第7話
針の穴のような微かな光も海の中に消えてしまうと、あとは深い濃紺の闇が訪れる。堤防沿いの道を歩きながら水平線を見ると、そのはるか向こう側から長い旅路を終えた白い波が浜辺へと押し寄せていた。
時刻は七時を少し回ったところだ。いつもならとっくに帰宅している時間帯だった。美術部は運動部のような大会前というものが存在しないので、よほど力を入れたコンクールの出品直前以外は、大概が六時には校舎を出る。なのに伊吹がこんなに遅くなったのは、光廣をやり過ごすためだった。
校舎を出るときは一緒だったが、途中で用事があるからと道を別れた。その後は、近くの本屋で時間を潰した。光廣と鉢合わせをすることだけは避けたかったからだった。
とぼとぼと道を歩きながら、やがて樹木に覆われた平屋が見えてくる。木々の落す影の向こう側から、ちらちらと電灯の明かりが見える。伊吹はそっと辺りを見回す。いつもこの家を覗いているらしい光廣の姿はない。とうに帰宅したようだ。
―――――璃夕に会ってどうするつもりなのか。自分でもわからない。だけど、会わなければ何も始まらないような気がしてならなかった。根拠のない焦りのようなものが、伊吹の背中をぐいぐいと押しているのだ。
覚悟一発。心の中で気合をいれ、よしっと、インターホンを押そうとしたときだった。
「そんなところで何をしている?」
突然かけられた声に、伊吹は飛び上がった。家のすぐ前に面した砂浜に璃夕が立っている。砂浜と道路は高低差があり、璃夕は伊吹を見上げるように喉を逸らしていた。伊吹は急いで取り繕った笑みを顔にのせた。
「こ、こんばんは」
突然畏まった伊吹の振る舞いに、璃夕の片眉が上がる。
「・・・・・・こんばんは」
声は、あからさまに不審気だ。それきり会話が途絶える。彼は立ち尽くす伊吹を一瞥すると、くるりと海の方へ体を向けてしまった。白い浴衣の裾を、ぎゅっと絞り、大量の水をばたたたたたっと砂の上に零していた。
「あの、璃夕さん?」
恐る恐る呼びかける。
「ん?」
無視されるかと思いきや、返事はちゃんと帰ってきた。ただし、後頭部をこちらへむけたままだ。
「何をしてるんですか?」
「濡れた着物を絞ってる。目があるんだろう、見てわからない?」
「着たままで、ですか?」
「濡れたのは裾だけだからね」
裾だけ、海に浸かったのだろうか。なんのために? 伊吹が首を傾げると、璃夕が首を捩じるように一瞥を向けてきた。
「風邪はもういいのか?」
「知ってるんですか?」
「春じいが、おまえの祖父から聞いたんだよ。おまえ、海に落ちるは風邪はひくは、ずいぶんとどんくさいんだな」
「ど、どんくさい?」
「この町で海に落ちて溺れて熱を出すなんて、まだ泳ぎを覚えていない小さな子どもかおまえぐらいだよ」
辛辣に言われて、伊吹は言葉を失う。
確かに自分は活発な方ではないが、かといって運動が全く駄目というわけではない。ただ海と泳ぎが苦手だというだけだ。そのことをいいわけがましく言ってみると、意地の悪い顔で笑われた。
「それで、いったい何の用だ? おまえの家はここら辺じゃないだろう?」
「あ、えっと・・・・・・あの、そう、郁春さんは?」
璃夕に会いに来たのだとはどうしてもいえなかった。白い着物の裾から覗くのは、やはり二本の足だ。海水で濡れてはいるが、すらりと細く引き締まった形の良い、足だった。
(やっぱり人魚なんているわけないか・・・・・・)
「春じいなら、家で夕飯を作ってるけど。春じいに用事だったのか?」
「あ、はい。助けてもらったお礼を改めて・・・・・・・」
そこまで言ったところで、くるりと璃夕が勢い良く振り返った。綺麗な顔を顰め、伊吹を睨む。心なしか声も、刺々しい。
「溺れてた伊吹を助けたのは、僕だよ」
きっぱりとした物言いだった。
伊吹は慌てて言い募る。
「あと、服を貸してもらったし」
「それも僕の服だ」
彼は不愉快そうに鼻を鳴らした。
「伊吹を助けたのも、この家まで運んできたのも僕だよ。確かに春じいが浜から伊吹を引き上げて布団に寝かせはしたけど、命を助けたのは僕だってこと、間違えてやしないか? だったらずいぶんと恩知らずだな。命の恩人を目の前にして、すっかりと無視してしまえるんだから」
挑むような激しい瞳で睨まれて、伊吹は面食らった。ようやく、彼が怒っているのだと気付いたのだ。
「璃夕さん?」
