虚ろなるレガリア Corpse Reviver 4/13


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『――わおーん! こんにちは、伊呂波わおんです!』

『今日も見に来てくれてありがとう。早速ですが、皆さん、お気づきになったでしょうか? なんと、わたしの衣装が本日から新しくなりました。はい、新衣装です! ひゅーひゅー!』

『というわけでですね、この新しい衣装なんですけど、前のやつより、ちょっと露出? が、増えてしまって恥ずかしいんですよね。けっこう照れてます。まあ、夏ですからね!』

『いや、実を言うと前の衣装は、胸回りとか少しきつくなってしまいまして、油断すると弾け飛ぶんじゃないかって……違っ、違うんです! 太ってないから! 成長しただけだから!』


          †


 常磐線の鉄橋を使って徒歩で江戸川を横断し、封鎖された隔離地帯へと侵入する。

 金町駅の跡地に近い私立大学の廃校舎。そこがヤヒロのねぐらだった。

 大殺戮のために日本に軍を派遣した国家は三十カ国以上。そのうち八カ国は現在も駐留を続けて、日本全土を分割統治している。

 ただし被占領民となるべき日本人が死に絶えていることもあり、人口密度は極端に低い。

 占領軍が駐留しているのは、主要な港湾や大都市だけ。日本列島の大半は無政府状態のまま放置され、国際的なテロリストや犯罪者たちが跋扈する無法地帯と化していた。

 だが、そんな犯罪者たちですら、滅多に足を踏み入れようとしない場所がある。

 それが二十三区――過去に東京都区部と呼ばれていた地域エリアだった。

 日本の政治経済の中心地。かつての首都が隔離地帯に指定された理由は簡単で、この付近の魍獣出現率が、ほかと比べて桁外れに高いせいである。

 しかも獰猛で危険な個体が多く、その割合は都心部に近づくにつれて高くなる。

 大殺戮から四年が経った今も、都内の建物がそのままの姿で放置され、高価な美術品や工芸品の多くが手つかずで残っているのはそのせいだ。

 未だ人の支配が及ばぬ、魍獣の棲息圏。

 だからこそ、ヤヒロはそこで寝泊まりする。二十三区内にいる限り、強盗に襲われることも、空き巣に狙われることもないからだ。

 魍獣に襲われたなら殺せばいい。だが、相手が人間の場合はそんな単純には割り切れない。

 殺人を禁じていた国家は滅びた。ヤヒロの罪を咎める人々ももういない。それでも、殺人という一線を越えてしまったら、自分が日本人だという最後の拠り所を失ってしまう気がする。

 もちろん、そんなものはただの感傷だ。自己満足でしかないことはわかっている。

 だが、死ぬことができない自分が他人の命を奪うのは、フェアではない、という思いもある。

 だから、ヤヒロは人を殺さない。

 自分が日本人だということを、そして人間だったことを忘れないために。

「まあ、厳密に言ったら、住居不法侵入や窃盗も全部アウトなんだろうけど」

 無人の大学構内に勝手に入りこみながら、それくらいは大目に見てくれよ――と、ヤヒロは誰にともなく呟いた。


 だだっ広い空き教室に一人でいるのは落ち着かないので、ヤヒロは、主に大学院生用の狭い研究室を使っていた。ベッド代わりのソファに荷物を投げ出し、備蓄用の缶詰とチョコレート、ミネラルウォーターだけの質素な夕食を用意する。

 エドに頼めば肉でも魚でも、それどころか焼きたてのパンですら取り寄せてくれるだろうが、そんな馬鹿げたことを試してみる気にはなれなかった。いったいどれだけぼったくられるのか、わかったものではないからだ。

 ヤヒロが大学のキャンパスを拠点にしているのは、建物に設置された太陽光発電システムが生きていたからだ。太陽光パネルの大部分は破損して性能は低下しているが、それでもヤヒロ一人では使い切れないほどの電力が手に入る。

 昼間のうちに充電を終えていた改造スマホを起動して、ヤヒロは軍用のデジタル通信網に割りこんだ。かつてのヤヒロは、ハッキングのやり方など知らなかったが、一人きりでこの街に取り残されて、勉強する時間はたっぷりあった。専用のツールを使って回線に侵入。北関東に駐留しているカナダ軍のサーバーを経由して、海外の動画配信サービスに接続する。

