虚ろなるレガリア Corpse Reviver 9/13


          3


 鏡には、翠色の瞳の少女が映っていた。

 肌のコンディションは上々。シルバーのアイシャドウ。ラベンダーのリップ。緩くウェーブした銀色の髪は、二つに束ねてツインテールに。

 妖精をイメージした新しい衣装は、肩が剥き出しで少々恥ずかしい。しかしデザイン自体は華やかで可愛くて悪くない。キャラになりきれば大丈夫と自分自身に言い聞かせ、彼女は正面のカメラに向かう。そろそろ配信の予定時刻だった。

「――わおーん! こんにちは! 伊呂波わおんです」

 マイクのミュートを解除して、少女はいつもの挨拶を口にする。

 その声が、いつか彼女の同胞に届くと信じて――


          †


「――だから、そこで俺はこう言ってやったのよ。悪いな、ここは通行止めだ。ただし歩行者と軽車両は除くぜ、ってな。ウケるだろ、ハッハッハ!」

「あ、ああ……」

 喋り続けるジョッシュに気のない相槌を打って、ヤヒロは疲れた表情を浮かべた。

 クシナダ捕獲作戦が始まって以来、ジョッシュは一瞬たりとも休むことなく、どうでもいい無駄話を続けている。おかげでヤヒロは、彼の生い立ちや過去の経歴、食べ物の好き嫌いから好みの異性のタイプまで、すっかり詳しくなってしまっていた。

「わーい、涼しー……!」

 一方、部隊の隊長であるジュリは、ボートの舷側から身を乗り出して、頬にかかる水飛沫に無邪気な歓声を上げていた。ヤヒロたちは二艘の複合型ゴムボート《RHIB》に分乗して、隅田川の川面を航行中だったのだ。

「しっかし水路を使うってのは盲点だったぜ。やるじゃねえか、ヤヒロ」

 ジョッシュが、あらためて感心したようにしみじみと言う。

 重厚な高層ビル群のイメージが強い東京だが、その実、江戸の昔から水運で栄えてきた水の街でもある。都内を流れる河川を使い、陸路ではなく水路で移動する。それがヤヒロの提示した、安全に目的地に辿り着くための秘策だった。

「水棲の魍獣は陸棲のやつらに比べて少ないし、出現地点もだいたい固定化されてるからな」

 ヤヒロが、紙の地図を広げて現在位置を確認する。

 大勢の人間が一度に動けば、当然、魍獣たちを刺激する。いくらヤヒロが二十三区に慣れているといっても、一個分隊の戦闘員を無傷で都心まで連れて行くのは、ほぼ不可能だった。水路の利用は、その不可能を覆す苦肉の策だったのだ。

「問題は、魍獣に遭遇したときに逃げられないってことだけど――」

 ヤヒロが目つきを険しくして前を見た。

 一体の水棲魍獣が水面に浮上して、ヤヒロたちのボートに迫ってくる。ヌメヌメとした分厚い皮膚を持つ、ナマコのような姿の魍獣だ。

「そんときは俺たちの出番ってわけだな!」

 ヤヒロが指示を出すより早く、ジョッシュが特殊部隊仕様の軽機関銃を構えた。

 そして躊躇なく魍獣に向けて発砲する。

 航行中のボートの揺れは激しいが、ジョッシュの射撃の腕はなかなかだ。不安定な肩撃ちにもかかわらず、二百メートル近い距離をものともせずに、ほぼ全弾を命中させる。

 同時にロゼたちが乗る、もう一艘のボートからも援護射撃が始まった。

 軽機関銃程度の威力では、魍獣を絶命させるのは難しい。

 それでも、ボートの進行方向から追い払う程度の効果はあった。魍獣が怯んで潜行した隙を衝き、二艘のボートはその横をすり抜ける。

 安全な距離に達したところで、ジョッシュがようやく銃を下ろした。

 その直後、どこか遠くで打ち上げ花火を思わせる轟音が鳴り始めた。

 装輪戦車に搭載された大口径リボルバーカノンの射撃音。捕獲作戦に参加した他社の部隊が、地上で魍獣と戦闘を始めたのだ。

「おお……向こうでも派手にやってんな」

 射撃音の方角を見遣って、ジョッシュが呑気な感想を漏らす。

「ランガパトナの装甲部隊……苦戦してる……」

 自分の銃に新しい弾帯を装着しながら、パオラがぼそりと独りごちた。

 鳴り止むことのない射撃音に混じって、車両が建物にのめりこむ激突音や、装甲の圧壊音が響いてくる。一方的にやられているわけではないが、部隊にも少なからぬ犠牲が出ているのは間違いなかった。そして戦闘が長引けば長引くほど、魍獣たちが多く集まって人間側は不利になっていく。

