第21話 地獄からの帰還【前編】


 朝、会社のエントランスに入ったところで聴き慣れた声がして振り返る。


「小鳩さん、おはよ」

「城守さん。おかえりなさい」

「うん。ただいまー」


 城守さんが戻ってきた。姿を見たら懐かしいような安心感に包まれる。


「地獄はいかがでしたか?」

「うん。まぁ、楽しい地獄だったよ。あ、これ地獄のお土産」

「ありがとうございます」

「小鳩さんのだけ特別仕様だから、内緒ね」


 城守さんは軽い感じでそう言って行ってしまった。


 おりよく定時に上がれたので、終業後に城守さんを訪ねてみた。

 彼は机で仕事をしていたけれど、わたしに気づくと入口まで出てきてくれた。


「城守さん、わたし、朝言い忘れてしまいましたが、婚約をしました」

「うん。聞いたよ」

「早いですね」

「相手目立つしねー、すぐに話入ってきたよ」

「そうですか……」

「おめでと。評判は知ってるから特に調査してないけど、いいんじゃない」

「そうですか? ……ありがとうございます」


 こちらにもあっけないくらいに喜んでもらえて、少し拍子抜けした。

 いや、これは拍子抜けというより落胆に近い感覚だったかもしれない。

 それから少しの間黙っていたけれど、城守さんはわたしの顔をぐっと覗き込み、眉根を寄せた。


「で、なんでそんな顔してんの」

「え……そんな顔?」


 どんな顔だろう。


「まぁ、あまりうれしそうではないね……」

「自分でもよくわからないんですけど……変な感じで……本当にこれでいいのか……わからなくて」

「……うん」

「城守さんに相談をしたいです。話を聞いてもらえませんか?」

「まだちょっとやること残ってて上がれないんだけど……いいよ。一時間くらいなら時間取れるから、どっかで話聞く」


 一度噂になっているし、なるべくなら社外がよかったけれど、わたしのほうもなるべく早く話を聞いてもらいたかったので、社内でなるべく目立たない場所を探すことにした。


 しかし会話が耳に入ることはなくとも目にはつくであろう場所ばかりで、結局わたしと城守さんは廊下の扉を開けて階段に出た。


 階段は人けがなくて、やっと彼と話せることに安心して、力が抜けて上段にすとんと腰掛けた。近くに立っている城守さんが心配そうに聞いてくる。


「何か気になることでもあるの?」

「気に……いえ、なんというか……なんでしょう」


 ずっと、モヤモヤしていた気持ちの道筋や理由を探そうとしたのに、それはいくら考えても出てこなかった。むしろ、その理由を彼に聞きたいくらいだったのだ。


 わたしは諦めて結論だけを吐いた。


「城守さん、わたし、あの人と結婚したくないです」

「え……なんで?」

「それは……わからないのですが……ずっとモヤモヤしてて。わたし、祖父が入院したと聞いて、急がなくてはいけないと思って……決めてしまって。でも……なんだか……」


 言葉は続かなかった。わたしはもともと結婚してくれれば、誰でもよかった。


 城守さんの条件にも会う相手で、祖父も喜んでくれた。


 いくら考えても、やめる理由はなかった。

 それでも、心の拒絶感は大きくなって、不安を纏って膨れ上がる。


「……めてください」

「え……」

「城守さん、めてください」


 城守さんが鳶色の目を見開いた。


「もともと、小鳩さんが決めたことなんでしょ。なんで俺が止めるの」

「わからないですけど……でも城守さんが止めてくれたら……わたし、やめられます」


 城守さんは少し呆れたような顔で笑った。


「あのさぁ、そういうのなんていうか知ってる?」


 城守さんはわたしの隣に腰掛けた。


「マリッジブルーっていうんだよ」

「……そうなんでしょうか」


 確かに、大した覚悟もなく、いざとなって結婚自体が嫌になったというのは、わたしらしい理由だ。

 でも、それとも少し違う気がした。


 城守さんはくしゃりと笑って、わたしの前髪を小さく撫でた。


「だいたい……俺みたいなやつが……止める理由がないでしょ」

「今まで勝手にさんざん止めてきたくせに……」

「それは相手がダメだったからで……俺だって亜子を幸せにしてくれそうな、ちゃんとしたやつなら応援するよ。ずっと亜子が会長のためにがんばってたことなんだから」


 何も返せなくて、小さく鼻をすすりあげた。

 確かにそれはそうだし、わたしと、祖父と、城守さん全員の希望通りにいっていることのはずだった。わたしだけが理由もなく駄々をこねている。


 わたしは床を見つめて、彼は黙って天井のほうを見ていたけれど、不満げな声で「ずっと、邪魔するなって言ってたくせに……」とボソリと呟くのが聞こえた。


 それから城守さんがふいに、わたしの顔をじっと覗き込む気配で顔を上げる。


「あのさ……」


 思ったより近い場所に彼の顔があった。


「はい」


 城守さんは、おでことおでこがくっつきそうな距離で、真剣な顔でゆっくりと言葉を吐いた。


「本当に、俺が止めていいの?」

「……」


 鳶色の瞳の奥には泣きそうな顔のわたしが映っていた。


 そこからまた、わたしは床を見て黙り込む。


 思考は数秒だったのかもしれない、数分のようにも感じられた。


 わたしは詰めていた息を吐いた。


「いえ。止めなくていいです」

「…………うん」


 城守さんに理由や責任を押し付けて結婚をやめるなんて、ダメだ。やめるなら、自分でやめればいいだけなのに。


 止めて欲しいなんて、どうかしてる。







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