第8話
帰りの遅い孫の様子が気になって家の手前の浜に降りてみると、案の定璃夕はそこにいた。ぐしょりと濡れた白い浴衣もそのままに、ぼんやりと水平線を見つめている。ぽたぽたと、着物の裾から零れ落ちる滴を見て、また海を泳いできたのだろうと察せられたが、良く見ると髪はすでに乾きつつある。もしかしたら、ずいぶんと長い時間、ここに立っていたのではないだろうか。
とうに日は沈み、夜空には小さな星の明かりが散らばっている。かそけいた光が、横顔をほの白く浮き上がらせている。感情の色は見えなかった。しかし、一心に海を見つめる姿は、何かを焦がれているようにも、悔やんでいるようにも見える。
「どうしたんだい?」
郁春が問いかけると、璃夕はすぐには答えなかった。ややして、薄く唇を開き、小さく息を吐き出した。
「どうして、僕には心があるんだろう」
それは心底不思議がっている声だった。郁春は、孫の横顔を見つめる。なにがあったのだろうと、考えた。
最近の彼は、ずいぶんと機嫌がよく、浮かれていた。なにか良いことでもあったのだろうと、教えられなくても察せられる上機嫌ぶりだった。
普段の璃夕は、冷静と沈着と、無関心を重ね合わせたような性格をしている。好きなことは本を読むことと海で泳ぐこと、草や木を愛でること。それ以外に興味はない。勉強が好きなら学校へ行ってはどうかと進めたが、歩くのが嫌だと断られた。日中はほとんど家の中に閉じこもり、日が暮れてようやっと家の前の浜に下りる。人との係わり合いを極端に疎み、郁春以外に顔をあわせる相手も、言葉を交わす相手もいない。まるで隠棲した偏屈な芸術家のような生活を、璃夕は好んでおくっている。そんな璃夕が、最近は浮かれたように機嫌がいいのだから、郁春は驚き半分嬉しかった。
一緒に暮らす可愛い孫が幸せなら、自分も幸せだ。
しかし、機嫌の良いはずの孫の口から出てきた言葉は、ひどく自虐的なものだった。心配になった。
「なにか、あったのかい?」
璃夕はちらと、郁春を見た。どこか憮然としているようにも見える。
「心なんてなければよかった。そうすれば、馬鹿みたいな期待なんてしなくてすんだのにって、そう思っただけだよ。人間は嫌いだ。すぐに嘘をつく。自分にとって都合のいいことばかり言う」
機嫌が悪いと思ったが、もしかしたら落ち込んでいるのかもしれないという気がしてきた。ひどくわかりにくくはあるが。
「皆一生に何度も、同じ事を思う。心なんてなければとな。だが、心があるからこそ幸福や喜びを感じられるのも事実だろう?」
優しい声音で問いかけると、璃夕は眉根を寄せた。
「幸福や喜びなんて、僕にはずっと無縁だった」
「・・・・・伊吹くんとなにかあったのかい?」
璃夕が不機嫌に落ち込む理由は、それ以外に思い当たらない。ここ数日の感情の激しい起伏が、彼に出会ってからだということは、推理するまでもなく簡単に導き出せたからだ。閉塞的な生活を送る孫が唯一関わる他人は、彼だけだ。
いつからこの浜辺にいたのかは知らないが、家と浜辺は目と鼻の先だ。先ほど帰宅した伊吹と顔を会わせて、何かあったのかもしれない。璃夕は、郁春の問いにぐうと唇をつぐんで、ふいと視線を逸らした。それが叱られて拗ねている幼子のように見えて、少しばかりおかしくなる。
「喧嘩でもしたのかい?」
「別に。ただ・・・僕は怒っているだけだ」
「そうかい? じゃあ、そろそろ許してあげちゃあどうかな?」
「そんなに簡単にいけば、世話ないよ」
璃夕はぼそりと不服そうに言う。
「何故だい? 怒っているのは璃夕なんだろう?」
「・・・・・そうだよ。僕の方が怒ってる」
繰り返し、まるで自分自身に言い聞かせるように呟く。その時点で、とうに璃夕の中に怒りはないのだ。ただ、それでもどうしても譲れない感情が、彼を苛立たせているのだろう。実際、彼は言い募るように言い訳を始めた。
「だって、理不尽じゃないか。それとも、春じいは僕に笑って我慢しろとでもいうのか? 約束をしたのは伊吹の方なのにっ、あいつは僕のことを少しも覚えちゃいなかったんだ」
「でもそれは、子どもの頃の話しだろう?」
そう聞いている。ずっと昔、海辺で出会った幼い子どもと、約束をしたのだと。子どもがいくつぐらいだったのかは知らないが、幼い子どもの記憶とは日々新しく塗り替えられていくあやふやなものだ。それを責めても仕方がない。
