第四話 Piano Concerto No. 1, CPT.1

ショパンのピアノ協奏曲第一をあえて物語に捉え直せば、主人公が自らの改革を願って新天地に出ようと決意し、旅先で己の内面と向き合い、大いなる気付きと、喜びを得るに至る……となるだろうか。


第一楽章のオープニングは勇壮とも、悲痛とも取れるフレーズだ。第一主題、メインテーマとも言われてる。その後にきらびやかな情景を交え、やがて希望と展望を感じさせる第二主題が現れる。この二つをオーケストラがひととおり提示したのち、ピアノが改めて第一主題を奏でる。


あたしから何を言うまでもなく、ピアノが入るまでの導入部は安姫が弾いてくれた。


オーケストラの多彩な音の絡みを、ピアノは最大同時発音十の内に収めなければならない。だのに、歌えともなれば、さらにそれを、たったひとつのラインにまとめ上げる必要がある。


確かに、独唱って形式もこの世には存在する。けどこの曲の景色は、始めから多くの音ありきで描かれてる。ピアノと一緒ならさておき、歌一本で導入を奏でるのには、いくらなんでもムチャがありすぎるのだ。


と、目が合う。


ピアノが入ってくるところ、第一主題を、あたしに歌わせるつもりらしい。


望むところだ。


あたしたちがたどってきた道のりゆえでもあるんだろう。第一主題が示す重さは、あたしたちが勝手に背負い込んだ孤独、その苦しみに合致する。


歌詞なんかは、当然ない。全編スキャットだ。


たった一人で歩まねばならないこと、過去からの決別、強くあらねばならない、という覚悟、あるいは呪い。


あたしが安姫を切ったこと、安姫があたしを失ったこと。フレーズを通して、お互いの気持ちが混じり合ってくるかのような気さえする。


第一主題はメインフレーズが二回繰り返される。一回目をあたしが歌い上げたところで、安姫のピアノが合流する。


ここからピアノは、流麗で、しかしはかなげなフレーズを奏であげる。あたしはそこに、寄り添う形で、控えめな歌を重ねる。


新たな決意を告げるかのような力強いフレーズをはさみ、曲は美しきポーランドの景色を歌い始める。


穏やかな展開が、やがて激しさを増す。美しい景色と、うねる内心との葛藤。あたしと安姫のボルテージが高まりゆく。


やがていちどピアノが退場し、あたし一人で歌う所に差し掛かる。ただ、安姫はそこに和音をかぶせてくれる。


この音が、また雄弁で困る。「それが枡美の歌いたいこと?」「もっと奥から掘り起こせるんじゃない?」みたいに、あたしをはやし立ててくるのだ。


こちとら声楽科じゃないんだ、こんな始めっからいきなり飛ばしたら死ぬっつーの。目で訴える。が、声なき返答は「しらんがな」だ。


そこまで挑発されて、あたしだって引っ込んでなんかいられない。やってやろうじゃん、渾身のアルトボイスを、安姫の和音に絡める。


「そうそう、それそれ」


一言の後、ピアノが復帰するパートに差し掛かる。紡ぎ出された安姫の音は、悔しかったが、こう表現するしかなかった――美の極致。本来なら、あたしが独占していいもんなんかじゃない。心の底から、そう思う。


ピアノは華やかさ、きらびやかさを提示しつつも、徐々にその中に重さをまとい始める。ピアノと歌とで混じり合い、テンションが高められていく。


そして再び現れる第一主題を、二人で歌う。


曲の終盤で第一主題が現れてから、楽章の終わりまでは終始シリアスな雰囲気が続く。


愛する故郷に思いをはせ、しかし、それでもなお前に進もうとする決意を新たとするかのように。そこに、安姫の強い思いを感じ取れたような気がした。


先に進みたい。さらに、高みに。


それでこそ、安姫だ。なら送り出すあたしだって、負けないくらいの強さを込めてやる。第一楽章は約二十分、普通に考えれば五キロ弱を走るのにも匹敵する時間だ。すでにだいぶバテバテにもなっていたが、まさか安姫のテンションを、あたしが下げるわけにも行かない。ぐっと息を吸い、声を出す。


そして第一楽章、最後のいち音を、安姫がたたく。


しばしの余韻に浸り、それから、あたしは膝から崩れ落ちた。


安姫が吹き出す。


「っちょ、枡美、飛ばし過ぎじゃない? こっちは楽しかったからいいけどさ」

「んな、っんた、わかるわけ、ないっしょ、ペース、なんか」

「ま、そうだろうけどさ」


くすくすと笑いながら、指で転がすのはワルツ第6番変ニ長調、いわゆる、子犬のワルツだ。ただでさえ飛んではねての可愛らしい子犬が、安姫の手にかかるとまたたく間に広永家の愛犬ミケランジェロ(黒の豆柴)に変わってしまうのだから恐ろしい……別に恐ろしくはないか。しかし純日本犬にミケランジェロってまじでどーなの。


ピアノのそばにおいてあるカバンはさながら魔法のポケットで、ひょっこり水筒に入ったお茶があらわれる。まったく、用意のいいことだ。


受け取ると、一気に三分の一くらいを飲み、呼吸を整える。疲れはしてる、けど、このノリと勢いを切ってしまうのももったいない。ちらりと目線を向ければ、安姫も心得たものだ。第一楽章とはうってかわった、穏やかで優しいメロディを奏で始める。


第二楽章のテーマはロマンス、速さはラルゲット。一説によれば別れた恋人との美しき思い出を曲に託した、とのことだが……


いやぶっちゃけ、セックスしてるよね? これ。

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