 目当てのチャンネルはすぐに見つかった。

 ヤヒロの改造スマホに映ったのは、獣の耳がついたウィッグを被った美しい少女の顔だった。

『――わおーん! こんばんは、伊呂波わおんです!』

『今夜も見に来てくれてありがとう。夜になってようやく涼しくなりましたかねー……てか、セミ、うっさい! 大丈夫ですか、わおんの声、聞こえてますか? もしもーし!』

 やたらとテンションの高いお約束の挨拶が聞こえてきて、ヤヒロは、ふっ、と表情を緩める。

 銀色の髪と翠の瞳。アイドルやアニメキャラを連想させる奇抜な衣装。伊呂波わおんと名乗るこの少女は、ネット上に自作の動画を公開しているアマチュア配信者ストリーマーの一人だった。

 動画の内容は、他愛もない雑談が中心だ。

 あとは調理風景の実況や、たまに楽器の弾き語りとダンスを披露することもある。

 もっとも彼女の動画の内容は、さほど面白いものではない。

 本人の顔がいいこと以外、特筆すべき点はなにもない。

 会話の内容はありふれた一般人のノリだし、料理の腕もせいぜい人並み。運動神経がいいのかダンスは意外に上手いが、歌唱力は壊滅的である。

 当然、動画の再生数も伸びない。三桁いけばまだいいほうで、ほとんどの動画は数十回しか再生されずに終わってしまう。

 それでもヤヒロにとって彼女の動画は、唯一無二の特別なものだった。

 なぜなら彼女の配信は、からだ。

 伊呂波わおんは日本人。もしくは日本に縁の深い人物だ。

 彼女は死に絶えた日本人のために、滅びてしまった国の言葉で語りかけている。

 もちろん、そんなものは単なるキャラ作りなのかもしれない。その可能性のほうが遙かに高い。伊呂波わおんなどという人物は実在せず、誰かが悪意をもって日本人を騙っているだけなのかもしれない。だが、それでも構わない、とヤヒロは思う。

 彼女が聞かせてくれる懐かしい言葉と、自分以外の日本人が生き残っているという幻想に、ヤヒロが救われてきたのは事実なのだから。

『さて、今夜はわおんに届いた皆様からの質問にお答えしたいと思います。最初のメッセージは、この方! 東京都のやひろんさん! いつもありがとうございます!』

「っ!」

 配信者が読み上げた名前を聞いて、ヤヒロは小さくガッツポーズをした。やひろんとはヤヒロのハンドルネームだ。ヤヒロが送ったメッセージを、わおんが取り上げてくれたのだ。

『やひろんさん、東京にお住まいということで、これって本当なんですかね? わおんも東京在住っていう設定なんですけど、ご近所さんですね。もし会えたら嬉しいな……というわけで、本日最初の質問ですが――』

 改造スマホに顔を寄せ、ヤヒロは喰い入るように配信者の少女を凝視する。

 しかしヤヒロは、わおんの次の言葉を聞くことはできなかった。スピーカーから流れる彼女の声を、唐突に鳴り響いた銃声がかき消したからだ。

 

「……は?」


 一瞬、呆気にとられたように顔を上げ、次の瞬間、ヤヒロは反射的にナイフをひっつかんで部屋を飛び出した。銃声は今も鳴り続けている。聞こえてくるのは中庭の方角だ。

「なんで、こんなところに人間が……!?」

 当然だが、魍獣は銃器を使わない。この大学構内に人間が入りこんでいるのだ。二十三区に不用意に迷いこんだ誰かが、魍獣に襲われているのだとヤヒロは当然のように考えた。

 もちろん、封鎖された隔離地帯への侵入者が魍獣に襲われるのは自業自得で、ヤヒロが助ける理由はない。だが、さすがに自分のねぐらの目と鼻の先で死なれては敵わない。血の臭いに惹かれた魍獣たちに集まってこられても面倒だ。

 鍵の壊れた扉を蹴り開けて、ヤヒロは中庭に飛び出した。その直後、驚いて足を止める。

「うおっ!?」

 吹き飛ばされた人の身体が、ヤヒロの眼前を横切って壁に激突した。防弾ベストを着けた大柄な男だ。砕けた窓ガラスの破片を派手に撒き散らし、男は血塗れになって地面に転がる。

「あ、鳴沢八尋だ!」

 呆然と立ち尽くすヤヒロの名前を、誰かが呼んだ。

 東洋系の若い女性。ノースリーブのチャイナシャツを着た小柄な少女だ。アシンメトリーの黒髪に、華やかなオレンジ色のメッシュが入っている。

 年齢はおそらくヤヒロと同世代。十代半ばといったところだろう。二十三区で活動するには信じられないくらいの軽装で、武器らしい武器は持っていない。しかし合気道に似た奇妙な格闘技を使って、防弾ベストの男を投げ飛ばしたのは間違いなくこの少女だった。

