第六話 Prelude #20 In C-Minor
それはショパン24の前奏曲と呼ばれるシリーズの一つで、人々はその曲に葬送の列を想起する。最も沈痛であり、一方ではあらゆるショパンの曲たちの中でも低難度の一曲とされる。
が、難易度が低ければ、そのぶん表現力が求められる。当たり前のことだ。
もちろん、安姫が紡ぎあげるのは壮絶なまでの悲しさ。あるいは寒さであり、孤独、とすら言っていい。
気付かずにはおれない。それは――在りし日の、安姫の孤独。
曲そのものは、きわめて短い。ゆっくりと弾いても二分に届くかどうか、でしかない。だから、あたしがそれに気付いたときにはもう、曲は終わっていた。
立ち上がろうとするあたしを、安姫は片手で制する。それから、再び同じ曲を弾き始めた。今度は、歌を伴って。
凍えるような風
厚き雲は空を覆い
月ははかなく 寂しく照る
哀しき遠吠えの響く夜
その目に留まる景色は
終焉を迎えた後のもの
なおも行かねばならぬ
拭いがたき罪とともに
些細なる宝に目がくらみ
終焉の痛みを身に刻めど
なおも行かねばならぬ
拭いがたき罪とともに
はるか水平の彼方より
届けられたるは一握の砂
この先に希望はあろうか
救いを求むは許されようか
本来の歌詞は全編英語で、これは後日安姫なりに意訳したものを聞いた感じだ。
「これ、歌なんてあったっけ?」
「いろいろ動画探してたらね。アングラ、ってバンドがカヴァーしてたの。カヴァーだし、ぎりぎりショパンつながりってことで」
いたずらっぽく笑う安姫だったが、その笑顔も、間もなく曇る。
「ねえ、枡美。私、ずっと考えてたんだ」
「あたしのこと?」
「うん」
素直か。
とはいえ顔つきを見るに、おいそれと茶々を入れてもいいものでもないらしい。なんとか上体を起こし、身体そのものを安姫に向け、もう一口だけ水を飲んでから、目だけで、先を促す。
ごくり、つばを飲んだのがわかった。
「どうして、ピアノをやめたんだろう。なんで、私をおいてったんだろう。悲しかったし、悔しかった。恨んだりもした」
「うん」
「けど、それよりも大きかったのは、自分が何をしたかわからないことだった。わからないまま、どこかで枡美を傷つけて、それに気付かないまま、無神経にじゃれて、甘えてた自分が怖くなって、ぞっとしたの」
鍵盤を丁寧に拭き上げ、フタを閉める。
「さっきの歌ね、どうしてかわからないけど、やけに響いてきてさ。それでバンドのこと調べたんだけど――響くはずだよね。あの歌も、やっぱり別れがその背景にあったんだ。デビューからずっと一緒に連れ添ってきた仲間と道を違えて、一度は解散まで考えて。けど、アングラは復活したの。新しい仲間たちとともに」
「そうなんだ」
余計なコメントは挟まない。いま、安姫は心のフタを開けようとしてる。それがどれだけ重いものなのかはわからない。けど、受け止めるべきだ。それだけはわかる。
ぽろり、安姫の瞳から、涙が落ちる。
「あ、やだな、まだなんにも言えてないのに」
「いいよ」
「――うん」
少しの間、流れるがままにしてやる。
二度、三度と鼻をすする。
「私が何をすべきか。よりはっきりと、より美しく、内なる音を響かせること。そこに迷いはなかったよ。けど、足取りが重かった。たどり着きたいところに、どれだけ進めてるんだろう。無性に怖くなってね、気付けば歌ってたんだ。何度歌ったかわからない。歌えば歌うほど枡美の顔が浮かんできて、けど、だんだんわかんなくなってっちゃった。枡美って、どんな顔で笑うんだっけ、って」
体の調子を確かめる。
うん、もう少しで動ける。
ひどいもんだ、さっきまで極上の踊りを見せてた子が、なんて小さく、なんてみじめな顔になってるんだ。
「枡美に会いたくて、枡美の声が聞きたくてさ。けど私は、枡美を追い詰めた張本人なんだ。だから、会えない。甘えられない。なら、弾くしかなかった。おかげで私の指は、思い描くタッチを、その理想を、形にできるようにはなったよ。でも、違ったんだ。そこには彩りがなくて、温もりもなくて、凍てついた音しか、自分の中から出せなくなってて、……ッ」
