第3話 恋と革命

 その日から、潤一郎はほぼ毎日、三鷹の人喰い川の辺りに通い、気の向くままにギターを奏で、歌った。

 女も大体同じ時刻に現れ、いつも立ったまま買い物籠を抱えて、潤一郎の演奏を聴き入った。

 そして、潤一郎が敷いたゴザに座り、しばらくとりとめのない話をしてから一人で先に帰っていった。


 ある時、暗く人通りの少ない寂しい道で女の一人歩きは良くないのではないかと諫めると、女は「今更?」と嬉しそうに笑った。


 笑い事じゃないと言う潤一郎に、彼女はほつれ毛を指に巻きつけながら返した。


「私ね、東京に来てからは一人で住んでたから、何でも一人でやらなきゃいけなくて、誰も夜道が心配なんて言ってくれなかったから嬉しくてつい。でも、私のことを心配してくれるなら、もう少し人の多いところで歌ってよ」


「それはできない。まだ人に聞かせられる状態じゃないんだ」


「でもつい最近まで横浜とかで歌っていたのでしょう? お仲間と。なら良いじゃない」


「良くないさ……。今の俺は一人だし、自分の音楽を探している最中なんだ。自分にしかできない音楽を。バンドをやっていた頃は、大衆に迎合して、売れている奴らの猿真似をしていただけだったんだ。でも、それじゃいけない。埋もれてしまうし、すぐに忘れられてしまう。けど、いざ自分に向き合ってみると俺は空っぽだった。空っぽで自分がないから、自分のやりたい音楽がぼんやりとすら分からない」


 女との逢瀬は楽しかったが、音楽の方は全くと言って良いほど、方向性が定まらずにいた。

 何を歌ってもピンとこない。

 自分は空っぽな人間なのだという認識がいよいよ強くなってきていて参る。


 が、女は潤一郎の自己評価に首を横にした。


「音楽のことは私はわからないけど、あなたは空っぽじゃないと思うわ。むしろ、物凄く色んな種類の感情を沢山抱えている気がする」


 潤一郎の方は見ずに、遠くを見るような目をしている。ここにはいない誰かを見据えているようで、チリリと胸が焼けるような感触がした。


「人間は何のために生まれてきたか知っている?」


 唐突な問いに、潤一郎が答えを探しているうちに、女は自ら答えを口にした。


「恋と革命のためなんですって」


「ああ、『斜陽』か」


 近頃の流行小説で、斜陽族なんていう言葉もよく耳にする。

 潤一郎の実家は華族ではないが、大きい括りで見れば自分も斜陽族に入るかもしれないと感じたことはある。

 戦後の価値観の変化に置き去りにされ、没落していく裕福な名家に生まれたはみ出し者の若者。

 と言っても、小説のヒロインは潤一郎なんかよりもずっと先進的で自分の意思がはっきりしていて、一緒にしたらファンに怒られそうだ。


 女はうっとりとため息をつき、花柄のスカートの裾を整えながら続けた。


「初めてこのフレーズを聞いた時、身体中にビビッと電流が走ったみたいだった。それまでの私は革命どころか、恋すら満足にしていなかったから。やっとわかった気がしたの。どんなに仕事を頑張っても、孝行娘だと褒められても、何だか満たされなくて、他人の人生を生きているみたいだった理由が。私はまだ、何一つ生きる目的を果たしていなかったの」


「恋と革命ねえ……」


 もし、女が言うように、流行作家が書いたように、人生の目的が恋と革命なら、潤一郎もまた生きながら死んでいるようなものだ。

 恋人がいたことはあるし、深い仲になった女もいたが、恋ではなかった。

 皆が持っているアクセサリーを周囲の視線を気にして付けていたという感覚に近い。


「あなたも求めているのじゃないかしら。恋と革命を」


「俺は左翼運動をする気はない」


 珍しく冗談を言ったのに、女は笑わなかった。むしろ、茶化されたと感じたのか、不機嫌そうに眉を顰めた。


「何も政治運動だけが革命じゃないわ。現に『斜陽』の主人公だって、政治運動には手を出していない。古い慣習とか常識とかに反抗するのだって、立派な革命よ」


「古い慣習とか常識への反抗は日本全体の潮流じゃないか。みんながやってることを一緒にやるなんて最早革命じゃない。俺はみんなとは違うことをやりたいし、今の急速な世の中の変化も正直馴染めないんだ」


