第五話 Piano Concerto No. 1, CPT.2,3
北緯五十二度、日本の宗谷岬よりさらに北にぶっちぎるワルシャワの日差しは、きっと真夏でも穏やかで、柔らかなものだろう。
なかば開いた窓からは涼やかな風が吹き込み、白いレースのカーテンを静かに揺らすのだ。すき間からのぞくのは、よく手入れされた庭園の、短い夏を楽しむ、色とりどりの花たち。しかしショパンにとっては、どのような景色であっても背景でしかない。その豊かな亜麻色の髪を揺らし、あるいは無垢な少女のようにかれに甘え、あるいははたおやかな淑女のようにかれを包み込む、(当時の)最愛の恋人、コンスタンツィアとの、セックス! くそ!
なんと言うんだろう、生々しい、生々しいのだ。全編が「美しいあなたとの思い出がいまなお彩りをもってぼくにささやきかけてくるのです」とでも言わんばかりで、正直この曲を聞いていると見ず知らずのコンスタンツィア女史に同情してしまう。天才音楽家の手にかかってしまえば、曲調そのものがひとつの写真や絵画、現代で言い換えるなら映像みたいなものだ。彼女はショパンと別れたあとも、その音楽で「輝かしき日々」を克明に記録されてしまっている。しかもショパンによるラブラブちゅっちゅビーム増し増しの状態で。大丈夫なのかこれ、受け取られ方しだいじゃかなり凶悪なリベンジポルノじゃないか。
……などとついつい語り倒したくなってしまうのは、まぁあたしがろくな男に巡り合ってないせいなんだろう。わかっちゃいる、いるんだ。だいたいあたしにしたって、安姫と交われないぶんの代替を男に求めたようなもんで、ある意味おあいこだったんだろう。
あいつらのせいであたしのショパン観がだいぶねじ曲がってしまったのは由々しき事態だが、けど、あいつらとの物足りない時間のおかげで気付かせてももらえたこともある。
すなわち、安姫と音をかわし、交わらせているこの時間は、もはやセックスしていると言っても過言ではないのでわっ……!?
べいん、と安姫が、やや調子の外れた、乱暴な音をたたき出す。ちっ、見抜かれたか。
第二楽章は第一楽章の約半分の長さ、力強さよりも表現力が問われることもあり、通常は終わったまま、すぐ最終楽章に突入する。
っが、あえて安姫は、止まった。
「枡美」
「ん?」
「わかってる、よね?」
うん、笑顔だ。
とってもいい笑顔。
ゾクゾク来る。
「はいはい、承知しましたよ」
いいじゃないか、さっきのがあたしに表現できる、最高の第二楽章だっての。そんなことを思いつつ、気持ちを切り替える。
なにせ第三楽章は、全編が実にダンサブル。ものすごいスピード感で、一気にまくしたてられる。絶好調の安姫が弾けば、それはもうジェットコースターのようなものだ。はじめの音が入った時点でわかる。ぬるい飛び込みしたら振り切るぞ、とでも言わんばかり。まったく、そいつはあたしが言ったことじゃないか。
はじめは、比較的おとなしい。そこであたしと安姫は飛び跳ねるかのように、お互いの音をリンクさせていく。安姫が一音を弾けば、あたしが一音を歌う。それがどんどんと加速していき、まるであらゆる世の中のしがらみから抜け出そうか、という勢いで、あたしたちの音は絡んでいく。
さっきの子犬のワルツでも、わかってたことじゃあ、あった。くるくると転がる音は、ものすごい遠心力をあたしの歌にぶつけてくる。
食らいついてやる、とは思わない。逆だ。あたしこそが振り回してやる。安姫のピアノを振り回すなんて、この世であたし以外の誰にできるのか、ってなもんだ。
ここから先、安姫は世界を相手にして戦うことになる。ショパン・コンクールに集うのは、間違いなく世界のトップピアニストたち。そう簡単に勝てる相手じゃないだろう、いや、勝ち負け、というのも違うのかもしれないけど。
あたしは、ピアニストとしての勝負からは降りた。けど、音楽家としてまで降りたつもりはない。むしろ安姫とは、ここからますますぶつかってかなきゃって思ってる。なら、いまがいくらあたしに不利な状況でも構うもんか。
安姫のピアノはもちろん譜面に従ってるけど、あたしのほうはわりと気ままに飛ぶ。あたしが定石を外せば安姫は「そうきたか」とばかりに笑う。けど、すぐにあたしがどこに向かいたいかを悟り、ピアノの表情を合わせてくる。まったくお心強い限りだ。
このピアノで、ポーランドの人々はクラコヴィアクと呼ばれる踊りを踊れるのだそうだ。それがどんなものかは想像するしかないんだけど、きっとものすごく高揚するんだろう。あと、とても疲れそう。
コーダに向けて、ピアノのテンションはさらに上がっていく。もちろん、あたしも一緒だ。二人で曲を作り上げた喜びと、間もなく終わってしまう寂しさと。
喉がかれ、心臓の音は耳にまで届いてきそうだ。けど、あたしは止まらない。ここまで来て、駆け抜けないなんてうそだ。
ショパンはどれだけ意地悪なのか、ラスト付近に技術的にも最難関に近い所を設けている。もちろんピアニストにしてみれば腕の見せ所、安姫も、そんなのコンテストでやれば当然マナー違反だが、椅子から立ち上がって弾く。とんだじゃじゃ馬姫もいたもんだ。
そして、最後の一音がたたかれた。
精も、魂も使い果たした。歌い切る、それだけを目指したあたしを支える糸はぷつりと切れ、崩れ落ちそうになる。
あぁ、違う。じゃじゃ馬とか、悪いことを言った。あたしがぶっ倒れるだろうこと、安姫は見越してたんだ。あたしを抱きとめ、さらにはそのまま、抱きしめてくる。
「枡美――すごいよ! ありがとう!」
「ど、」
こっちは、言葉にはならない。まるで呼吸が整わない。その代わり、安姫の上気した匂いを、思いっきり堪能してやる。変態と言うなら言え。
ぽん、ぽんと背中をたたかれる。同じ回数、同じテンポで返す。そのままどっかりと安姫によりかかり、その柔らかさを心ゆくまで味わうのだ。
まったくもう、安姫が苦笑したのがわかった。お互いの体勢はそのまま、さっきまであたしが腰掛けてたベンチにまで運ばれ、ゆっくりと降ろされる。
改めて水筒が差し出された。受け取り、喉を潤す。のしかかる疲労はそんな簡単には抜けないが、それでも、呼吸は整ってきた。
「はぁ……しんど」
「そりゃま、あれだけ飛ばせばね」
「止めてよ、わかってたなら」
「冗談! あんな高揚感、捨てられるもんですか」
「……あっそ」
ありがとう。
先に言われてしまった。
こっちこそだ。やり直しのきかない、一発勝負。今までにないくらいのピアノだった。その音と、一時間弱を駆け抜けたのだ。あたしの中にも、確かな、けど言葉ではうまく言えないような、何かが芽生えたのを感じる。
それを大切に育て、また安姫へと返す。それがきっと、あたしのなすべきこと。
しばらくあたしを見つめ、やがて安姫が再びピアノの前に戻る。
椅子に付き、ピアノと向き合い。大きな、大きな呼吸のあと、改めて奏で始められたのは――
プレリュード第20番 ハ短調。
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