第9話

 青い絵の具を乗せた筆を持ち上げはしたものの、結局それをキャンバスに押し付ける前に、ため息とともに腕が落ちた。目の前には、月を抱き込んで眠る人魚の絵がある。


 いっそ消してしまおうかと、伊吹は考える。秋の終わりに開かれる展覧会へ応募するつもりで描いていたのだが、もはや最初の人魚に対する憧憬は消えかけていた。失望。もちろん、人魚に対してそんな感情を抱くことは筋違いなのはわかっているが、整理のつかない気持ちが璃夕と、璃夕に似た人魚へまで向けられてしまっていた。


 このままぐだぐだと下手に悩んで絵にそれを投影させてしまうよりは、いっそ潔くテーマを変えて書き直してしまった方がいいのではないだろうか。今からでも遅くはない。


 その一方で、この絵に見切りをつけることが、小さな頃からの憧れに終止符を打つことを意味するようで、踏ん切りがつかない。伊吹は、自分がここまで優柔不断の情けない男だとは知らなかった。


 これもそれも、あの璃夕のせいだと、勝手に腹が立って、結局伊吹は絵筆を置いた。


「伊吹?」


 音に気付いたのか斜向かいでキャンバスに向かっていた光廣が振り返った。


「ごめん。ちょっと気分転換に校内散歩してくるよ」


 特に深く追求することもなく、光廣はすぐに前を向いて自分の作品に没頭してしまう。ちらと覗いた絵が、ピカソも顔負けの抽象画だったことに、少し苦い笑みがこみ上げてしまった。人は見かけによらない。


 放課後の校舎は雑多な匂いと音に溢れている。グラウンドから聞こえてくる運動部の掛け声、隣の校舎から流れてくる吹奏楽部や合唱部の軽快なメロディー。廊下をぱたぱたと走る足音、教室から漏れる笑い声。穏やかな西向きの日差しが、柔らかく校舎を包み込み、緩やかな気配に満ちている。


 伊吹は、学校が好きだった。とりわけ放課後の学校が。小学校は居残りを禁じられていたため授業が終わればすぐに帰宅しなければならなかったが、中学に入ってからはすぐに部活に入った。あの時も美術部だった。絵が好きというわけではなく、放課後遅くまで居残りの出来る部として選んだのだ。やり始めれば絵を書くことが好きになって、今ではすっかり身に染み付いた美術部員になったが、昔はただ家に帰りたくない一身だった。


 学校は学生にとっては、一日の大半を拘束する不自由な場所かもしれない。だけれど、その反面学生なら無条件で居場所を与えてくれる場所だ。伊吹にとっては両親のいる家へいるよりも、学校にいる方がずっと居心地が良かった。


 少なくとも、ここは伊吹を拒絶しない。


 伊吹は美術室のある四号棟を出て、下駄箱の置いてある一号棟へ向かった。水辻高校には全部で四棟の校舎があり、そのうち生徒が教室として使用しているのは一号棟と二号棟だった。残りは理科室や社会科室などがある実験棟と呼ばれる三号棟、そして美術部が使用する美術室、書道室や音楽室などのある四号棟、別名芸術棟だ。四つの校舎が、綺麗に横並びに並んでおり、それぞれの校舎を渡り廊下が繋いである。


 伊吹は下足に履き替え、校舎を出た。棟と棟の間には園芸部が手によりをかけて作り上げた花壇の並ぶ中庭がある。ぼんやりとそれを横目に眺め、特に行くあてもなく裏庭へ回った。


 この学校は山の一部を切り開く形で建てられているため、裏庭はほとんど山と同化している。かろうじて背の低いフェンスで区切ってはいるが、春にはこのフェンスを超えて山菜取りに出かける生徒が多数出るらしい。緑の多い学校というのを売りにしているらしく、裏庭には小さいながら東屋があり、ぐるりと緑の木々に囲まれていた。もっとも、その緑が学校側の植林によってのものなのか、生来から山に自生しているものなのかは、定かではない。


