さくらんぼの恋
十五 静香
第1話 活動休止
「やってらんねえよ、こんなの。もう嫌だ。俺は抜ける!」
楽屋に戻るなり、ジャズバンド「NY dogs」ドラム担当のトミーは金髪巻毛のカツラをむしりとり、テーブルに投げつけた。
安っぽい人工毛のカツラはテーブルの角に引っかかった後、力なく板張りの床に落ちた。
「トミー、落ち着け。確かに今夜は受けなかった。でも……」
「今日もだろ! あいつら全然聞いてねえじゃん。ずっとビール飲んで姉ちゃんと乳繰り合ってるだけだろ」
肩に触れようとしたトランペット担当のピーターの白く骨張って痩せた手を振り払い、トミーは吐き捨てる。
楽屋にいても、進駐軍兵士たちの陽気な笑い声や女たちの嬌声は壁越しでくぐもってはいるが聴こえてくる。
彼らはNY dogsの演奏中もお構いなしで叫び、笑い、酔いつぶれていた。
カツラの下の毬栗頭を掻きむしり、短い手足を振り回して顔を紅潮させて怒り狂うトミーは赤鬼みたいだ。
気弱なピーターはその様を目にしただけで萎縮してしまい、口籠ってしまう。
早々にたばこを咥え、一服し始めていたピアノ担当のウィルが疲労のはりついた顔でこのバンドのリーダー兼サックスのジャックを見た。
「なんとかしろよ、リーダーだろ」死んだ魚のような目がジャックを責め立てていた。
仕方なく、ジャックはサックスをテーブルに置き、一呼吸してから、怒り心頭の赤鬼の名を諫めるようにやや強めの語調で呼んだ。
「トミー!」
振り返ったトミーは一瞬怯んだが、即、好戦的な笑みに唇を歪ませる。
「誰がトミーだよ!
ウィルが小さく失笑したのが目に入り、ジャックもカッと頭に血が上り、声を荒げる。
「留三じゃない! 最初に言っただろ。バンドやってる時はお前はダウンタウン出身のトミーだって。楽屋だからって気を抜くな」
「あーあーあー。もうこういうの含めて全部嫌だ! 何で進駐軍相手のジャズバンドだからって俺たちまでアメリカ人の設定なんだよ! 馬鹿じゃねえの? 鏡見ろよ。メリケンさん風の名前騙って、金髪のカツラ被ったって、日本人丸出しなんだよ。あー! みっともねえ。しかも、全然受けねえし。恥ずかしい」
「恥ずかしいと思うから恥ずかしいんだ! 素のままの俺たちだと、どこのクラブにも呼んですらもらえなかっただろうが。今は我慢をして実績を積む時期なんだ。そうすればいずれ、俺たちのやりたい音楽ができるはずだ」
バンドの方向性で揉める度に、何度繰り返したか分からぬ台詞は虚しく響いた。
バンド結成からもうすぐ3年、数回のメンバー交代や担当楽器変更、バンド名変更、ハワイアンからジャズへの転向などを経て、いよいよ限界がきているのはリーダーのジャックが一番よく理解していた。
理解しているからこそ、メンバーに悟られまいと苦心している。
「そもそもさ、俺たち以前に、
一瞬の沈黙をぬって発せられたウィルこと
敗戦直後。それまでの勤めていた会社が解体してしまったのが潤一郎がミュージシャンに転職したきっかけだった。
陸軍将校の家に育ち、当然のように陸軍幼年学校、士官学校と進んできた潤一郎が、初めて自分の強い意志で入社した会社は敗戦を機にあっさり解体されてしまった。
かつて東洋一の都として栄えた帝都は見るも無残な焼け野原。
物心ついた時から、常に堂々たる威信を放っていた父は失職した上に、戦犯逮捕の報せに怯える老人に成り下がった。
松濤の実家からは、瞬く間に使用人たちが去り、老朽化が目につくでかいだけの代物になってしまった気がした。
そんな最悪の状況での再出発を余儀なくされ、潤一郎が選んだ道がミュージシャンだった。
音楽は子供の頃から好きだった。
幼少の頃、父の「これからの軍人は文化人でもなければならない」という方針から、ピアノやバイオリンを習い、発表会で優秀な成績を残したこともあった。
ただ、自分は陸軍に入るものだと決める前に決まっていた環境で、音楽はあくまで余暇に嗜むものに過ぎなかった。
長じてからギターを覚えてからも同じ。
仕事にするものではないという認識は変わらなかった。
だが、世の中が昨日まで白かったものが黒になる勢いで変遷していく戦後直後の混乱期。
不意に思ったのだ。
音楽で勝負してみたいと。
思い立ったら吉日で、新聞広告や知り合いのツテを利用して集めた面子とバンドを組んだ。
同じように職を失ったり、戦地から帰ってきた青年たちの組んだバンドは星の数程あった。まずは知名度売れるための音楽を試行錯誤しつつ、今に至る。
尋ねられて気づいた。
そもそも自分にはやりたい音楽というものがないのではないかということに。
楽器を奏でるのも歌を歌うのも好きだ。
けれど、どんな曲が好きかとかどんなジャンルを好むかとなると特に何も思いつかない。
だからこそ、ハワイアンもジャズも抵抗なく演奏できるし、バンドメンバーとしての荒唐無稽な設定も難なく受け入れてやってきた。
演奏して金さえ入れば十分満足だ。
しかし、恐らく、いや確実に他のメンバーは違うのだろう。
好きな曲があって、傾倒しているジャンルがあり、表現したい気持ちがある。
核には自分自身がある。
例えば石材屋の息子で、南方帰りの石岡富三のアイデンティティは彼の奏でたい音楽と不可分なのだ。
ニューヨークのダウンタウン出身のアメリカ人トミーとしてでは表現できない。
「ねえ、提案なんだけど」
おずおずとピーターが申し出た。
「少し、活動休まない? 何だかこのままだと決定的にうまくいかなくなっちゃう気がするんだ。ぼ、僕も実は実家の父から会社手伝わないかって言われてて……」
音楽辞めんのかよ、とトミーが噛み付いたが、怯えながらもピーターは続けた。
「やめない。僕はこのメンバーも音楽も好きだもの。だけど、このまま続けたら両方とも好きじゃいられなくなりそうなんだ。だから休む。みんなそれぞれ自分に向き合って、頭冷やして再出発しようよ」
いい案かもしれないと他二人は頷いた。
どうする?
6つの瞳の問いかけに、潤一郎は「良いんじゃないか」と答えた。
他にもつらつらとピーターの提案を褒める言葉を並べたが、唇が勝手に用意された台詞を暗唱しているみたいだった。
心にもないことをよくまあすらすら出てくるものだ、前職の後遺症だな、と冷静に観察している自分に呆れた。
きっと後でウィル、否、貴男あたりに指摘されるのだ。
貴様の言葉は空っぽだ。響いてこない。何故だろうか。貴様が空っぽだからだよ、なんて容赦なく。
だが、自分は苦笑いで交わすことしかできない。
桐原潤一郎を4年も辞めていたんだ。たった3年足らずで取り戻せるかよ。
言い訳は誰にも言えない。
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