第8話 アザトースの涙 その三



 彼らの右目と左目。

 その意味はわからない。わからないが、にわかにゾッと背筋が冷たくなる。

 ほんとはとっくに気づいていたような、そんな気がする。


「誰と誰の目?」

「…………」


 アスモデウスの嗚咽おえつが激しくなる。

 そのまま消えてしまいそうになるので、龍郎はあわてた。


「待ってくれ! おれはどんな君でも受けとめる。君がどんな姿でも、どんな罪を犯していても。君が君であるなら」


 アスモデウスの影は立ちどまった。不安そうな目でふりかえる。


「……ほんとに?」

「おれは君に嘘をつかないよ」


 アスモデウスの影はふみとどまった。

 このアスモデウスは幻だろうか? それとも過去の時間とつながっているのか?

 いや、夢のなかの姿なのかもしれない。あの神の夢見る姿……。


「わたしはあのとき、穢れてしまった。あなたのつがいにふさわしくない」

「そんなことはない」

「あのとき、わたしに何が起こったのかを知れば、あなただって心変わりする」

「おれは恐れない! だから、真実が知りたいんだ」


 アスモデウスのおもてに微笑が浮かんだ。涙をこらえるような笑みだ。


「あのとき、わたしは神から密命を受けた。表向きは邪神の王を調査するためだった。この宇宙はあの神の夢だから」

「アザトースが目覚めれば、すべてが消える」


「そう。だから、それをとどめるために、蕃神たちは歌い、踊り、そして我らの神は夢を夢のままとどめる道を模索した。わたしは邪神の王に覚醒の予兆がないか調べてこいと言われ……」

「でも、じっさいには、君は生贄だったんだ。アザトースに捧げられた」


 アスモデウスの双眸から、ふたたび涙がこぼれる。


「わたしはパラサイターだから、素地がある」

「パラサイターは石物仮想体を使って、ノーデンスが造った天使のコピーなんだろ?」

「石物仮想体は邪神の王の涙なんだ。わたしやあなたは、あの神の涙から生まれた。もともと、あの神の一部と言えなくもない」


 聞くほどに寒気が強くなる。もう答えはわかっている。でも、逃げるわけにはいかない。青蘭を救うには、それしかないのだ。


「ここへ来た君は、アザトースに捕まったんだね? そうだろ?」

「…………」


 アスモデウスは沸騰するソーダの海に泣きくずれる。その姿がどんどん希薄になっていく。もうすぐ消えてしまう。


「ごめんなさい。ミカエル。あなたにアザトースの右目を埋めたのは、わたしなんだ。あのとき、わたしは捕まって、心臓に邪神の王の左目を埋められてしまった。


 うずくまっていたアスモデウスが立ちあがり、まっすぐに龍郎を見つめる。


「そう。わたしは八重咲青蘭であり、アスモデウスであり、同時にアザトースでもある。生きながら死んでいる不浄の王。誰にも救えない。だって、二つの時は引き裂かれてしまったから——」


 アスモデウスの姿が闇に呑まれる。輪郭が変容していく。光り輝く天使の姿は薄れながらつぶやく。


「さみしかったの。だから、もう一度、一つになりたくて、神殿に保管されていたあなたの心臓を盗みだしたとき、右目を埋めこんだ。わたしたちが共鳴するのは、つがいの心臓であるばかりでなく、王の両眼を……」


 アスモデウスの声はかすれて消えた。

 かわりに、そこに立っていたのは——もうわかっていた。長い黒髪の蒼白の肌の、死人の青蘭。

 子どもっぽいさみしげな目をして、龍郎を見ている。


「最初、僕たちは一つだった。でも、僕らのなかから時間が生まれたときに、二つに引き裂かれてしまったんだ。僕たちが二つになったから、時間はまがった時と、とがった時にわかれた」


 邪神たちの王、アザトース。

 しかし、その姿はどう見ても青蘭だ。

 アザトースの涙から生まれたアスモデウスが、左目を心臓に埋められて、王と同質化したせいだろうか。


 アザトースの声はつねに二重にダブり、単一ではなく複数の存在であるかのように錯覚する。彼が話すたびに、そのころの記憶が映像として浮かびあがる。それは龍郎のなかに埋められたという彼の右目の見た記憶なのかもしれない。


 アザトースには生まれたとき、双子の兄弟がいた。右の神、左の神と呼ばれる一方。ウボ=サスラだ。


 彼らは体の一部が腰の部分で癒着ゆちゃくしていた。結合双生児だ。宇宙はまだ混沌としていた。完全に分離されていなかった。


 アザトースが生命の誕生と再生を、ウボ=サスラがその永劫性をあつかった。すべての生命は不老不死だった。双子の兄弟神自身もだ。

 宇宙を創造するあいだ、彼らは幸福な完全体だった。


 だが、時間が生まれたときに、その体は真っ二つに引き裂かれた。アザトースはまがった世界へ、ウボ=サスラはとがった時間のなかへなげだされた。


 そこから宇宙の不幸が始まったのだ。


 まがった時間のなかでは永劫性が失われ、生命は生まれてはすぐに死ぬようになった。とがった時間のなかでは永劫性は保たれたものの、再生力が失われたため、老いと傷が永遠に蓄積され、全身が壊死しても生き続けなければならなくなった。


 アザトースの生む生命は短命となり、儚い命を嘆いた。ウボ=サスラの世界では死なないことを恨んだ。


 二度とまじわらなくなった双子は片割れを求めて泣きぬれた。もう一度、以前の完璧な自分に戻りたがった。


「これは悪夢なんだよ。だから、目をさましたい」


 宇宙の造物主は悪夢に苦しんでいる。

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