おそるおそる伊吹は璃夕の名を呼んだ。彼はきらきらと光る星のように激しい目で、伊吹を一睨みした。伊吹の体は竦み、冷たい水を浴びたような気分になる。それぐらいに、璃夕の瞳は強く激しい。脳裏に母の顔がよぎった。ヒステリックに叫びながら母もよく今の璃夕のように激しい瞳で、伊吹を睨みつけてきた。見栄っ張りでプライドの高かった母は、家庭のことを外には出せなかったのだろう。その分のストレスを全部父と伊吹に向けてきた。まるで親の仇でもあるかのような憎悪のこもった瞳を向けられ大声で怒鳴り散らされるのは、幼い伊吹にはとてつもない恐怖だった。
その時の恐怖が、いまだにパブロフの犬のように体に染みついていて、その母とダブる璃夕に伊吹は反射的に首を竦めて謝ってしまう。人に怒鳴られたり大声を出されるのは、昔から苦手だった。
「ご、ごめんなさい」
璃夕は鼻の上に皺を寄せ、ふんとそっぽを向いた。
あの人魚の優しい瞳とは大違いだ。人魚の瞳は凪いだ夜の海に似ている。静かで孤独で優しかったが、璃夕の瞳は嵐の日の荒れた波のようだった。やはり似ているのは顔だけだ。
が、身構えた伊吹に対して、怒声は飛んでこなかった。恐る恐る亀のように縮めた首を戻して璃夕を見ると、彼はふてくされたような表情で足元を見つめていた。その顔が、拗ねた幼子のように見えて、伊吹は戸惑う。どうして、彼がそんな顔をしなくちゃならないのかわからなかった。
「り、ゆ、さん?」
小声で呼ぶと、じとりとした目で睨まれた。反射的にまた首を引っ込めてしまう。彼はそんな伊吹を少しの間見つめていたが、俯くように足元を見下ろすと、ひどくそっけない口調で言った。
「早く行ってきたら?」
「え?」
「春じいは家の中だよ。お礼を言いに来たんだろ」
それだけ言うと、また海へと体ごと向けてしまう。白く小さい背中が、夜の落ちた浜辺にぽつんと浮かび上がる。ひどく淋しげにも見える光景だった。
いまさら、あれはとっさのごまかしだったとは言えるような雰囲気ではなかった。仕方なく伊吹はインターホンを押して郁春を呼び出したのだった。
木嶋家を出たのはそれから小一時間ほどが過ぎてからだった。時間も時間だからと、夕飯をご馳走になった。ちなみに璃夕は欠席。時刻になっても彼は現れず、祖父の郁春はいつものことだというように、食卓に二人分の夕食を伊吹と自分の前に並べた。「気まぐれな子だからねぇ」と笑う。おっとりした雰囲気は、とても彼と血縁関係があるようには見えない。顔立ちも、璃夕のあの恐ろしいほどの美貌に対して、郁春は荒々しい海の男にありがちな四角く削られた顔をしていた。醜いわけではないが、美形というわけでもない。味のある顔だ。
夕食を食べて玄関先で見送られ、門を出たところで条件反射のように砂浜を見る。璃夕は、まだそこにいた。ただ位置は変っていた。一時間前は、乾いた砂の上にいた。今は膝が海の中へ浸かっている。白い浴衣が背中にぴとりと張り付き、全身がぐっしょりと濡れていた。
彼は伊吹の気配に気付き、すぐに振り向いた。額にかかる濡れた前髪を煩げにかきあげながら、門灯を背にして立っていた伊吹を少しばかり眩しげに目を細めて見た。
「春じいには会えたか?」
「・・・あ、はい」
伊吹はこくこくと頷く。
見惚れていた。細い体に巻きつくように張り付いた真っ白な着物は、闇の中でくっきりと華奢な体つきをなぞっている。首筋や顎からぽたぽたと垂れる透明な滴は、ひどく艶めいていた。目のやり場に困る。伊吹はうろうろと視線を彷徨わせた。
「もう、帰るのか?」
「はい。あの・・・・・璃夕さん、ずぶ濡れですけど、まさか服着たまま泳いだんですか?」
「すぐそこの浅瀬に浸かってただけだ。泳いだわけじゃない。僕はそこまで酔狂じゃないよ」
「そ、そうですか・・・・・・」
服を着たまま全身びしょびしょになるまで海に浸かっているというのも、充分酔狂ではないだろうか。
「あの・・・・・・」
伊吹はそこでいったん言葉を切る。言いよどみながら、
「えっと・・・・・この間は、助けてくれてありがとうございました。服も貸して貰って―――――」
「いまさらどうでもいいよ」
璃夕の声は冷ややかを通り越して淡々としていた。
少し前にお礼を言うなら自分に対してだろうと怒っていたのが嘘のように、興味のない様子だ。伊吹は拍子抜けして、言葉に詰まった。さすがに、理不尽さを覚える。
「そう、ですか」
扱いにくい人だというのが、璃夕に対しての伊吹の感想だった。やっぱり夢の中の人魚とは大違いだ。まったく違う。これなら、いっそ顔も似ていないほうがよかったと、伊吹は思った。なまじそっくりなものだから、ついつい夢の中の優しい面影を、目の前の璃夕に重ねてしまう。そして、がっかりする。
