第2話 プロポーズしてみました。
わたしはこれから社内の人と結婚を決めて祖父に会わせなければならない。
今は九月中旬なので、次の夏あたりがリミットと考えていいだろう。
その約束をした。うっかりしてしまった。
そして困っていた。
女性の権利や新しい価値観が叫ばれる昨今、結婚が女の幸せと言い切るのはいかがなものかという風潮もある。
世間の風はわたしの味方で、そんな追い風を感じてわたしはそのままおひとりさま人生を華麗に突き進むつもりでいた。
正直、祖父の価値観は古いと感じる。
しかしながらわたしの生き方は祖父からしたらとんでもないことなのかもしれない。
価値観の相違に対しては以前から少し話していたことはあって、深いジェネレーションギャップを言葉で埋めることは容易ではないだろうと感じていた。説得は難しいだろう。
ただ、病気の状態で一番の心残りと言われては、無視はできないし、できることなら、不安を解消してあげたい気持ちはあった。なんらかの方法で安心はさせてあげたい。
まず最初に、祖父のオーダー通りにできるのかを真剣に検討してみた。
今から一年以内に、社内の人と結婚を決める。
三秒で、無理だなと思った。
わたしは幼いころから恋愛に興味がなく、急な恋に落ちることも落とされることもなくずっとのほほんと生きてきたので恋愛経験がまるでなかった。
二十五年もの間、完全に自分と無関係な場所に置いて過ごしてきていたのに、しようと思って急にできるものでもないだろう。
しかし、いや待てよ、と思う。
祖父は恋愛をしろと言ったわけではない。必要なのは結婚相手だ。
あの年代の価値観だと生活や、何かあったときに支え合える相手と結婚をするのが恐らく重要事項。それなら割り切って『結婚相手』を探せばいいのではないだろうか。
必要なのは結果だ。細かいことにこだわると絶対に本懐を遂げられない。なんでもいいので探してみるのが大事かもしれない。祖父の言う通り、やる気がなかったのは確かだ。見つけようと思ったことすらなかった。
愛する祖父のために、人生で一度くらいは挑戦してみてもいいかもしれない。
思考がひとつ前進して、また考えた。
さて、どうしたら社内の人と結婚できるんだろう。
あれ?
自分で自分にビックリした。どうしたらいいのか、まったくわからない。いくら考えても頭の中に巨大なハテナマークしか浮かばない。
わたしは入社して三年、社内の飲みの席も公式なもの以外はできる限りは欠席し、人目を避け、ひっそりとまじめに過ごしてきた。総務という部署ゆえか単に噂好きの女子が多いのか、社内の人間の噂や情報は男女問わず入ってくることが多い。しかし直接話すことはほぼなく、男性社員との気安い繋がりは皆無だった。誰を選べばいいのかもさっぱりだし、きっかけはどうやって作ればいいのだろう。偶然の何かを待っている時間はない。
いっそお見合いとか用意してくれればよかったのに。中途半端に意思を尊重されたがゆえに余計に難しくなった。わたしの頭は具体的に考えようとすると真っ白になるエラーを繰り返し起こしていた。
何もせずとも、日々はたんたんと進んでいく。
あっという間に一ヶ月経ち、十月半ばになっていた。
相変わらず結婚相手の探し方さえもわからない。誰と話すことも知り合うこともない。
時間だけが過ぎて、どんどん思考が追い詰められていく。
「ロボちゃん、これ、頼めるー? 私今日彼に会えないとさすがに振られちゃうかも」
「ヤッテオキマス」
「あ、そうだ。週末の飲みは来る?」
「イキマセン」
相変わらずまわってくるやたらと時間のかかる単調作業をロボットよろしくカタカタとこなしながら、じわじわと脳が汗をかくような感覚に侵食されていく。わたしのポンコツロボット脳が、慣れないことを考え過ぎてオーバーヒート寸前になっている。
なんとなくわかる。このままだとわたしは、何日経とうが結婚相手を見つけることはできないだろう。そして、わたしは祖父に頼まれて「やる」と宣言したのに、何ひとつ、何もしなかった、しようともしなかったと、あとで深い後悔をすることになる。
