め、ややして小さな声で「ありがとう」と呟いた。


 そのとき、窓の外から鋭いホイッスルの音が響き渡った。びくっと璃夕の小さな体が跳ねた。大きく見開いた目で窓の外を見ている。白いカーテンが、少しだけ開いた窓から吹き込んでくる風にそよいでいる。夕暮れの涼やかな風だ。


「なんの音?」


 怯えたように璃夕が伊吹の方へ身を寄せてきた。


「サッカー部の練習の音じゃないですか?」


 出しすぎたガーゼをしまいながら言うと、璃夕が首を傾げた。


「サッカー部?」


 きょとりと問い返され、伊吹は手を止めまじまじと璃夕を見た。さっきから、思っていたのだが―――――。


「璃夕さん、サッカー知らないんですか?」


 この人はあまりに何も知らなさ過ぎではないだろうか? 学校に行っていないというが、それだけでここまで無知になれるものだろうか? それに高校は行かなくても平気だが、小中学校は義務教育だ。


 白い首がふるふると横に振られる。


「知らない」


 彼は短く返すと、ぴたりと口をつぐみ窓へ視線を向けてしまう。窓の外は、プラタナスの木が視界を塞ぐように広がっている。目隠し用に植えられているものだ。第一校舎はグラウンドからはずいぶんと離れているが、運動部が校舎の周りをぐるぐるとランニングしているので、時折すぐ側を掛け声が通り過ぎる。


 線の細い横顔を、白い日差しがなぞるように差している。しばらくの間、伊吹はその横顔に見惚れた。口と意地の悪さを除けば、この人の顔は観賞に値する。


 少しして、細い吐息が彼の唇から零れた。ゆっくりと頭が動き、伊吹へ向き直る。視線が絡んで、伊吹はどきっとした。見惚れていたことに気付かれたくなくて、慌てて視線を逸らし、意味もなくピンセットや消毒液を片付けなおした。


 そのとき、急にズボンの尻ポケットに入れてあった携帯が震えた。驚きすぎて、口から心臓が飛び出そうだった。慌てて携帯を取り出すと、光廣からだった。そろそろ帰宅したいのだが、伊吹がいつまでも帰ってこないので美術室の鍵をどうすればいいのかという内容のメールだった。伊吹はちらと璃夕を見て、鍵は自分が掛けておくから先に帰っていて欲しいとすぐに返信した。


「電話」


 璃夕が携帯を差して言った。語尾が微妙に上がっている。


「携帯電話です」


 伊吹は説明した。


「誰から?」


「友達です。先に帰るっていうメールでした」


「僕がいるから?」


「え? あ、いえ、そうわけじゃないです。いつも一緒に帰ってるわけじゃないし」


「ときどきは一緒に帰るのか?」


「まあ、でも今日はまだ残って絵を描かないと」


「絵?」


「俺、美術部なんで。秋の展覧会用の絵を、描いてる最中なんです」


 わかったのかわからないのか、璃夕は曖昧に「ふうん」と頷く。


「伊吹は、学校は好きか?」


「え?」


「嫌いなのか?」


「好きですよ」


「そう。じゃあ、家は? 親とは暮らしていないんだろう? 祖父母とはうまく行っているのか?」


 どうして、彼はそんなことを尋ねるのだろう? わからないまま、璃夕は頷いた。


「じいちゃんもばあちゃんも、俺にはよくしてくれます」


「そっか」


 彼は小さく唇に笑みを浮かべると、俯いた。


「・・・・・・おまえは、もう一人じゃないんだな」


「え?」


 唇の中で小さく紡がれた言葉がは、意味を理解する前に風のように伊吹の耳の横を通り過ぎて消えた。彼は一度目を伏せ、緩く瞳を閉じると、まるで何かを吹っ切るようにすぐに瞳を開けた。彼がなにを諦めたのか、伊吹にはわからない。


「璃夕さん? どうかしたんですか?」


「帰らないと」


 彼は伊吹を見て言った。伊吹の瞳をひたと見つめ、そしてそっと視線を逸らした。ぐるりと保健室の中を見渡し「学校、見られて良かった」と笑う。保健室と、裏庭を学校と括ってしまえるほど、彼は何も知らない。