夢の中の出来事。人魚なんて童話の中のお話。わかっていても、小さな頃はつらいことがあるたびに彼の優しい微笑みを思い出して慰めにした。息子などいてもいなくても変らない、壁の置物ほどにも気にかけようとはしなかった両親に比べれば、人魚は誰よりも優しくしてくれた人だった。
歳を経て繰り返し思い出すことがなくなってきても、もらった鱗だけは肌身からはなせなかった。
(・・・・・・・似ていなければよかったのに。そうすれば、がっかりすることなんてなかった)
そこまで考えて、伊吹ははっとした。
ああ、そうかと、いまさらながらに自分の気持ちに気付く。
会いたかったのだ。人魚だろうがなんだろうが。もし本当に彼が存在しているなら、会いたかった。会って、また優しくして欲しかったのだ。笑って欲しかった。抱きしめて欲しかった。子どものときみたいに。高校生にもなって他人に甘えるなど、かっこ悪いことだともわかっている。情けないことだともわかっている。
それでも、人魚は優しかったから。もし本当に存在するなら、もう一度会いたかったのだ。
だけれど、目の前の人は顔ばかりがそっくりなだけだ。きつい物言いと移り気な感情は、伊吹には自分を捨てて外国へ行ってしまった母親の姿に重なった。
もう、ここへくるのはよそう。璃夕に会えば会うほど、人魚のことばかりを思い出して考えてしまう。そしてちっとも似ていない璃夕に人魚を重ね合わせ、勝手に失望してしまう。それは彼に対しても失礼だし、自分自身も疲弊する。
帰ろう、そう思ったときだった。
「その服は制服だろう?」
璃夕が問いかけてきた。
「は? あ、はい」
「伊吹の通っている学校は、あの山の上にある建物のことか?」
「はい」
璃夕はそこでいったん言葉を切ると、眉間に皺を寄せた。
「あそこの学校にいるものはみんなおまえと同じ服を着ているんだろ。制服」
「え? はい、そうですけど。璃夕さん?」
「そこの道にも、よく同じ制服姿の奴が通るよ。僕が縁側に出ていると、ときどき覗き込んでくる奴がいるんだ」
(光廣、ばれてるぞ)
伊吹は心の中で呻く。
「僕はそんなにおかしなかっこうをしているのかな?」
「へ?」
伊吹は璃夕を見た。彼は両腕を少し広げて自分の体を見下ろしている。
「春じいは僕が人よりも少しばかり目立つせいだろうって言うんだ。でも僕は別に変な格好をしてるつもりなんてないし、髪だって・・・・・」
彼は小さく言葉を切って、自分の後ろ髪に触れた。
「伊吹の目から見ても、僕はおかしいのか?」
上目使いに見上げてくる視線は、先ほどまでの強い光が嘘のようだった。不安気に揺れている。まるでカードをひっくり返すようだ。伊吹は頬をかいた。
「あっ、えっと・・・・・・別に変ってことはないと思います。その、ただ、みんなが璃夕さんを見るのは、その目立つって言うか・・・・・綺麗だからだと思います」
「綺麗?」
彼はそんなことは初めて言われたというように目を大きくした。
これだけの容姿で、今まで誉められたことがないとしたら、彼の周りにいた人間はみんな盲目だったのかもしれない。
「僕が? そんなこと、ずいぶんと久しぶりに言われたよ」
彼は指の先で自分の頬を撫でると、
「じゃあ、僕が変だからじろじろ見られてるわけじゃないんだな?」
「たぶん」
「・・・・・・そっか」
彼は顔を俯かせると、ほっとしたように吐息を吐き出した。夜の闇が落ちた浜辺でははっきりとは見えなかったが、小さく笑ったようにも見えた。が次に頭を上げたときには、確かに笑ってはいたがひどく意地の悪い笑みをしていた。
「まあ、伊吹の言うことだから話半分ぐらいには信用することにするよ」
伊吹はムッとした。
「だったら、俺に尋ねなきゃいいじゃないですか」
「仕方ないだろ。他にいないんだから。僕の知り合いは春じいとおまえだけだもの」
「俺にとっては璃夕さんは、たまたまぐうぜん命を救ってくれただけの他人ですよ。知り合いなんかじゃありません」
苛々とした言葉を投げつける。彼はちょっと驚いたようだった。
綺麗で優しい人魚。それを彼のちょっとした物言いで、穢されていくような気がして、伊吹は無償に腹が立った。璃夕が意地悪なことを言えば言うほど、人魚に言われているような気がして、苦しくなるのだ。
「それじゃあ」
そのまま顔を背けるようにして伊吹はその場を立ち去った。
「伊吹?」
小さく、こちらの機嫌を伺うような声で名前を呼ばれたが、伊吹は頑として振り返らなかった。
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