 我ながら、いい歳をして思春期の子供のような精神だと感じた。みんなと同じ、右向け右なんてまっぴらだった。


 だが、女は潤一郎の真意を捉えかねていたようだった。


「戦前の方が良かった?」


「いや、それはない。民主主義も平和主義も男女平等もウェルカムだ。多分、俺は180度変わってしまった社会を当たり前に受け止めて、ありがたがってる連中が気に食わないんだ」


 子供ね、と冷笑される覚悟をしたが、彼女はクスリと忍び笑いをした。

 そして、やにわに買い物籠から新聞紙の包みを取り出して広げた。


 包みの中には真っ赤に熟した桜桃さくらんぼがぎっしりと入っていた。

 そのうちの一つを女は掴み、口に含んだ。

 女の薄く可憐な唇が真っ赤な果実を包み込み、吸い込む様に潤一郎は目を奪われた。

 戦時中、南方の赴任地で見た、美しい蝶に成長する幼虫が原色の昆虫を捕食している様に似ていた。

 無垢で清廉なのに、グロテスクでエロティックで非道徳的な光景だった。


「ふふ、つまみ食いしちゃった。これも小さな革命かしら。不良になった気分だわ」


 女は清らかに笑ったが、その微笑みに途方もない闇を感じて、潤一郎の背中に寒気が走った。

 しかし同時に、筆舌に尽くし難い程に惹かれた。

 幼虫の出す甘いフェロモンに誘われ、食らわれたあの昆虫みたいに。

 潤一郎は恋をしていた。

 何が不良になった気分だ。お前はずっと前から、もっともっと非道徳的な不良だろう。

 根拠なんてない。けれども潤一郎は本能的に女の業を察知していた。

 でも抗えない。どんなに悪い女だろうと、この女が欲しい。


「あなたもお一つどう?」


 差し出された果実を受け取り口に含んだ。

 これで俺も共犯者だ。不良だ。


「うまい。さくらんぼなんて久しぶりに食べた」


「とても良いものなの。あの人、好きだから」


 頬を赤らめて話す女の視界に自分は入っていない。

 もうここに来るのも今日でやめようか、急にそんな思いが頭をよぎる。

 恋が決定的に終わってしまうのを受け止める気力はない。


「あなたは、もっと自分を思ってることを表に出せばいいと思う」


 唐突に女は呟いた。

 気恥ずかしいのか、やや早口で膝の上に視線を落としたまま続ける。


「形になってなくたって、言葉になってなくたっていい。自分の魂を全力でぶつけていけばいいのよ。木っ端微塵になるくらいの勢いで、死んだって構わないっていうくらいにね。大切な人を傷つけたり、一人ぼっちになったって、刑務所に入ったって後悔しない。それくらいの心意気で、あなたの全てを音楽にぶつけてみたら? そうしたら、変わるはずよ」


 いつもの潤一郎なら、分かったようなことを言うなと悪態を吐くのだが、そんな気は起きなかった。


 胸の中でマグマが沸き立つように衝動が高鳴り、みるみるうちに抑えられなくなる。


 急いで立ち上がり、ギターケースを背負う。


 眼鏡の奥の瞳を丸くしている女に向け、潤一郎は親指を立ててウインクをした。


「Thank you!」


 すると女も親指を立てて見せ、返した。


「Good luck!」


 列車の中でも走る勢いで自宅に戻った潤一郎は、10年以上そのままになっている亡き母の部屋に飛び込んだ。


 生前母が使っていた鏡台の引き出しを上から順に開けていく。一刻も無駄にできないのに、目当ての品は一番下の引き出しの奥に仕舞われていた。


 銀座の資生堂で買った口紅。

 さくらんぼの実のように真っ赤な口紅を、月明かりを頼りに潤一郎は己の口紅に塗った。


「お兄様、何をなさっているの? っ!? お母様の遺品でなんてことを!」


 騒ぎを聞きつけて様子を見に来たらしい妹は潤一郎の顔を見て卒倒しかけた。


「悪い、説明は後だ。見つかりそうなんだよ、俺の音楽が! 革命が起こるぞ!」


 縋り付く妹の手を振り払い、潤一郎は自室を目指す。

 今なら書けそうだ。自分だけの、魂をぶつけた曲を。


 出来上がったらまず、あの女に聞かせようか。

 いや、すぐに売れるだろうから、大きな会場でのライブに呼んでやろう。

 気に入らないが、最前列に2つ指定席を取って。

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