もう誰でもいいから、なんとか結婚相手を見つけなくてはならない。そのために何かをしなければならない。誰でもいいから結婚しなくてはいけない。なんとかせねばならない。なんとかせねば。気がつくと具体性のまるでない「なんとかせねば」という単語のことしか考えていなかった。
わたしの頭の中の『ナントカセネバ』が呪いの呪文となり、すっかり強迫観念に取り憑かれたころ、わたしはとにかく動こうと思った。
これ以上の思考は時間の無駄だ。
帰るのは大抵いつも最後だ。荷物を持って立ち上がり、トイレにいってハチマキを締め直すかのように、いつもしているおだんご頭をシュッと直す。鏡にはこれといった特徴も癖もない顔の女が映っていた。美人系とよい方向に評されることもあるが、どこか無機質で機械的と言われることもある。それでも今は切羽詰まったゆえの鬼気迫る焦りがどことなくにじんでいた。
エレベーターに乗り込み、最高潮に追い詰められたわたしは決めた。
もう、このエレベーターを出て最初に会った独身の男性に結婚を申し込む。
相手を選べる立場でもなく、また選びたい好みもない。もはや結婚してくれれば誰でもいいという状態だ。正攻法の方法論を持ちあわせてないのだから率直に誰かに頼むしかない。大丈夫。下手な鉄砲も数撃ちゃあたるというありがたい格言もある。
会社の人間なんてたとえ見て少し知っていたとしても全員は面識がない。独身かどうかが不明な場合は左手薬指を見て判断することにした。既婚なら撤回すればいい。
あとから思えば思考放棄としかいいようのない発想であったが、そのときのわたしは追い詰められていた。
エレベーターの回数表示が降下していく。
わたしの心拍はそれとは反対に、上昇していくのを感じる。
やがて、一階にたどり着き、扉がすっと開いた。
外部の人間はもう来ない遅い時間。ビルの受付の人も帰っていて、ロビーは閑散としている。でも、すぐそこに人はいた。エレベーターとエレベーターの間の壁にもたれてスマホを操作していたその人は、扉が開いたのに気づき、なんとなくこちらを向いた。
「あれ……総務のロボットちゃん。まだやってたの? お疲れ」
帰り際なんだろう、鞄を床に置いて人懐っこい笑みを浮かべていたのは知っている人だった。
木質製品事業部の
広い社内でわたしがたまたまその人の顔と名前を知っていたのは、なんのことはない、相手が有名だったからだ。
城守さんは女癖の悪いチャラ男だ。クズで名高かった。高身長に整った甘いマスクは目立つし、社交的な性格で不純な恋愛をする名人となれば噂されることも多く、なんとなく目や耳に入ってくる。
わたしは入社前のことなので人から漏れ聞いただけだけれど、彼は入社当初は女癖が悪すぎて上から指導が入ったこともあるらしい。それから彼は社内では大人しくなったという。たぶん社外で弾けているんだろう。
「……どうかした?」
足を止めて注視しているわたしに城守さんが鳶色の大きな目を瞬かせ不思議そうな顔をした。
城守さんはチャラ男なので誰にでも挨拶と軽口をたたくだけで、わたしはもちろん今の今まできちんと話したことはなかった。彼のことはよく知らない。ただ、若干軽薄な恋愛観の持ち主だろうということを知っている。なんでも彼の最高股がけ人数は百九、煩悩の数を超えるとか聞いた。
これは、頼むべき相手だろうか。
しかし、ここ数日考えすぎてぼんやりしていた頭が思考を拒絶した。
これは、紛れもなくエレベーターを降りた先にいた独身だ。とりあえず、ダメ元で頼んでみよう。
こちらを窺うようにしていた彼に一歩近づいた。
城守さんは勢いに押されたような顔はしたが、特に後ずさるわけでもなく、わたしと正面から対峙した。何を言おうか考える。疲れ果てたわたしのロボ脳は「結論カラ行ケ」と囁いたのでそれに従った。
「あの」
「うん? はい」
尋常でないわたしの様子に城守さんが姿勢を正す。
