せかいいちの不幸者

十巴

せかいいちの不幸者

 最悪だ。ここはどこだ?ほかに乗っていた人は?

 今より前の記憶。突然の嵐、ごごうと吹き荒れる雨と風、ぐらぐら揺れる船。下の階から浸水して足元まで水が迫って、甲板には人が溢れて、ボートに乗り込んで……ダメだ。そのあとは思い出せない。

 とにかく立ち上がり辺りを見回してみる。七十メートルほど横に広がった白い砂浜があり、それを取り囲むように木々が生い茂っている。日差しは強く、蒸し暑い。最悪だ。こんな不幸なことがあってたまるか。俺は仕事のため船に乗っていただけなのに。一週間で戻ると彼女には言った。助けはいつくる。そもそも助けは来るのだろうか。どうしよう。どうすればいいのだろう。二千二十四年七月一日、俺は遭難した。

 とりあえず歩き出した。動くことでどうにか暗い想像に沈み込むことから逃げることができた。砂浜を端から端まで歩いてみる。特にこれといったものはなかった。無理やり元気になってみる。おお!貝じゃないか!うわぁ!変わった形の木だ!彼女が見たらなんて言うだろう!そうやって自分をだませたのも少しの間だけだった。どうしたって気分は沈んだ。一人だった。目に映るものは何も自分を助けてくれなかった。砂浜の端まで着いたとき、死のうと決めた。


 死のうとは思ったが、どうやって死ねばいいのか皆目見当がつかぬ。少し暗くなりだした。とりあえず飛び降りることができる場所を探すことに決めた。なぜだか身投げが一番適当に思えた。不幸なことに飛び降りられそうな場所は見つからなかった。森の中に入ってみた。ここで俺は驚くべきものを見つけた。

「家……なのか?」

それを家と呼んでいいのかわからなかったが、しかし原型をとどめていないとは言ってもそれは屋根と壁以外に形容しようがなかった。何年放置されているのかはわからないが、ここに人が住んでいた。それだけで自死以外見えていなかった俺の視界は明るく開けていった。生きることができる、生きて彼女にもう一度会うことができる。今自分よりも幸福な男はいないと確信している。さらに幸福なことに家から少し離れたところにりんごの木が生えていた。食料は少しの間であるが確保したと言えるだろう。

 その日の夜、いくつもの流れ星を見た。無人島だから星が良く見えるのだろうと思った。これまでの人生の中で一番美しい眺めだった。海の向こう側がやけに明るい気がして、絶対に戻ってやるんだと心に誓った。


 二日が経った。砂浜の木の陰で一日中海を眺めている。陰鬱とした気分に気を遣うこともなく太陽は明るく照り付け、元気いっぱいに海がその光を反射してくる。目が痛い。そのまま夜になった。太陽の光が脳の中で反射しているような気がしていつまでも眠れなかった。


 遭難五日目。神様は俺を見捨ててなどいないらしい。今日は朝から普段とは反対側に森を進んでみた。森を抜けると飛び降りられそうな崖があり、下を見てみるとそこには俺が乗ったであろう救命ボートがあった。森の中を何度も迂回し下についたが、ボートはもぬけの殻。しかし収穫がなかったわけではない。戦利品がこれだ。もはや俺の家となった壁たちの前でそのプラスチックの箱を開けてお披露目する。一人ならそれなりの日数もちそうな食料と水。これでまだまだ生きることができそうだ。川の水をすする生活も終わる。


 何日が経っただろう。百を超えたあたりでもう数えるのはやめた。

 いつまでこんな生活を続ければいい?助けはいつくるんだ?俺はここにいる。俺はここでしっかりと生きている。彼女に会いたい。もはや彼女だけが俺の心の支えとなっていた。故郷に帰ることができたら、彼女に会えたら、第一声に結婚してくださいと言ってやる。彼女はただいまが先だと笑うかもしれない。あぁ、でも地獄のような生活で俺の心を救ってくれたのは君なんだと伝えたい。不幸だ。最悪だ。俺は世界一不幸な男だ。この世界に俺以上に不幸なものなどいるはずもない。なんどでも言ってやる。俺は世界一の不幸者だ。


 

 日が過ぎた。太陽が昇り、沈んだ。ただ生きていた。毎晩彼女のことを思った。俺は彼女に似せた木彫りの像を作り、毎日拝んだ。俺のいない彼女の生活のことを想像した。ただ彼女が心の支えだった。彼女は元気に生きているだろう。ただ彼女が生きていることが、俺に生きる力をくれている。


