第2話 人喰い川の辺りで

 NY dogsの活動休止が決まって1週間は、潤一郎は松濤の自宅でだらだら過ごしていた。


 昼前に起きて、父親の作る飯を食い、レコードを聴いたり、ギターをいじったりしているうちに夜になり、近所の工務店で事務員をしている妹が帰ってくる。

 妹の虫けらを見るような視線を浴びつつ、夕飯を食べ、自室に帰って小説を読んだりしているうちにあっという間に夜は更けていき、明け方ずるずると眠りについた。


 3日目くらいには、この調子で暮らしていると、朝(正確に言うと昼だが)起きたら、グレゴール・ザムザのように気味の悪い虫に変身しているかもしれない気になった。それは流石に困る。

 いや、でもグレゴール・ザムザは確か変身前は働いていたが、自分は無職だ。

 ならば一体、自分は何になってしまうのか。ムカデにすらないナメクジだろうか。


 もしナメクジになってしまったら、容赦なく妹に塩をかけられそうだ。


 妄想と現実の境界線がいよいよ曖昧になってきた8日目の夕方、潤一郎はギターを背負って家を出た。

 列車を乗り継ぎ、郊外を目指す。


 三鷹駅で下車し、駅前の雑踏を通り過ぎ、玉川上水に向かった。


 やがて、暗闇の中、轟々と激しく流れる水音が大きくなり、湿った夏草の香りが強くなってきた。

 この辺りの流れは、転落して命を落とす者も多く、人喰い川と恐れられているらしい。

 特に夜間はかなり暗くなるため、余計危険な上に気味が悪いと皆恐れて近づかないようだ。


 潤一郎は真っ黒な水流を土手の上から見下ろす。


 一生、こんな真っ黒な世界で本当の自分なんて捨てて生きていくと思っていたのに。

 今更、太陽の当たる道に引き出されたって、まともに歩けるわけがないじゃないか。


 ギターをケースから取り出し、ベルトを肩に通す。


 人生をまともに歩ける気もしないし、自分の音楽も自分自身も行方知れずだが、ギターは弾けるし、歌うことはできる。


 薄暗い街灯の光をスポットライト代わりに、思うままにメロディを奏で、歌った。


 観客がいなければ、自分のやりたいようにでき、自ずと自分の音楽を見つけられるのではないかと淡い期待があった。


 1時間ほど経った頃であろうか。

 結局、自作の曲の演奏は早々にやめ、古いシャンソンを歌っていた。


 すると、三鷹駅方面に向かって歩いてきた一人の女が足を止め、潤一郎の正面に立った。


 歳の頃は20代後半くらいか。潤一郎と同年代に見える。

 若草色に白の小花柄を散らしたワンピースを着ていて、艶々とした黒髪を一つに編んで背中に垂らしている。

 色白で小作りだが上品で整った顔立ちに、銀縁の大きな眼鏡が理知的な風貌を引き立ててよく似合っていた。

 胸の前に大事そうに抱えた買い物籠からして、主婦なのだろうが、何故だかそうは見えなかった。

 女は、女学生のような清廉さと、じっとりと湿った後ろ暗さの両方を混ぜた不思議な空気を纏っていた。


 潤一郎が演奏を終えると、女は買い物籠を落とさないように気を払いながら、拍手をした。

 小さくて品の良い可愛らしい拍手だった。

 そして、買い物籠の中からがま口を出しかけたので、潤一郎は制した。


「いりません。お気持ちだけで十分です」


「でも、素敵な演奏でしたもの。『Le Temps des cerises』ですよね。私、この曲好きわ」


 語り口は静かだが、高く幼さの残る甘い声だった。一言一言丁寧に選んで発せられたような言葉からは、教養の深さが滲み出ていた。


「ありがとうございます。でもチップは遠慮させていただきます」


 どうして? と言いたげに女は小首を傾げた。


「人に聞いてもらってお金をいただきたいなら、駅前とか人の多いところでやります。けど、僕は今それを望んではいない。歌ったりギターを鳴らしたりして、自分と向き合っているだけなのです。家だと家族がいて気が散るので、こうして人のいないところまでわざわざ出てきてやってるだけで……」


 問われてもいないところまで言い訳をし、潤一郎は我に返った。通りすがりの女相手に何を狼狽し、問わず語りまでしているのか。

 前職に就いている頃だったら首を言い渡される始末だ。


 急に口をつぐんだ潤一郎を女は心配そうに見つめ、桜色の唇を開いた。


「私、もしかしてご迷惑でしたか?」


「まさか! 僕が勝手に歌ってるだけですので」


 声が裏返ってしまい、潤一郎は赤面した。何故だろう。この女の前だと調子を狂わせられる。

 穏やかで大人しそうな出立ちなのに、世界を捻じ曲げる磁場を発する女だ。


 クスクスと笑いながら、女は続けた。


「じゃあ私はまたあなたが勝手に歌っているところを聞きたいですわ。私、駅の方の商店街に住んでいますの。今日はあっちの農家さんのところに卵を分けてもらいに行った帰り。また、ここに来てくださる? これくらいの時間に来ればいらっしゃるかしら?」


 意外にも積極的な女の姿勢に潤一郎は戸惑った。今日は気まぐれで来ただけだし、横浜の進駐軍のクラブでの仕事もあるから、約束はできない、と返そうとしたところで思い直す。


 そういえばバンドは無期限活動休止中であり、クラブの仕事も断ってしまっていた。

 バンド活動休止のことは家族には言えていない。自立する資金もない現状、これ以上、肩身が狭くなることは流石に言えなかった。

 軍人にはならなかったが、何だかんだで戦争が終わるまでは桐原家の期待を背負って生きてきた出来の良い長男の面目は保ってきたのだ。

 年頃になったら父の優秀な部下のところにでも嫁がせればよいというくらいにしか期待されていなかった妹の方が、今は一家の生計を支え、さらなる収入の安定と増加を求めて勉強をしている。


 父は潤一郎の生活について面と向かって口出ししないが、妹はチクチクと嫌味を言ってくる。

 彼女には当然の権利があるので諦めているが、居心地は悪い。



 毎晩ギターを抱えて出かければ、家族(特に妹)の辛辣な目をかわせるのではないか。

 結果はまだ出せていないが、努力しているという既成事実にはなる。

 そんな狡い考えが脳裏をよぎった。


「そうですね。毎日とまでは言えませんが、しばらくここで歌おうと思っています」


「じゃあ、また聞きに伺いますわ」


「ご自由に」


 せめてもの見栄で素っ気なく返したが、女の瞳は全てを見透かしているかのように、優しく慈愛に満ちていた。


「では私はそろそろ。あんまり待たせると、先生のご機嫌が悪くなってしまうわ。また歌聞かせてくださいね」


 忙しげに小走りで、だが軽やかに去っていく女の背中を見送りながら、潤一郎は首を捻った。

 やけに心臓のあたりが落ち着かない。

 この身体反応は恋に似ている気がするが、微妙に違う。

 例えるなら、誘蛾灯に引き寄せられる羽虫にでもなった気分だ。女の不可思議な魅力に本能的に吸い寄せられているのだろうか。

 ならば、ようやく自分も普通の青年に戻りつつあるということだ。


 深く考えると、無性に恥ずかしくなってきた。


 煩悩を追い出そうと、潤一郎はギターをめちゃくちゃにかき鳴らし、人喰い川の濁流の音に負けぬ声でシャウトした。

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