愚者の契約 -Outer Eden-

幕切れは突然だった。

白き獣の腕がが蒼き獣の胸を貫き、ただ静かにその命を終わらせた。

死線で捉えるのではなく、確実にその命を殺す手法をもって。

そうして戦いは終わり、その代償として、彼女は再び獣へ堕ちた。


清々しい程の解放感。自らを縛るものなど何も存在しない。

ただ望むがままに力を振るい、自由に生きることができるのだと理解る。

けれど、だからこそ自分は空っぽだった。

何でもできるという事は、苦悩も幸福も何も存在しないという事。

何も感動せず、ただ空虚な心と、膨大な力だけを与えられて。

それはとてもつまらない世界だった。


そう。だから。

足元で今にも彼が息絶えそうなことも、些細な事。

だって彼が死んでも、私が生き返らせばいいだけなのだから。それだけの事が今ならできる。再び獣へ至った今ならば。

死んでしまう事も、なんなら今この場でとどめを刺すことすら何とも思わなかった。すぐさま生き返らす事すら可能なのだから。


この全能感の前には、何もかもが瑣末事だった。


そして彼女は彼に手を伸ばす。

人生がつまらないものとなった彼女の暇つぶしとして、彼の思考でも覗いてやろうかと。

何でも叶えられるその力の実験に、彼の希望でも気まぐれに叶えてみせようかと、その頬に触れる。






「それが……そんなものが、君の望み?」


歪んだ笑みを浮かべ、けれどその声は、どこか人であった頃を思い出したように嘲笑って、


「君は本当に……愚かだな。もっと他に、願う事なんていくらでもあるだろうに」


その頭をそっと撫でた。獣が人であろうと振る舞うかのように。



「いいよ……叶えてあげる。私にはもう、何もないから。ううん、何も持てないから」


空虚な獣は、彼のように望みを持つ事すらしない。いいやできない。

彼女を人として留めていた望みはもう、どこか遠くへ忘れ去られてしまった。

それを悲しい事とすら感じない。ただ彼女は目を伏せる。


「これが君への……最期の贈り物」




彼女が結んだ、彼への想い。それはかつて絆と呼ばれたもの。彼女をこの世界に繋ぎ止めるための力。誰と結んだものよりもかけがえのない、大切なもの。獣へ堕ちてもなお、最期まで握り続けた鎖。

けれどそれは、堕ちた彼女の歪んだ心によって解き放たれた。


それは人ではなく、獣の振る舞い。

人ではなし得ない、奇跡とも呼べる呪いの力。

誰かの願いをどんなものであろうとも叶える代わりに、自らの望みは叶わない力。

彼女が彼を想い、幸せを願った絆は、獣によって呪いへとかわる。

―――ここに、愚者の契約は完了した。


その行いは看過できない。

そう、過去の自分の声がしたような気がして―――彼女のレネゲイドは静止を余儀なくされた。


それは、彼女が用意していた保険。

もう人へと戻れなくなった時に、一度だけその獣を眠らせるもの。

それ一つで擬似的なキャンドルとブレスとして、対象のレネゲイドを静止する力をもつそれは、対象の侵蝕率とその振る舞いに反応し、即座に対象を静止させる。

彼女が用意した保険は、人では成し得ないその力に反応し、彼女を止めた。


けれどやはり、それができるのはそこまでだった。

獣はやはり、獣自身では終わる事が許されない。

これは、一時的にその振る舞いを止めるだけの力しか持たない。

最期は人の手で終わらせてもらう必要があった。


これはただの、一つの誓い。小さな約束。

その時が来たら、終わらせてもらうための。

彼が為すべきことをするための時間を作る小さき力。



ぱしゃり、 と。

意識を失った白き獣は、血溜まりの中へ静かに崩れ落ちる。

その白を、赫が染めあげていく。

一度血に塗れた白薔薇が、もう白には戻れないように、ただ静かに赫を吸い上げて沈んでいく。



『いつか夢見たその先で、ともに笑顔でいられたら』



彼が願った儚き希望は、歪んだ形で叶えられる。

その夢はきっと叶う。彼はここで死ぬ事も堕ちることも許されず、人へと戻る。そして、いつか夢みた『外側の楽園』へ辿り着く事ができるだろう。

けれど彼女の望みは叶わない。

いつか夢見たその先まで、彼の隣に在り続けたいと願ってしまったから。

契約の対価は―――彼女の未来。

これから綴られる筈だった、彼とともに歩む物語。


だけど私は、いつか夢見たその先で、きっと待ってる。

君が夢見て生き続けた先で、もう一度また出会えると信じて。



そうして獣は眠りについた。

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