「く……そ……!」

 防弾ベストの男が、握りしめていたSMGサブマシンガンを少女に向けた。

 オレンジ髪の少女は、銃口を見ても表情を変えない。そして男が銃の引き金を引くより早く、違う場所から銃声が聞こえた。右の手首を吹き飛ばされた男が、声にならない悲鳴を上げる。

 男を撃ったのは、オレンジ髪の少女と、まったく同じ顔をしたもう一人の少女だった。

 気まぐれな猫を連想させる大きな瞳。浮世離れした端整な顔立ち。姉妹としてもあり得ないほど、二人の容姿はよく似ていた。

 サイドの片側だけが長いアシンメトリーの髪型も、左右対称になっている以外はほぼ同じ。

 ただ髪の色だけが違っている。二人目の少女のメッシュは青だ。

 彼女たちが来ているチャイナシャツも、それぞれの髪と同じ色だった。

 青髪の少女が左右の手に持った拳銃を、それぞれ一度ずつ発砲する。

 照準を合わせる時間があったとは思えなかったが、彼女の狙いは精確だった。眉間を撃ち抜かれた男が二人、銃を持ったまま倒れてそのまま沈黙する。

「ろーちゃん、いたよ。鳴沢八尋」

 オレンジ髪の少女が、同じ顔の少女に手を振った。

 ろーちゃんと呼ばれた青髪の少女が、太股のホルスターに拳銃を戻しながら近づいてくる。ヤヒロに対する敵意はない、という意思表示らしい。

「鳴沢八尋。鳴沢八尋だよね? 間違いない? ふーん、若いね……目つきは悪いけど、まあまあ可愛い顔してるかな。それにちょっと面白い匂いがする」

 オレンジ色の髪の少女が、ヤヒロを正面から見つめてすんすんと鼻を鳴らす。

 ヤヒロはナイフをいつでも抜けるように握ったまま、無言で彼女を見返した。

 頭の中で必死に考える。なぜ彼女たちはここにいるのか。なぜヤヒロの名前を知っているのか。彼女たちの目的はなんなのか。そして彼女たちは、敵か、味方か――

「突然押しかけてきたことは謝罪します、鳴沢八尋」

 青髪の少女が静かに言った。

 二人の顔立ちは同じだが、それぞれの眼差しから受ける印象は正反対だ。好奇心に満ちた子猫のようなオレンジ髪の少女に対して、青髪の少女の瞳はまったくなんの感情も映していない。

「押しかけてきた……っていうか、なんなんだ、こいつら?」

「どこかの民間軍事会社に雇われた戦闘員オペレーターでしょう。私たちをけてきたようです。あなたとの接触を阻止しようとしたのでしょう」

「民間軍事会社の連中が、どうして……」

 ヤヒロが顔をしかめて訊き返す。脳裏をよぎったのは、昼間のエドの警告だった。

 民間軍事会社が回収屋について調べている――彼の言葉が、その日のうちに的中したのは、単なる偶然とは思えない。あの男は、こうなることを最初から知っていたのではないかと疑いたくなってしまう。

「それは……」

 ヤヒロの質問に答えようとした青髪の少女が、不意に目を細めて拳銃を引き抜いた。

 そして彼女は、倒れていた男に銃口を向ける。最初にオレンジ髪の少女に投げ飛ばされた、防弾ベストの男だ。

「鳴沢……八尋ォォォ……!」

 血走った目でヤヒロを睨んで、男が雄叫びを上げた。彼の筋肉が異様な勢いで盛り上がり、内側から防弾ベストを弾き飛ばす。

「まだ意識がありましたか」

 青髪の少女が引き金を引いて、男の眉間に容赦なく銃弾を撃ちこんだ。機械のように精確な射撃。貫通力に優れた九ミリ弾が男の頭蓋を貫き、脳に致命的なダメージを与える――否、与えたはずだった。