募り、積もった想いってやつは、どうしてこう、喉をふさいでくるんだろう。
あたしはなんとか立ち上がり、安姫の隣にまで歩み寄った。親を見失い、顔という顔をぐしゅぐしゅにした子犬が見上げてくる。あんまりにもあんまりだ。噴き出しそうになったが、ここは我慢、我慢だ。
その代わり、
「安姫」
「ん?」
思いっきり、デコピンを決めてやる。
「った! ちょっと、ひどい!」
「なーにが! ひどいはこっちのセリフよ! 一人で悟っちゃった面して、ぜんぶ自分が悪いって? 冗談!」
「! っな、いくら安姫でも――」
「違うでしょ! 謝んなきゃいけないのはあたし! なんであんたまで抱え込まなきゃいけなかったのよ!」
よし、ようやく言えた。
けど、ダメだ。こんなこと言い出して、まともに安姫の顔も見れる気がしない。あたしはこれ幸いと、最敬礼もびっくりな勢いで頭を下げる。
「――ごめんね、安姫はなんにも悪くなかったのに。あたしが本音に気づけてなかったせいで、苦しい思いさせちゃったよね」
顔を上げなくてもわかる。話の展開について来れず、安姫がアワアワしてる。
「え、えっと、あの――枡美、本音って?」
「あたしが安姫と、安姫のピアノが大好きだ、ってこと」
ここまで言っちゃったんだ。死なばもろとも、なるようになれ、だ。あたしが顔を上げれば、目の前には茹でだこが一匹。ざまあみろだ――って、多分あたしも負けないくらいの顔になってるだろうけど。
「あんたときたら、すぐ暴走して、譜面にない音加えちゃったりしてさ。それで何度先生に怒られたことか。自由すぎんのよ」
「え、だって、そのほうが楽しくて……」
「それでなんて言われたっけ? それやりたいならコンクールじゃなくて?」
「……コンサート」
「だよね?」
いまさら、実にいまさらなのだ。
それであたしが、譜面にある音じゃなく、安姫の出した音の方に引っ張られすぎちゃったのも。そんな自分が怖くなって、努めて譜面の再現にばかり意識を注いだのも。
「ったく。あんたったら、ひとの気も知らないで、すぐコンサート始めちゃってさ。あたしがそれ聞いて、どう感じてたと思う? 苛立ってたのよ、気づけなかったせいで」
「気づけない、って?」
「――何度も言わせないでよ」
思わず、そっぽを向いてしまう。
正面では、泣いた子犬がもう笑った。
あーーー、もう!
「いい、安姫? あたし以上に、あんたの音をより咲かせられるやつなんていない。そのために学んできたし、これからも学ぶ。もう迷わない。けど、気付くまでにかかった時間で、どれだけあんたを苦しめたんだか」
それを口にしただけで、悔し涙がこぼれそうになる。安姫の大事な時間を、あたしは一体どれだけ損ねてしまったんだろう。
なら。
ここから、全力で支える。
支えられるように、なる。
と、安姫が立ち上がった。
「もう、ずるいよ。枡美ばっかり」
言って、あたしを抱きしめてきた。
「おっひょ!?」
「なにそれ」
くすくす、と、吐息が耳をくすぐる。
「ずっとね、思ってたんだ。枡美に甘えっぱなしだったんだな、って。そのバチがあたったんだって。ステージの上じゃ、いつでも私は一人。いつまでも頼ってちゃいけないはずなのに」
「そんなこと……」
あるけど、と言いかけて、黙り込む。それが心地よかっただなんて、口が裂けても言えない。
「だからね、頑張ったよ。強くなったし、うまくもなった。きっと、私にも必要な時間だったんだ」
「――そっか」
抱きしめ返し、もう片方の手で、頑張ったね、と頭をなでてやる。へへー、となんだか自慢げなのには軽くイラっときたが。
「じゃ、こっから先はビシバシ行っても良さそうだね?」
「ぇぐっ!?」
露骨に安姫の体がこわばった。強くはどーした。
腕を少し緩め、真正面から顔をのぞき込む。化粧もクソもない感じの顔が引きつってる。あたしはニヤリと笑うと、コツン、と安姫と額を合わせた。
「大丈夫。あんたは最強だよ」
テラスに差し込む初夏の日差しは、あたしたちをまばゆく包み込む。
あたしたちは、何だってできる。
何だってできるんだ。
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