第5話

 急いで服を着替え、着ていた浴衣をたたんで返すと、真夜中だというのに郁春まで出てきて玄関先まで見送ってくれた。伊吹は「後日お礼に窺います」と何度も頭を下げたが、郁春は子どもがそんなことをする必要はないと快活に笑って「また来なさい」と言った。そのときちらりと璃夕の顔を見たが、彼は空を見上げていたので表情は見えなかった。


 木嶋家の玄関は磨りガラスのはめ込まれた引き戸で、がらがらとレールが滑る音が大きく響く。外へ出ようと、一歩足を踏み出したら、「そこまで送るよ」という声が追いかけてきた。驚いて首を捻ると、璃夕がサンダルに足を押し込んでいる所だった。驚いて足を止めてしまった伊吹の横をするりと通り抜けて玄関を出てしまう。伊吹は慌てて郁春に頭を下げ、璃夕の後を追いかけた。


 玄関から門までは十メートルほどの路地になっており飛び石の両脇には楓と躑躅の木が植わっていたが、季節のせいでどれも緑の葉を茂らせているだけだった。


 先に歩いていた璃夕に追いつくのは簡単だった。彼はとても歩くのが遅い。ぼたりぽたりと奇妙な音をたてながらサンダルで地面を踏みしめている。夜の闇の中でも白い夜着の背中を見付けるのは簡単で、そこだけ白い光に包まれているように見えた。螢のようだ。


 横に並ぶと、よけいに璃夕の華奢さが目に付いた。肩幅も胸板も身長も、全部が細いのだ。いったいこの体のどこに内臓や骨が収まっているのだろうと。夢の中の人魚は、こんなに細く頼りなげな体をした人ではなかったように思う。伊吹を抱き上げた腕の強さやたくましさ。握りしめた掌の大きさ。


(ぜんぜん違う)


 そもそも人魚などいるわけないとわかっているくせに、ことある事にどうしても璃夕と人魚とを比べてしまう自分がいる。


 と、不意に璃夕が空を見上げた。木々がざわざわと鳴って、一匹の鳥が空を駆けた。思わず呟く。


「こんな夜に鳥?」


「夜でも、鳥ぐらい飛ぶだろ。羽があるんだから」


「でも、鳥って夜は鳥目だから、何も見えないんじゃないかなぁ」


「そうじゃない鳥だっているよ。図鑑に載ってた」


「図鑑、ですか?」


 まるで子どもみたいなことを言う人だ。


「璃夕さんは、本が好きなんですか?」


「好きだよ」


 璃夕は頷いた。


「本の中には僕の知らないことがいっぱい書いてあるから」


ふと光廣が彼は学校へ行っていないのだと言ったことを思い出した。もし彼が学校に通っていたら、その容姿だけで大騒ぎになっているだろうと想像する。


「璃夕さん学校には」


「行ってない」


 璃夕の声が伊吹の言葉尻をさえぎった。その強さに「どうして?」という質問が続かなくなる。プライベートな事だから、軽はずみに聞くべきではなかったのかもしれないとすぐに思い至って、伊吹は慌てた。聞かれたくないことだったのかもしれない。


 しかし、璃夕は感情の流れをいっさい感じさせない表情で、今度はこちらへと問い返してくる。


「学校って楽しいのか?」


 伊吹は璃夕を見た。彼も伊吹を見上げている。真剣な顔だった。なのに声は優しいほど穏やかで、伊吹は何故か狼狽えた。


「はあ、まあ。それなりに」


 曖昧に頷く。それ以外に答えようがなかったのだ。


「ふうん。友達は? いるのか?」


「そりゃあ、いますよ」


「仲は良いのか?」


「一応は。まだ知り合って三ヶ月ぐらいですけど」


 伊吹はどうして璃夕がこんなことを尋ねてくるのかわからない。わからないまま素直に答える。


「家族は? 家族はどうしてるんだ?」


「じいちゃんとばあちゃんの三人で暮らしてます」


 璃夕が眉根を寄せた。


「両親は?」


「離婚しました」


 璃夕は一瞬だけ伊吹を見て、再び前を向いた。横顔は石膏のように白く無機質で、感情を把握することはできなかった。


 それからしばらくの間、璃夕はずっと無言だった。仕方がないので伊吹も黙る。


 道沿いにずっと海が右側に見える。波の音は静かで、まるで眠っているようだ。人の気配はまったくなく、緞帳のように重たい闇が空から落ちていた。湿り気を帯びた海からの風に乗って、夜明け前の夜が肌に絡み付く。


 また璃夕が口を開いた。


「夜明け前の闇が、一番深く優しい色をしてる」


 伊吹は目を瞬かせて闇を見た。


「暁あかつき闇やみというんだ」


 まるで良いことを教えてあげたとでもいうような口調だった。


「夜の海の中も、こんな色をしてる」


「璃夕さん?」


 彼が唐突に歩くのを止めた。伊吹は璃夕を数歩追い越してしまう。蹈鞴を踏むように立ち止まってから振り向いた。闇の中でも璃夕の美しさは白い光のように輝いて見える。


「見送りはここまでだよ。今度は堤防の上なんか歩いて足を滑らせないようにね」


「あ、はい・・・・・」


 伊吹は背を向け一歩足を踏み出したが、二歩目を出すのを少し躊躇う。聞きたいことがあったのだ。再び振り向くと、彼はまだそこに立っていた。


「あの、璃夕、さん」


「ん?」


「その・・・あなたは・・・いえ、えっと、璃夕さんは昔からここで暮らしているんですか?」


 とても、あなたは人魚なんですかとは尋ねられなかった。尋ねる方も答える方も、正気じゃ無理な質問だ。言葉の途中で到着地点をずらした問いかけは、少しばかり不自然に歪んでしまった。彼はそれに気付いたようだったが、特に問いただすことはせず質問に答えてくれた。


「昔からじゃない。ここで暮らし始めたのは、そうだな。ほんの数ヶ月前からだよ。それまでは、ここから少しだけ遠いところにいた」


「遠いところ?」


 璃夕は曖昧な笑みを浮かべると、つと顎を動かした。寄せては返す波の果てを見る。しかし、水平は暗い闇の中に溶けて消えていた。まるで、この海の向こうから来たのだと言っているように、伊吹には思えた。


 彼は小さく微笑んだ。


「さあ、夜明けも近い。早くお帰り。家族が心配するんだろ?」


「・・・・・はい」


 伊吹はそれ以上問いかけることは諦め、彼に見送られながらとぼとぼと家路に着いた。

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