第6話

 午後の日差しは強く眩しい。伊吹は立ち上がって窓辺によると、カーテンをひいた。この学校は高台にあるせいか、西から差し込んでくる夕日を遮るものが一切ない。海の果てから真っ直ぐに貫く赤い光は、まるで洪水のように西側を向いた美術室へと流れ込んでくる。夕日が沈みきるまでの少しの間、目の前のキャンバスさえ見えなくなるほど光に満ち溢れるのだった。


 ほこり臭いカーテンを引いて、ほっとため息をつくと、かたんと音が響いた。光廣がパレットを机の上に置いて、伊吹へ体を向ける。


「どうかしたのか? 朝からため息ばかりじゃないか まだ風邪が抜け気ってないんじゃないのか?」


「あ~」


 伊吹は思わず額に手をやる。


「いやそんなことないよ」


 海に転がり落ちた夜から、二日が過ぎていた。璃夕のおかげで祖父母に気付かれずに家に戻ることに成功した伊吹は、結局その日学校を休んでしまった。家に帰った瞬間、どっと熱を出して寝込んでしまったのだ。祖父母は季節の変わり目にやってくる風邪だろうと思ったようだったが、伊吹は璃夕のせいだわかっていた。


 璃夕の存在は伊吹の中に激しく逆巻く暴風を作り出した。ごうごうと風が唸り暗い雨雲をもたらして、胸の内を苦しめたのだ。


 もう子どもの頃ように人魚の存在を驚きながらも素直に受け入れるには、璃夕の言うところの伊吹は見たい物しか見えない人間になってしまっていた。子どもの純粋さは、海の波のように彼方へ流れ消えてしまっていたのだ。単純な混乱だけに留まらない、自分自身でも説明できない数多の気持ちに翻弄され、熱に浮かされて定まらぬ思考のまま、夢現に伊吹は璃夕の顔と人魚の笑顔を交互に思い出しては目が覚め、また眠るということを二日繰り返したのだった。


「そうだ、知ってるか、ため息を一つつくたびに、幸せが一つ逃げてくんだぜ」


「それ、この町の言い伝え?」


「いや、なんかの歌の歌詞だったと思う」


 光廣はとぼけたように笑うと、ぽんと机を叩いた。


「ほら、早く座れよ。なにを悩んでんのか知らねぇけど、俺が話し聞いてやっから」


 にやにやと笑っている。伊吹は顔を顰めた。


「なんか、楽しんでない?」


「いやいや、そんなことはねぇよ。これでも、心配してんだぜ。大事な友達のことをさ」


 そういって、また唇の端を吊り上げて笑う。・・・・・・もしかして、このいかにも悪巧みを考えてますという顔が、光廣にとっての精一杯の真面目な顔・・・・・なのかもしれない。面接試験で一発で落とされてしまいそうだと、伊吹は少しばかり光廣の将来が心配になった。


 伊吹はキャンバスの前には戻らず、光廣の前の椅子に腰を落とした。


「それで、なにがあったんだ?」


「別に、なにかあったってわけじゃないんだけどさ。ちょっと、昔の知り合いに良く似てる人がいて、その人が本人かどうかわからなくて困ってるだけなんだ」


「は? なんだそりゃ。そんなんで困ってんのか? 尋ねりゃいいだけじゃん。簡単だろーが。あなたと、昔会ったことがありませんでしたかとでも、聞くだけだろ。まあ、相手が女だと、下手なナンパになっちまうがな。女のか?」


「男の人」


「なら、簡単だろ。いったいなにを重たく考えてんだよ」


 光廣は呆れたように頬杖をついたが、伊吹にしてみれば簡単に尋ねることが出来ないから悩んでいるのだといいたかった。あなたは人魚ですか? 男にも女にも尋ねづらいことこのうえない。相手も自分もべろべろに酔っ払ってでもいなきゃ口にも出来ない。しかも、自分は未成年で酒なんて飲めない。遊園地のコーヒーカップを高速回転させて悪酔いしてみるか・・・・・などと無駄なことまで考えてしまった。


