エピローグ その四 龍郎1



 一つの宇宙が終わった。

 アザトースの夢がはじけとび、霧散したとき。


 でも、気づけば、龍郎は電車に乗っていた。ゴトゴトとゆれる各駅停車。ほんの二両編成の小さな列車。


 窓の外は怖いくらいの夕焼けだ。空が真っ赤に燃えている。雲の陰影がやけに黒く影絵のようだ。世界中がどこか異次元のなかへ沈みこんでしまったよう。


 なぜだろう?

 この夕日は心が痛い。胸の奥がキュッとちぢんで、目頭が熱くなってくる。妙に切ない。


 いつだったか、こんな夢を見た。

 その夢では、電車のなかで誰かに出会って……それで、どうなるんだったっけ?


 ガタゴトと電車は進む。外の景色から見て、どうやら兄の自宅の最寄駅へ向かっているようだ。この方角にはそこ以外、行くことがまずない。


 スマホで確認すると、履歴には兄との通話記録が残されている。


(おれ、もしかして兄さんの家に向かってる?)


 というより、兄は死んだはずではなかっただろうか?

 兄の自宅は両親がそのまま売りに出した。兄の殺された忌まわしい場所なのだから。


 それに、カレンダーがおかしい。たしか、龍郎が天使になって天界へ旅立つとき、十一月は残り数日で終わりかけていた。でも、スマホが記しているのは初旬だ。気になって、カレンダーを確認する。信じられないことに、西暦が一年前に戻っている。なんだろう。スマホの故障だろうか?


 不審に思い、あたりをさぐり異変がないか探した。乗客の顔を一人ずつ確認する。なんだか、みんな見覚えがある。お腹の大きな妊婦。おしゃべりな女子高生の集団。対戦ゲームをしている中学生男子。居眠りする老人。小さな女の子をつれた母親。買い物袋をさげた女。サラリーマン風の男。


だ!)


 これは、あの日。

 電車の車内で、スーツケースをさげた男が乗客を次々に食っていった日。そう。つまり、青蘭と出会った日——


(思いだした。アザトースとおれが一つになって、夢の世界は終わった。だけど……そうか。これは新しい夢の世界。以前と同じ夢をアザトースが見たから……)


 龍郎の胸はドキドキと高鳴る。青蘭がいる。きっと、この車内に青蘭が……。


 だが、あのとき、青蘭がすわっていたはずのななめ前は空席だ。誰もいない。車両のすみずみまで、なめるように観察する。それでも、青蘭の麗しい姿はない。


(もしや、夢が違う形になったから、青蘭の外見も変わったのか?)


 どんな姿で現れるかわからないと、アザトースは言った。一匹の虫かもしれないし、動物かもしれないと。

 それでもいい。それが青蘭なら、たとえどんな姿でも。


 だが、けんめいに探しても、それらしい者はいない。となりの車両に移ってみてもだ。

 いや、それどころか、次の駅についても、あのスーツケースをさげた男が乗りこんでこなかった。この世界では、きっとあの子どもはネグレクトされず、悪魔化することがなかったのだろう。どこかで今も一人の人間として生きている。


(青蘭はあのとき、スーツケースの悪魔の匂いをたどって、この電車に乗った。あの悪魔がいなくなったから、ここにはいないってことか?)


 でも、そうだ。

 あのあと、兄の自宅へ行くと、青蘭が家の前にいた。まだチャンスがないわけじゃない。


 龍郎は不安を抑えながら、電車を降りた。


(大丈夫。まだ大丈夫。必ず、青蘭は来ている)


 駅の構内を出ると、龍郎は居酒屋へむかった。たしか、そこで以前のとき、兄と待ち合わせをしたからだ。引き戸をあけてなかをのぞくと、すでに兄は来ていた。


 死んだはずの兄がそこにいる。一年ぶりに会った。

 龍郎はこみあげてくるものを感じた。なるたけ自然にふるまう努力をする。


(そうだ。もしかしたら、このあと兄さんは繭子まゆこさんのことで相談してくるつもりかもしれない。なんとか兄さんが殺されないよう回避しないと)


 そう考えたのだが、テーブル席から手招きする兄の向かいに座ると、難しい顔をして言いだしたのは、龍郎の就職についてだった。


「ひさしぶり。元気か?」

「うん。兄さんこそ」

「おれはなんの問題もないよ。新婚なんだぞ。あたりまえだろ?」

「ああ。そうだね」

「そんなことより、おまえ、内定はもらったか?」

「いや、まだ」


 どうしたことか、この世界での兄は兄嫁のことをまったく疑っていないらしい。繭子がうまくやっているのか、それとも、この世界ではクトゥルフが忌魔島いんまじまを支配していないのか。もしそうなら、繭子はただの人間の女なのだろう。


 会社を紹介してやろうとかなんとか言いながら、兄が注文する唐揚げや春巻き、ぶり大根などをパクつきつつ、龍郎の頭のなかはそれどころではなかった。兄嫁がふつうの人間の女だとすると、そこにも青蘭は来ないかもしれない……。


 胸の鼓動が不安で速くなる。

 もし、兄の自宅にも青蘭が来なければ、どこへ行ったら会えるのか? あるいは、以前のときとはまったく別の場所を旅しているのかもしれない。


「……兄さん。今夜、泊めてもらってもいいかな?」

「えっ? 急だな。また」

「酔ったみたいだ。もう眠くて」

「ふうん。まあ、かまわないけど」


 ムリを言って泊めてもらうことになった。


(きっと、いる。青蘭は……)


 居酒屋を出ると、徒歩で兄の自宅まで向かった。田んぼにかこまれた一軒家。その自宅の前に人影があることを願って近づいていく。


 だが——


 無人。門の前には、誰もいない。

 青蘭はいったい、どこにいるのだろう?

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