第八話 アザトースの涙
第8話 アザトースの涙 その一
すべての邪神たちの王、アザトース。その居城だ。空気はゆらぎ、そこはかとない瘴気に満ちている。
しかし、なんだろうか?
龍郎には清洌と言ってもいいような大いなる気配が感じられる。聖と邪がいりまじったような複雑な香気。しいて言うならば、堕ちた神の気だろうか。
どこからか聞こえていた音楽がいっそう高まった。すぐ近くから響く。宮殿じゅうに音楽がこだましている。
ふるえるようなオーボエの音。神経質な金管楽器。野蛮なほどの打楽器の乱打。
(アスモデウスがいつも歌っていた唄だ)
やはり、アスモデウスはかつて、この城に来たのだ。あの唄はここで聞き、覚えたのだろう。
やがて、巨大な両扉にたどりついた。
この扉のむこうに、何者かが待ちかまえている。
「マルコシアス。ここを出たら、きっと、あともどりはできない。お願いがある。今のうちに聞かせてくれ。アスモデウスの使命について」
マルコシアスは躊躇したが、人の姿に戻り、口をひらいた。
「……私は神からちょくせつには聞いていない。ただ、アスモデウスが邪神の王を調べに行くので、往復を送ってほしいと命じられただけだ」
「やはり、ここへ来たんだな。そのときに何があった?」
「私はこの外で待っていた。私には近づくことができなかったのだ。目には見えない障壁があって。アスモデウスが近づけたのは、パラサイターだからではないかと思う」
「パラサイターが? なぜ?」
「これはウワサだが、パラサイターは神が故意に造っているのだとか。孵化する前の卵に石物仮想体を混入させると、なぜか、必ず双子が生まれてくる。そう言われている」
「石物仮想体……」
穂村が名づけた石物仮想体。
それは邪神が宇宙を旅するときに石に化身している姿であり、また、邪神の卵でないかと思えるふしもある。アザトースが定期的に生みだすエネルギーのかたまりのようなものだ。
「石物仮想体を挿入すると、双子になる……つまり、片方は石物仮想体がもともとの卵のぬしの遺伝子をコピーした存在ということか」
「おそらく」
これは推測だが、石物仮想体はふれたものの遺伝子を複写する性質がある。
放置しておけば、そこから新たな邪神が生まれるが、遺伝子複写の特色を利用して、邪神たちはそれを自身が宇宙を渡るときの器にしている。
また、生物になる前に
宇宙を構成する変幻自在のエネルギー。そうとも言える。
「アスモデウスやおれはパラサイターだ。じゃあ、おれたちは神の意思で造られた双子だったのか」
「フォラスが入れ知恵しているに違いない」
自分がなんらかの策謀を持って造られた存在だと思うことは不快だった。しかし、逆にだからこそ、アスモデウスとこんなにも強く惹きあうのだとも考える。
「おれたちは、なんのために造られたんだろう?」
「そこまでは、私にはわからない」
アスモデウスには使命があると言ったのは、ノーデンス自身だ。そこに穂村が関与しているのなら、必ずや遠大な計画がある。穂村の性格から言って、なんの意味もないことを面白半分にやるとは思えない。彼の知的探究心は旺盛であるとともに、きわめて合理的だ。
(いったい、おれとアスモデウスに何を託した?)
考えてもしかたない。
「とにかく、進もう。青蘭が待ってる」
扉に手をかけ、ひらいた。
きっと玉座のある大広間だろうと思ったのに、そうではなかった。扉の外は中庭だ。いや、それともこれが壮麗な王の間なのだろうか?
大地はまるで沸騰するゼリーだ。宇宙の星々が透けて見えている。
空には大気がないのか、ちょくせつ宇宙が広がっていた。銀河がいくつも手に届きそうな位置に数えられる。星と星の間隔がきわめて密接している。
宇宙の始まりの場所に近いということだ。あるいは、ここが宇宙の始まりそのもの。
ビッグバンの起こった中心点。
「この宇宙のすべては、アザトースが創造した……」
たしか、穂村がそう言っていた。それは事実だったのだ。
この宇宙はアザトースの思考が物質化する。
世界はアザトースの見る夢——
(あの場所だ)
龍郎はこの場所を知っていた。すでに何度も来たことがある。
以前、ナイアルラトホテップの見せた幻のなかで、死人の青蘭と会った場所。
それが、ここだったのだ。
音楽は感極まる。
広い広い宇宙の透ける庭をかこんで、無数の邪神が踊っている。名も知らぬ邪神たち。ものすごい数だ。そのすべてがクトゥルフクラスの魔王である。
これら全部と戦わないといけないのだろうか?
しかし、ようすがおかしい。
邪神たちは龍郎の姿を認めても、まったく攻撃してくるふうがない。それどころか、一心不乱に舞い狂っている。異形の者たちが触手や突起をふるわせ、円舞するさまは、まったく狂気のさただ。人間がひとめでも見れば、完全に正気を破壊される。
「ようやく来たね」
声をかけられ、龍郎はふりかえった。そこに見知った邪神が立っている。
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