 そもそも、もし璃夕が人魚だったとして、伊吹はそれを確かめて自分がどうしたいのかさえわかっていないのだ。人魚なんているはずがない。だけど本当にいたとして。それが璃夕だとして。あまつさえ、その人魚が、昔出会った人魚と同じだったとして―――――。思考はそこで袋小路に陥ってしまうのだった。


「なぁ、光廣」


「ん?」


 彼は肘を突いた両手で顎を包み込むような格好で、小首を傾げた。かわいい女の子に似合いそうな格好だった。


「人魚って、いると、思うか?」


「はぁ?」


「や、この町には人魚伝説があるんだろ? おまえが昨日言ったんじゃないか」


「あ~まあ、でも、あれだろ。伝説はあくまでも伝説だからさぁ」


 光廣は渋い顔で唸った。彼の反応もわからなくもない。高校生にもなって人魚が本当にいると信じている奴に出会ったら、そんな顔もしたくなるだろう。また伊吹がため息を落とすと、光廣は唸るのをやめた。


「じいちゃんやばあちゃん連中と、園守は信じてるみたいだけどな」


「え?」


「人魚」


 光廣は、カーテンのかかった窓へ顔を向けた。


「本当にいるのかいないのか、俺にはわかんねぇけど。だって見たことねぇしさ。でも、完全にいないと否定することもできないんだよな」


 最後の一言は、まるで自分自身に言い聞かせているような響きだった。


「宇宙人ってあるじゃん。笠原は、宇宙人っていると思うか?」


 突然宇宙人の話を振られて、伊吹は困惑した。光廣は、そんな伊吹の反応など予測済みだというように肩を竦めた。


「大概のやつは、宇宙人はいると思うかって聞くと、馬鹿にするか呆れるかなんだよな。だけどな、科学的に計算して、宇宙に人間以外の知的生命体がいる確率は、ゼロじゃないんだぜ。むしろ、いると肯定している科学者も多い。ただ、宇宙はあんまりにも広大で、俺達がその宇宙人と出会える確率は反対にほぼゼロなんだとさ。なんでも光速で移動する方法を見つけ出すことが出来ない限りは、宇宙人と地球人が出会える可能性はないに等しいんだそうだ。本物の科学者がそういってるんだぜ、宇宙人はいるってさ。―――――まあ、テレビで見るUFOが本物かどうかは、疑わしいけどな。大概の奴は、見たこともないものは信じない。だけど、人が見ることが出来るものってのは、限られてるだろ。海の中だって同じさ。陸地と海じゃ、海の方が圧倒的に広い。その中を人間は隅々まで調べつくしたかって言うと、そうじゃない。海は一番深いところで一万メートル以上もある。そんな深海の底を人間が探索できる科学技術は今のところ持っちゃいない。つまりは、人魚がまったく存在しないと、否定することも、できない、のかもしれない」


 最後で、急にあやふやになった。


「この広い海の中、もしかしたらいるのかもしれないし、いないのかもしれない。俺は見たことはないが、見たことがないからといって否定するのはおかしい。まあ、信じる信じないは、人それぞれ。いると思う奴にとっちゃ人魚はいるだろうし、いないとおもってる奴には人魚も宇宙人も幽霊もいないってことだ」


 至極簡単なことのように吐き出された言葉は、しかしこの世の真理だと思った。


 璃夕にも同じ質問をした。そして、光廣と同じ言葉を返された。それが答えだ。伊吹自身がどう思っているのか、必要なのはその答えだけなのだと、今になって気付いた。


(俺が、どう思っているのか・・・・・・)


 人魚がいるのかどうか、璃夕がそうであるかどうか。結局、自分が求めているものがなんであるか。それが解らない限り、答えは見つかりそうにない気がした。


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