 裏庭は人気がなかった。近くに園芸部が活動拠点にしている温室があるが、ちらりと覗いた限りでは誰もいない。鳥のさえずりが響き、梢が風に揺れて鳴いている。伊吹は大きく息を吸い込んだ。水辻の町にいて、ここは唯一潮の香りがしない。そのせいか、ほっとする。


 丸太で出来たベンチに足を投げ出すように座って、空を見上げる。まるで刷毛で散らしたような薄い雲が浮かんでいた。夕方の濃度の低い青空の色を出すにはどうすればいいだろうかと、そんなことをつらつらと考えていると、かさりと草木の揺れる音がした。足音のようにも聞こえたがとくに気にせず、相変わらず空を見上げる。


 足音はじょじょに近くまでやってきて、東屋から数メートル離れたところでぴたりと止まる。そのまま離れるでもなく、さらに近づくでもなく、動く様子がない。


 なんだろうと、顔を上げた伊吹は、フェンスの向こう側に璃夕が立っているのを見つけて、驚いた。璃夕は、眉を顰め、伊吹を睨んでいる。


 ・・・・・・怒っているように見えた。


(な、なんだ?)


 どうして、こんなところに彼が? 誰かに用があって来たのだろうか? だったら、正面の校門に向かうはずだ。ここは裏口からも離れている。


「伊吹」


 名を呼ばれた。伊吹はあたふたと東屋を出る。彼の元へ近寄ろうとして、すぐに先日のやりとりを思い出した。警戒心が沸き起こり、足が止まってしまう。二人の間には、十メートルほど距離があった。璃夕はしばらく伊吹を見ていたが、これ以上近づいてこないことを察したのか、唇を噛んで俯いてしまう。


 それが、伊吹にはひどく怒っているように見える。


「えっと、あの・・・・・・こんにちは?」


 伺うようにそっと声をかける。ややして、短いため息と共に秀麗な美貌が持ち上がる。


「こんにちは、伊吹」


 淡々とした冷たい声音。どうして、彼が怒っているのか伊吹にはわからない。


「あの、どうして、ここに? 誰かに、会いに来たんですか?」


「・・・・・・学校」


 ぽつりと、璃夕が呟いた。ふてくされたような声だった。


「広いし、人も多いし、すごく困った」


「はぁ、そうですか」


 何がいいたいのかわからず、曖昧にあいづちを打つ。


「学校ってところは、どうしてこんなに人が多いんだ? みんなこんなところで何をしてるんだ?」


「なにって、勉強ですよ」


「勉強? 勉強するのにどうしてこんなにたくさんの人間が必要なんだ?」


「なんでって言われても・・・・・・」


 伊吹は言葉に詰まる。この人はもしかして、学校という機関を根本的に知らないのではないかと伊吹が思ったとき、璃夕が急に話を変えた。


「春じいが・・・・・・また遊びに来いって。伝言を・・・」


 先ほどとは打って変わった、こちらを伺うようなおずおずとた口調だった。そのギャップに戸惑う反面、言葉の内容に驚く。


「わざわざ、そんなことを言いに学校まで来たんですか? 俺がどこにいるかもわからないのに?」


「最初は、校門で待ってた。でも、人がたくさん出てきたから・・・・・・」


 人気のないところを探しているうちに、裏庭まで来てしまったということらしい。しかし、よく出会えたものだと思う。


「そうですか。それはわざわざありがとうございます」


「ぼ、僕とは他人でも、春じいとは、知り合いだろ? また、遊びに・・・来たらいい。春じいも喜ぶから」


 伊吹は瞠目した。璃夕を見る。彼は俯きがちに、顔を強張らせていた。


「えっと・・・・・まあ、暇が出来たらまた遊びに行かせてもらいます」


 そんな曖昧な返事しか出てこなかった。


 正直、伊吹としてはもうあの家には近づきたくない気持ちが強かった。郁春には親切にしてもらったが、あそこには目の前のこの人がいる。今彼を目の前にしているだけでも、正直つらいのだ。無駄な期待と錯覚を繰り返してしまう。