「むかつくが、ライマットの会長が言ってたことも事実だな。連中が騒いでくれたおかげで、魍獣どもが引きつけられて、そのぶんこっちが手薄になってる」

「私たちも……同じ……RMSの囮になるはずだった……本当は」

 ジョッシュとパオラが冷静な会話を交わす。

 民間軍事会社の一員だけあって、嫌悪感を滲ませながらも彼らの状況判断は的確だ。

 複数の部隊が同時に目的地を目指すことで、魍獣たちの警戒が分散している。でなければ、いくら水路を使っても、ここまでスムーズに都心に近づくことはできなかったはずだ。

 だからといって、他社の部隊も、望んで囮になろうとしているわけではない。

 むしろ隙あらば自分たちだけ抜け駆けし、目的地に先に辿り着こうと考えているはずだ。

 その事実を裏付けるかのように、ヤヒロたちの頭上に白い軌跡が描かれていく。二十三区の上空を、一機の航空機が横切っているのだ。

 目聡くそれに気づいたジュリが、あーあ、と哀れむような声を出す。

「そう来たかあー……やっちゃったねえ」

「え?」

 ジュリにつられて上空を見上げ、ヤヒロは眩しさに目を細めた。その表情が見る間に強張っていく。航空機から撒き散らされた、綿毛のような物体に気づいてしまったのだ。

「QDSの輸送機ハーキュリーズ……空挺部隊の……輸送用……」

 狙撃用のスコープをのぞいたパオラが、航空機の正体を言い当てた。

 QDS――クイーンズランド・ディフェンシブ・サービスは、クシナダ捕獲作戦に参加した民間軍事会社の最後の一社だった。彼らは陸路でも水路でもなく、輸送機からのパラシュート降下で、直接、東京ドーム跡地に突入しようと考えたのだ。

「パラ降下……って、おいおい、そいつはズル《チート》じゃねえの?」

 ジョッシュがのんびりとした口調で言う。

 馬鹿な、とヤヒロは口の中だけで呟いた。成層圏などの高高度を除いて、二十三区の上空は飛行禁止空域に指定されている。その理由を知らない民間軍事会社があることに呆れたのだ。

 最初の戦闘員がパラシュートが開いた直後、水路から見上げた地上の街の輪郭が揺らぐ。廃墟のビル街から、膨大な数の飛行生物が、群れを為して一斉に飛び立ったのだ。それは魍獣――否、魍鳥たちの大集団だった。

「ろくに身動きできないパラ降下中の人間なんか、飛行できる魍獣のいい餌だからな。低高度開傘なら気づかれないと思ったんだろうが――」

 ヤヒロが顔をしかめて言った。

 鋭敏な感覚を持つ魍獣たちは、縄張りへの侵入者を決して見逃さない。地上近くまで降りてきたQDSの戦闘員たちへと、飛行型の魍獣が群がっていく。

 パラシュートを開傘してから、地上までの距離はわずか三百メートル。だが、その三百メートルが絶望的に遠い。自在に空中を駆ける魍獣たちは、降下中で満足に動けない戦闘員たちに容赦なく猛然と襲いかかる。

 上空に赤い霧が広がった。

 犠牲者たちが撒き散らした鮮血の霧だ。

 距離が遠く、彼らの悲鳴が聞こえないのは、ヤヒロたちにとっては幸運だった。

 数百体の魍獣たちが空中を乱れ飛び、四十名を超えるQDSの部隊は、誰一人地上まで辿り着くことなく壊滅する。

 その光景を目撃したギャルリーの戦闘員が、皆、一様に声をなくした。

 彼らも、魍獣の恐ろしさを知らないわけではないだろう。ナマコもどきを撃退したときの手際からして、それなりの実戦経験も持っているはずだ。それでも隔離地帯に出現する魍獣の数と獰猛さは、実際に体験して見なければわからない。

「やべえな、これが二十三区か……」

 短い沈黙を挟んで、ジョッシュが深々と息を吐く。

 そうだよ、とヤヒロは口の中だけで呟いた。

 これが、かつて東京と呼ばれていた場所。ヤヒロが暮らしていた街の現実だった。

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