第8話 アザトースの涙 その二



「ナイアルラトホテップ」


 ゆるくウェーブする黒髪を長く伸ばした、青ざめた肌の男。


 そうだった。ナイアルラトホテップはアザトースの右腕だ。アザトースの息子であるとか、あるじの知性そのものだとすら言われることもある。

 つまり、ここはナイアルラトホテップの居城でもあるのだ。彼がいることにはなんの不思議もない。


「青蘭がいるはずだ。青蘭に会いに来た」

「青蘭。彼は本当にそんな存在なのかな? シュブ=ニグラスの誘惑をしりぞけた君だからこそ、その存在の価値が外見で変化するとは思わないが、それにしたって、これは賭けだ。宇宙の存続をかけた壮大なギャンブルであり、実験だ」


 いつになく、ナイアルラトホテップはまじめな顔つきをしている。これまでその目的がまるで読めない神だった。が、もしや、この言いまわしは……。


「おまえもノーデンスの計画に一役買っているんだな?」


 ナイアルラトホテップは口唇をつりあげ、チラリとサメのようなギザギザの牙を見せる。


「ノーデンスは基本的には敵だ。だが、この件に関しては悪くないと思う。だから、成就するように見守ってきた。そして君はたった今、その最後の一手を打つ」


「おれが何をするのかわかっているのか?」

「さあ。それは君しだいだ。しかし、我らの世界は始まりにごく近いあたりで歪んでしまった。そのありかたが変わるかどうか。これは偉業だよ。我々、蕃神ばんしんは力をつくしても、ただ主君をなだめることしかできない。まあ、ジャマはしないから、勝手に行きたまえ」


「いいのか?」

「誰も君を襲わない。それどころではないからね。我らはあるじを喜ばせることに必死だ。では、またいつの日か会えることを望むよ。さらばだ」


 ナイアルラトホテップは踊り狂う邪神たちの群れのなかへ戻っていった。

 彼も踊るのかと興味をひかれたが、ナイアルラトホテップは侮蔑的な目で仲間をながめるばかりだ。ただ、ときおり手をあげて、蕃神たちの指揮をとっている。歌声が響く。


 マルコシアスがそこで止まった。


「龍郎。私はここまでだ」

「ああ。行ってくる」


 ここからは一人だ。

 誰の助けもない。

 でも、それでいい。

 声が聞こえるから。


(いる。このさきに。青蘭が——)


 心臓が共鳴している。

 だが、いつもの青蘭の香りじゃない。あの星のまたたきにも似た神聖な、それでいて深遠な恐怖をはらんだ不可思議な香気を感じる。


(青蘭。今、行く。待っててくれ)


 狂喜乱舞する邪神たちのなかを歩いていった。


 邪神たちは自分にできる最高のダンスを彼らの主神に捧げている。この世が終わるまで、ひたすらに踊り続ける。

 この世の終わり——そう。

 この宇宙がアザトースの見る夢だとしたら、邪神たちの王が目をさましたとき、この夢の世界は消える。


 最初から何も生まれず、何もなかったことになる。

 生も死も、光も闇も。時間の流れも。星も。花も木も。鳥も。空も。海も。水も。風も。獣も。虫も。人も。愛も。憎しみも。文明も。科学も。幾千万のつづられた言葉も。何もかも。すべて。


 そんなのはイヤだ。

 青蘭と愛しあった日々が消える。いや、存在しなかったなんて。

 生きとし生けるものがいつか滅ぶのは理。いたしかたない。だからこそ、その一瞬ごとを精いっぱい生きて、思い出を心に刻む。


 この想いが無になってしまうのは耐えられない。


 数千か、数万か、あるいはもっといたのか。

 多くの邪神たちのなかを通りぬけ、泡立つソーダの海に一人立つ。


「青蘭。来たよ」


 呼びかけると、はるか遠くに人影が見えた。

 もう何度も見た幻影だ。

 その人のもとをめざし、黙々と走る。龍郎の足がふれると、ゼリーの海が弾け、そのたびにエネルギーのかたまりが宇宙の彼方へ旅立った。石物仮想体だ。



 ——それは、アザトースの涙なんだよ。



 耳元でささやき声が聞こえる。

 気がつけば、かたわらにアスモデウスが立っていた。だが、実体ではない。魂? あるいは幻影? 発光したように輪郭がぼんやりしている。


「アスモデウス?」

「わたしが神から命じられたことがなんなのか、知りたい?」


 龍郎は迷った。

 もちろん、知りたい。だが、目の前にいるアスモデウスはとても悲しげな表情をしている。きっと、ほんとは知られたくないのだ。以前だって、恋人であるミカエルにも言わなかったのだから。


「言いたくないんじゃないの?」

「あなたにだけは知られたくない」

「アスモデウス」


 両手をひろげると、アスモデウスは龍郎の胸にとびこんでくる。すがりつき、その胸を涙でぬらす。


 龍郎はアスモデウスのブロンドの髪をゆっくりと慰撫いぶする。こうしていると、あの入江で抱きあった日々が鮮烈に浮かんだ。


 やはり自分はミカエルで、アスモデウスをこんなにも愛していたのだと感じる。


 ただ、存在の形が違うだけだ。天使である自分。人間である自分。なんでもいい。

 魂と魂が惹かれあう。ただ、それだけ。


「アスモデウス。すべて思いだしたの?」

「うん」

「言いたくなければいいんだよ?」

「でも、もうすぐ、あなたは知ってしまう」


 そう言って、アスモデウスは顔をあげた。左右の色の異なる澄んだ瞳で、じっと龍郎を見つめる。


 龍郎は聞いてみた。

「おれは何を知るの?」


 答えは——


「わたしたちが彼らの右目と左目であることを」

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