「用が終わったなら俺、行きますね。わざわざ伝言ありがとうございました」


 話を打ち切り、この場をさっさと後にしたかった。


 璃夕は無言で、伊吹を見つめている。探るような視線だと思った。伊吹は数歩後ずさり、くるりと背を向ける。五歩程度進んだところで、小さな声が追いかけてきた。


「ごめん」


 葉擦れの音に掻き消えそうな微かな音。


 伊吹は足を止め、振り返った。白い指がフェンスを掴み、俯いて足元の草を見ている。聞き間違いでもしたのかと、伊吹は思った。


「ごめん」


 彼はもう一度呟いた。


「僕が、伊吹の気に触ることを言ったんなら、謝るよ」


「璃夕さん?」


「その・・・・・・僕はあまり人との付き合いが上手な方じゃなくて。だから伊吹との距離の取り方を間違えてしまった。そのせいで、伊吹に嫌な思いをさせたなら許して欲しい。・・・・・時々でいいから、遊びに・・・来てくれたら嬉しい。僕には、春じいと伊吹しか知り合いがいないから」


 彼はそこまで一息で言うと、顔を俯かせたままぐるりと背を向けた。


「そういうことだから」


 彼は逃げるように駆け出そうとした。しかし、途中で何かに躓いたのか、ばたんと派手に転んでしまう。伊吹も驚いたが、璃夕も驚いたらしい。起き上がれずもたもたしている姿が、滑稽を通り越して、可愛かった。


 突然やってきて謝られて、ずいぶんと面食らったが、考えていたよりもずっと璃夕は意地悪ではないのかもしれないと、伊吹は思った。なによりも、立ち上がろうと四苦八苦している後頭部の髪の間から覗く耳が真っ赤だった。


「大丈夫ですか?」


 伊吹はフェンスを飛び越え彼の側へ駆け寄った。びくんと、細い肩が揺れる。彼は慌てて起き上がろうとして、また足を縺れさせて尻餅をついた。


 そういえば、足が悪いと光廣が言っていたっけと、思い出した。


「あの、手を貸しますよ」


 前へ回り込むと、彼の顔は案の定真っ赤だった。唇を噛み締め、恨めしげに伊吹を睨む。


「こうゆうときは、普通、見てみぬ振りをするもんだろ? かっこつかないじゃないか・・・・・・」


 ぼそりとそんなことを言うので、思わず笑ってしまった。


「かっこつけるために、来たわけじゃないでしょう? それに転んでる人見捨てるわけにはいかないじゃないですか。ああ、怪我してるし」


 膝と肘を擦り剥いている。


 手を掴み引っ張りあげると、璃夕は憮然としながらも素直に体重を預けてきた。軽い身体だった。


 良く見ると、服には草の汁以外にも砂埃や泥がついていた。引寄せた掌は、擦り傷の中に砂利が食い込んだままになっている。血は乾いていた。


「璃夕さん、ここに来る前にももしかして、どこかで転びましたか?」


「まさか、こんなに坂がきついとは思わなかったんだよ」


 もごもごと口の中で言い訳のように言う。・・・・・・転んだようだ。傷だらけじゃないかと、伊吹は顔を顰めた。


「歩けますか?」


「平気だよ」


 くじいてはいないようで安心する。伊吹は璃夕の手を引くと、フェンスをたどって裏口の方へ歩く。そのまま校内へ入ると、保健室へ向かった。本来は学校関係者以外は立ち入り禁止が基本だが、璃夕の外見なら黙っていれば生徒で通用するだろう。それに放課後は運動部がジャージやTシャツでうろうろしているし、軽音部は派手なステージ衣装で校内を平然と歩き回っている。美術部の伊吹も、汚れても平気なシャツに、絵を書くときはさらにエプロンや白衣を羽織っている。璃夕は黒のハーフパンツと白地に洒落た絵が胸元に小さくプリントされたTシャツを着ていた。この姿なら、ばれる事もないはずだ。


 しかし、伊吹の心配は取り越し苦労だった。裏口から第一校舎へ入り、一階の北端の保健室までには誰にも遭遇しなかったうえ、保健室にも誰にもいなかった。


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