「わたしと結婚してください」
真顔で言うと、城守さんはぎょっとした顔をしたけれど、それからまた笑顔を浮かべ、固まった。
その顔をじっと覗き込み、真剣に睨みつける。
「あー……えっと、聞き違いかと思ったけど、今なんて?」
「わたしと、結婚、してくださいませんか」
聞こえにくいとよくないと思い、ハキハキと一語一語くぎり明瞭な発音で言い直した。指差しゼスチャーもつけたし、なんならボリュームも若干上げた。
城守さんはまた目を見開いて白目がちになり、目の上で手のひらを仰ぐようにして、そのまま目元に被せた。それから気を取り直したようにこちらにまた笑顔を向けた。
「えっとねー、付き合うならいいんだけど、俺、結婚には興味がないんだよね」
軽い返事にどことなくホッとしながら「承知しました。では結構です」と言った。
しかし、一秒後にはまた焦りが湧いてきた。
これでは何も変わっていない。なんとかせねばならないのに。なんとかせねば。ナントカセネバ。ひとり断られたことで焦りは巨大化して倍に膨れ上がった。
そのとき、エレベーターが一階に到着した。
すっと扉が開き、現れたのは我が部署の小太り禿げの部長だった。この人は一年中扇子をアイテムにいつも汗をかいている。仕事はすぐサボるので姿を見ないことのほうが多い。小言と軽いセクハラ発言を小脇に装備した意地悪な五十代。
わたしは思った。
この人も独身……。
落ち着けわたし。思考を落ち着かせて考えろ。
考えようとするが頭が
「オヤオヤこんな時間に男女で……けしからんですなぁ」
何か時代錯誤なセクハラ小言に近いものを言おうとしていたのであろう部長の正面に立ち塞がる。
「部長」
「ム……? なんだ?」
真顔のわたしに、部長もいやらしいものから怪訝なものに表情を変えた。
「部長は独身でいらっしゃますよね」
わたしはなんとかしなくてはいけないのだ。もうこの調子でどんどん頼むしかない。
勢いで行け! 結婚を! してもらうんだ!
「わたしと……けっムグッ」
結婚を申し込もうとしたところで背後から口元を塞がれた。
そのまま引きずられるようにして、扉の外へズルズルと連行された。
会社の外はひんやりした風が吹いていた。
「お前……今何しようとしてた?」
大きな手のひらでわたしの口元を塞いでいる城守さんに恨みがましい目を向けると、口元が解放された。
「結婚を、申し込もうとしました」
「やっぱそうだったのかよ! 引くわ!」
「わたし、諸事情あって、急ぎで結婚相手を探しているんです」
「あ、そうなんだー……いや少しは選べよ!」
「何が悪いんですか。邪魔しないでください」
城守さんは「ほとんど関わりもないし、俺のこと好きなわけでもなさそうなのにおかしいとは思ったんだよなー。でもあのセクハラ親父と同列候補って……」とブツブツ言っている。
城守さんはわたしをまじまじ見たあと、ため息混じりに言う。
「総務のちょっとだけ有名なロボットちゃん……ロボットはねえだろと思ってたけど……その感性のズレかた、頷けるわ」
「そうでしょうか」
「ねえ、ロボ子ちゃん、なんでそんな急いでんの? 教えてよ。俺でよければ話聞くよ」
どうも好奇心を刺激してしまったらしい。
「話を聞いてもらう必要はないです」
「決まり。飯まだ?」
「はい」
「じゃあ食いながら聞くよ」
「えぇ」
城守さんはさっさと先に歩き出す。部署は違えど先輩なのでそこまで粗雑に無視もできない。今日はもう失敗とはいえ挨拶くらいはして帰らねばならないだろう。
「城守さん」
少し前を早足で歩く城守さんを追いかけて声をかける。
「城守さん!」
五十メートルほどいった通りで立ち止まった城守さんは「ここ、美味いよ」と言って眼前の店の扉を開けて、入っていった。
ぼうぜんとして見ていると、中に入ったと思った城守さんが出てきて腕を引かれて入店した。
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