 そう思うと、こんなところで帰らせたくないと急に思った。


「あの、せっかくだから美術室も見て行きませんか?」


 璃夕の瞳が数度瞬く。それから、頬に嬉しそうな笑みを浮かべた。


「いいのか?」


「あ、はい」


 伊吹は璃夕をともなって、美術室に向かった。


 人目を避けるため、校舎の奥の階段を使う。薄壁隔てた向こう側に雑多に動き回る人の気配がある。璃夕は物珍しそうな、それでいて怯えたようにおどおどと視線を彷徨わせている。木嶋の家で、不遜な物言いで人をねめつけていたときとは大違いだ。どちらが本当の璃夕なのか、伊吹はわからなくなる。


 美術室に誰も残ってはいなかった。教室の窓際にぽつんと一つだけ立てかけられたイーゼルが、伊吹のものだ。


「どうぞ」


 入口で躊躇している彼の背をそっと押して教室の中へ入れる。彼はゆっくりと足を踏み出し部屋の真ん中まで来ると、体ごと一回転しながら教室中を見まわした。その仕草が子供のように可愛くて、伊吹は笑う。それまでは、母親に似た彼の気性が怖くて嫌で仕方がなかった。だけれど、いまの璃夕はまるで小さな子供だ。何も知らなず、何も分からない。迷子の子のように、伊吹がいちいち手を引いてやらなければならない。優越感を感じなかったらウソになるだろう。


 璃夕はぐるりと教室中を見回したあと、最後に西日の差し込む窓を見た。


「海」


「ええ。こっちの窓は海に面してるんです。遮るものがないから、すごく眩しくて」


「変な白い銅像がいっぱいある」


 今度は壁際の棚を見る。


「石膏像ですよ。デッサンなんかに使うんです」


「誰もいないんだな」


「熱心な美術部員は少ないんですよ。みんなとっくに帰宅してしまいました」


「それ、伊吹の描いている絵か?」


 璃夕の目が、今度は伊吹に向けられる。伊吹は目の前の絵を見た。眠る人魚の絵。目を伏せ、うなずく。


「そうですよ」


「見ても、いいか?」


 どこか躊躇いがちな響きを声の中に感じたのは、彼なりに遠慮しているからなのか。まだ彼と会って四度目だ。たったそれだけでも、璃夕の性格が勝ち気で移り気だということは分かる。そんな彼のもう一つの一面が、伊吹には新鮮でしょうがない。ほんの一瞬、伊吹はためらったが、頷いた。


「ええ、どうぞ。たいした絵じゃありませんけど」


 ゆっくりと璃夕が歩いてくる。伊吹の隣に立ち、絵を見下ろした。


 大きな瞳がキャンバスを見つめる。口の悪い彼だから何か言ってくるだろうかと思ったが、無言だった。そのまま数分ほど時間が過ぎる。気まずい。そんな食い入るほど見るような絵でもないはずだ。おずおずと首を傾け傍らの人に顔を向けると、璃夕は大きく見開いた瞳で絵を見つめていた。呆然としている、そんな表情だった。


「り、璃夕さん?」


 はっとしたように璃夕は瞳を瞬かせ、伊吹を見た。瞳が少し潤んでいる。


「そ、そんな変な絵でしたか?」


 彼は唇を動かした。何かを言おうとしたのだろうが、しかし言葉にならないというようにすぐに口を噤んでしまう。彼の声が聞けたのは、それからしばらく後のことだった。


「人魚・・・・・・」


「あ、ああええ。そうです、人魚を題材にしてみたんです」


 伊吹はようやっと璃夕が話しかけてくれてほっとした。


「紫色の尾鰭なんだな」


 別に珍しいことではない。架空の人魚なのだから、尾鰭の色だって自由に決められる。しかし、伊吹が紫を選んだのは子供のころに見た人魚の色をモデルにしたからだった。さらに璃夕は不思議なことを問うてきた。


「瞳は? 瞳の色は決めていないのか?」


 なぜそんなことをと不思議に思いながらも、答える。


「あ、えっと、紺色です。例えるならラピス・ラズリみたいな」


「ラピス・ラズリ?」


「宝石です。深い群青色しているんです。瑠璃色とも言うんですよ」


 海の中で見た人魚の瞳は海水のせいか濡れたように潤んでいた。それは赤い夕陽と海の青が混じり合って作られた宝石のようだと思った。


「瑠璃色・・・・・」


 小さく呟いた璃夕の手が持ち上がり、キャンバスに伸ばされる。しかし、それは触れる直前で止まりゆっくりと下ろされた。彼は人魚の絵を見つめ、まるで泣き出す寸前のような微笑みを浮かべた。それは、伊吹の眼をくぎ付けにし、息苦しくさせるほど綺麗な顔だった。


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