「オォォォォォォォォォォ!」

 しかし男の動きは止まらなかった。流れ出した自らの血で全身を染めながら、歓喜の表情とともに咆吼する。双眸を爛々と輝かせて、男はヤヒロを睨んでいる。

「なんだ……こいつは……」

 本能的な恐怖を覚えて、ヤヒロはナイフを抜いた。今の男の姿には、魍獣と同種の――あるいはそれ以上の生理的な嫌悪を感じる。

F剤エフメド――!」

 青髪の少女が、男の首筋に目を留めた。左の頸動脈近くに突き刺さっていたのは、注射器に似た直径五センチほどのシリンダーだ。

 シリンダー内に封入されていたのは、ワインのような深紅の液体だった。そのほとんどはすでに男の体内に打ちこまれ、彼に異様なまでの生命力を与えている。

「ろーちゃん、下がって! ファフニール兵だ!」

 オレンジ髪の少女が、タン、と地面を蹴って跳躍した。小柄な身体を器用に使って男の腕を搦め捕り、そのまま全体重をかけてあり得ない方向へとねじ曲げる。

 不快な音が鳴り響き、男の左腕がへし折れた。

 しかし男は、その痛みを歯牙にもかけず、折れた腕でオレンジ髪の少女を投げ飛ばす。

「ジュリ――!?」

 青髪の少女が悲鳴を上げた。

「びっくりしたあ……!」

 オレンジ髪の少女は猫のように空中で回転して壁に着地。何事もなかったように地上に降り立ち、血塗れの男から距離を取る。

 男は少女には見向きもせずに、折られたはずの左腕を頭上へと突き上げた。骨が砕けるような音が何度も鳴り響き、男の腕が歪な形に変形していく。硬質の鱗に覆われ、ナイフのようなトゲを生やしたその姿は、巨大な爬虫類の前肢を連想させた。

「こいつはすげえ……すげえ力だ……! この力があれば魍獣だって殺せる……!」

 鉤爪の生えた指で拳を握り、男が歯を剥きだして笑った。そして彼は突然、殺意に満ちた視線をヤヒロに向ける。

「なんだ、おまえ……その臭い……!」

 しゃがれた聞き取りにくい声で低く唸ると、男はヤヒロに向かって跳躍した。人間の筋力の限界を超えたその動きに、ヤヒロの反応が追いつかない。

 男が突き出した左の鉤爪が、ヤヒロの左胸を大きく斬り裂いた。しかし飛び散ったヤヒロの血を浴びて、苦悶の声を上げたのは男のほうだった。

「そうか、おまえがラザルスか……ラザルスゥゥゥゥゥ――ッ……!」

「ぐっ!?」

 男の鉤爪が再びヤヒロを襲う。

 ヤヒロはその攻撃を素手で受け止めた。自分の腕を貫いた鉤爪を、筋肉の力で固定して、男のそれ以上の動きを封じる。そして自らの血に濡れたナイフを、男の肩へと突き立てた。

「ゴオオォォォォォォォッ!」

 男が獣めいた悲鳴を吐き出した。ヤヒロの腕に突き刺さったままの鉤爪を、無理やり引き抜こうと肥大化した左腕を振り回す。

 だが、その結末はヤヒロにとっても予想外のものだった。枯れ木が折れるような乾いた音を残して、男の左腕がボロリと肩からもげたのだ。

「なっ……!?」

 ヤヒロと男が、同時に驚きの声を漏らした。

 互いに引っ張り合っていた反動で、二人はそのまま後方へと倒れる。ヤヒロは地面を転がりながら慌てて体勢を立て直し、反射的にナイフを構えた。そして驚愕に息を呑む。

「この程度……この程度……デェェェェェッ!」

 男の身体が溶けていた。もともと大柄だった肉体は、本来の姿の三倍以上に膨れ上がり、膿んだようなドス黒い色に変色している。

 細胞の無秩序な増殖を制御できない彼の姿は、もはや人間の形を保っていない。限界を超えた風船が破裂するように、全身から腐汁をぶちまけて男の身体は弾け飛んだ。

 死、というよりも消滅という言葉が相応しく思える、壮絶な最期だった。

 ヤヒロは身動きもできないまま、それを呆然と眺めていた。

 廃墟化した大学構内に、再び静寂が戻ってくる。

 背後に人の気配を感じて、ヤヒロはゆっくりと息を吐いた。刃毀れしたナイフを鞘に戻して立ち上がる。

 振り返ると二人の少女と目が合った。並べて見比べても本当によく似た二人だ。

「説明してくれるんだろうな?」

 苛立ちを圧し殺した口調で、ヤヒロが訊く。

「ええ、もちろん。私たちはそのために来たのですから」

 青髪の少女はそう言って、口元だけの美しい笑みを浮かべた。

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