郁春がそう諭すように言うと、璃夕は眉根を寄せ怒ったように睨み付けてきた。反論しようと唇を開きかけ、しかし、言葉にする前に力尽きたように、俯いてしまう。足元に寄せては返す白い波を見下ろす姿は、気丈な孫には珍しい姿だった。萎れた花だ。
「・・・・・・人の子なんて、信じるものじゃないね。馬鹿を見るのは、いつもこっちだ」
諦めの滲んだ声音は、今までその細い体の中にたくさんのため息を飲み込んできたのだろうと思わせた。
―――――あの日、海で溺れて気を失った伊吹を運んできた璃夕は、かいがいしいまでに世話をした。不自由な足で浜まで運び上げ、郁春を呼びに家へ戻ると、すぐに浜へとって戻り、夏でも冷たい海の水に冷やされた伊吹の身体を少しでも温めようと、タオルをこすりつけていた。部屋に運んだ後に衣服を着替えさせたのも、濡れた身体を拭き清めたのも、璃夕だ。郁春が手伝おうと申し出ると、首を振って断った。目が覚めるまで枕元に座って、じっと寝顔を見つめていた。その瞳は愛おしいものを見る目だった。なのに、その額や頬に触れようと伸ばした手を、途中で引っ込めてしまうことが何度かあった。三度目に様子を覗きに部屋を訪ねた郁春の前で、璃夕が言った。
「ねぇ、春じい。この子の襟、少し直してあげて。もしかしたらきつくしすぎて、苦しいかもしれない」
目の前の少年を指してそういう孫に、郁春は怪訝な視線を向けた。なぜ自分でしないのだと問うと、彼は眉間に皺を寄せて、答えたのだ。
「僕の手は冷たいから」
確かに璃夕は、手といわず身体すべてがまるで流水のように冷たい。
しかし、服を着せ替えるときに一度触れているはずだ。いまさら何を躊躇うというのか。すると「でも眠ると体温が高くなるって言うし、驚かせたくないから」だからお願いと言われ、郁春は眠る少年の襟を直してやった。
璃夕がずっと昔にこの海辺で出会った子どもを捜しているということは知っていた。約束をしているという話しも、聞いていた。それが伊吹なのだろう。なにか大切な約束を、ずっと昔の彼と交わしたのだろうと。
璃夕のここ数日の上機嫌ぶりは、約束が守られたかなのだろうと郁春は勝手に思っていたのだが、どうやら違っていたらしい。
そうか、あの子は璃夕のことを覚えてさえいなかったのか。
郁春は孫を見た。ふてくされているように見えた姿が、今は淋しさと哀しさを堪えているように映る。
どう返事を返してよいのかわからず、郁春は少しだけ言葉を捜した。ややして、浮かんだ言葉は一つきりだった。
「そりゃあ、かわいそうになぁ」
璃夕は哀れまれたことが不満なようで鼻を鳴らしたが、反論はしなかった。祖父が孫にかけられる言葉といえば、そんなものだ。
「だけどなぁ。喧嘩をしたんなら仲直りをしなきゃなぁ」
郁春はのんびりと言った。祖父が孫に諭すように。
「まあ、人間には色々いるし、そもそも記憶というものは忘れていくものだ。どうしようもない。腹を立てて喧嘩をして、それが終わったら仲直りをしてまた新しく始めればいい。人間ってのは、やり直しの聞く生き物だからな。彼は、いい子にみえたぞ。きっと璃夕が説明すれば、すぐに謝ってくるんじゃないのかい?」
「謝る?」
璃夕は数回瞬きをして、まるで欠片も思いつかなかったという顔をした。
「謝ればどうなるんだ?」
「そりゃあ、また仲良しに戻れるさ。もちろん、怒っている方が相手を許すことが出来れば、だがね」
璃夕はそれを聞いて考えるように顔を俯かせた。無意識に手を唇にやり、指先を噛んでいる。郁春は少しばかり肩を竦め、これがきっかけになって少しでも璃夕が元気になってくれればいいのだがと思った。
波の上に白い光が浮かんでいる。よく見ると、海に浮かんだ月の影だ。西の空の低いところに、いつのまにか三日月が出ていた。郁春がぼんやりとそれを眺めていると、傍らから小さな小さな独り言のような声が聞こえた。
「許してくれるかな・・・・・」
誰がとは言わない。この子はなんて不器用な子だろうと、思う。そのあまりの不器用さが哀れでもあり、いとおしくもある。
「心を込めて謝れば、きっと許してくれるさ」
ちらと璃夕の瞳が「本当?」と問うように向けられ、郁春は笑って頷いてやった。
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