 普段通り彼女を横に置きながら海を眺めていると大きな音が連続的に聞こえてきた。あまりに久しぶりすぎてしばらく何が起こっているのかわからなかったが、それはヘリコプターの音だ、と俺の古い記憶が告げた。

 どこから?助けか?とにかく俺に気づかせなくては。ここを逃せばチャンスは二度と来ないかもしれない。そんな思慮は結局のところ無意味だった。ヘリコプターはまっすぐと砂浜に降りてきた。

 まだプロペラの回転が止まり切らないうちに何人かの人が降りてきた。彼らは宇宙服のような珍妙な格好をしていたが、ヘルメットを取りこちらへ走ってくる彼らを見るとそんなことはどうでもよくなった。

 人間!人間がいる!数百年ぶりに人間と会ったような気がしてならない。お互いに駆け寄って、俺は満面の笑みで彼らを迎えた。

「あぁすみません。こんなひげ面の原住民みたいなやつがいたら驚きますよね。でも、俺は生き延びたんだ。やっと彼女のところへ帰ることができるんだ。嬉しい!これがどんなに嬉しいことか!あなたたちに共有してあげたいぐらいだ」

 彼らはいぶかしげな顔でこちらを見ていた。俺から距離を取りひそひそと何やら話していたが、一人の男が一歩進み出てこう言った。

「あなたは、ここにずっと逃げ隠れていたんですか?ずっと……一人で?」

「逃げ隠れて?俺は囚われていたんですよ!ずっと。でも一人ってことはその通りです。あぁ、こいつのことですか?今思うとこいつは憎たらしい顔に違いありませんね!こんなやつを彼女だと思っていたなんて……我ながら愚かなことです!」

俺はそういうと像を砂浜にたたきつけ、何度も足で踏みつけた。像は砂の中に沈み、気持ちの悪い顔が見えなくなった。しかし彼らの疑うような表情は変わらない。未開の地の民族とでも思われているのだろうか?だとしたら心外だ。ひそひそと話し続ける後ろのやつらにも聞こえるように俺は大きな声で言ってやった。

「二千二十四年の七月一日、俺は遭難してここにやってきたんですよ!何度も頭の中で繰り返したから間違いない。二千二十四年の、七月一日です。それからずーッと、ずーッとここでどうにか生きてきたんですよ。本当です。こんな不幸で哀れな男の話を信じてください!」

しばし沈黙が流れた。どうしよう。もしここで連れて帰ってもらえなかったら最初に逆戻りだ。頼む。信じてくれ。

「七月一日?信じられない!だとしたらあなたは最高の星のもとに生まれついた方なんですね!僕たちも奇跡のようなわずかな望みをかけてこの島に来ましたが、まさかこんな出会いがあるとは!」

「最高?奇跡?どういうことです?俺はこの島で大好きな人にも会えずずっと一人だったんですよ。それを最高だなんて……無礼にもほどがありますよ!」

俺の心中は煮えくり返って今にもこいつらを殴り飛ばしてやりたいぐらいだった。

「いやぁそんな怒らないでください。僕たちも説明不足でした。なかなかどうして神様は気まぐれなことだ!衝撃的なことですからね。落ち着いて聞いてくださいよ。いいですか。あぁ怒らないで怒らないで。大丈夫ですから。えーっとですね。実は三年前の七月二日、七月二日ですよ?世界を巻き込む激しい戦争が起こったんです。いくつもの国があらんばかりの兵器をすべて打ち放し、自然の大部分が汚染されました。嘆かわしいことです。でも、主要な大国から遠く離れたこの島はその汚染から免れていたんですよ。あなたはこの島にいたおかげで戦争の惨禍から逃げ延びることができたというわけです」

「えッ、すると、私の故郷は、あの町は、彼女はどうなったんですか?」

「えぇ、残念ながら我らの故郷は全土にミサイルが雨のように降り注ぎ、大国のバイオ兵器が導入された後毒ガスが散布され、すべての生物が死滅しました。でもあなたは生きている!命あっての物種です。あの戦争から幸運なことに逃げ延び、平和に三年間を過ごしたんですよ!なんて幸運なんでしょう。あなたは世界一の幸せ者です!」




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