第6話 六道の底 その三



 炎のなかにはたくさんの魂がいた。もう肉体はとっくに焼けてなくなっているのだろう。

 タルタロスの底から落とされた罪人たちだ。地獄の業火のなかで清められ、未来永劫、苦悶の声をあげ続ける。


(おれも、このままじゃ……)


 炎だが、熱いという感覚はなかった。

 ただ、意識がもうろうとしてくる。このまま目を閉じれば、きっと二度と覚めることはない混迷のなかへ落ちる。少なくとも、本柳龍郎としての記憶はすべて失われる。


 青蘭と出会い、愛しあったことも。離ればなれになって泣いたことも。ユニを抱きしめる青蘭の可愛らしい仕草も。浴室のなかで抱きあったことも。プリンを食べて幸せそうな青蘭の笑顔も。プラハの橋の上で別れを告げたことも。そのあと、天使となった青蘭と再会したことも。


 どの一つも、なくせない。

 大切な二人の記憶……。


(くそッ。おれは青蘭のことを忘れない。どんなことがあってもだ)


 けんめいに羽ばたき、少しだけ浮きあがる。

 ねっとりと炎が粘着質に龍郎をからめとり、ふたたび、渦のなかへ巻きこもうとする。それに抗いながら中心へと泳ぐ。翼が渦の下になり、飛ぶことはできそうにない。だから、泳いだ。


 渦の中心までは、まだ遠い……。



 ——…………ろう。しっかり……つかまれ! 龍郎!



 誰かの呼びかけでハッと我に返る。危ない。失神しかけていた。


「龍郎! 手を伸ばせ!」


 マルコシアスだ。

 炎の柱をよけながら、龍郎のすぐそばまで低空飛行している。


「マルコシアス!」


 精一杯、手を伸ばす。が、噴きあがる炎にジャマされ、マルコシアスは上昇してさける。


 もうダメだ。意識が遠くなる。青蘭の泣き顔がぼんやりと浮かんで消える。


 龍郎は炎の渦に沈んでいった。このまま、ここで終わるのか。青蘭を……愛する人を救うこともできずに……。


(ダメ……だ。青蘭を……青蘭を助ける……)


 ほとんど無意識に手を伸ばしていた。空を切る指さきが何かにあたる。つかんだのは本能だ。次の瞬間、いっきに体が浮上する。


「離すなよ! 龍郎!」


 龍郎はマルコシアスの後足をつかんでいた。


「浄化の湖を越えることができるのは、神の戦車たる我々スローンズだけだ」


 またたくまに、渦の中心が近づく。黒い焦点。渦のむこうから、波動が届く。硬質な音を放ちながら、それは脈拍にも似ていた。


 唄だ。唄が聞こえる。


「龍郎。行くぞ。六道だ」

「ああ」


 中心の闇のなかへ、マルコシアスはとびこむ。

 本来なら完全に浄化され、転生する瞬間にしか到達できない場所。


 このときの異様な感覚を、龍郎は長く忘れることができない。


 異次元から別の次元へ翔ぶときの空間が伸びていくような感じには、もうけっこうなれていた。が、これはそんな生やさしいものではない。上下左右のすべての方向に身体が伸び、そうかと思うと爪一枚ぶんに圧縮され、グルグルまわされながら、全身の細胞という細胞を、宇宙の始まりから終わりまでのすべての時間が透過していくかのような……。


 らせん状に青い炎がまわり続けるトンネルのなかを、ものすごい速さで通過していく。

 もう自分が自分だという認識を保つことが難しい。


 気がつくと、床の上に倒れていた。石畳の床だ。黒いみがかれた石は、もしかして黒瑪瑙オニキスだろうか?


 長い廊下が続いている。周囲はすべて、この黒い石でできた壁だ。建造物のなかということだろう。


「ここは……」

「…………」


 龍郎のかたわらにはマルコシアスがいた。が、表情が険しい。


「龍郎。油断するな。ここは……大変なところだ」

「どこなんだ?」

「…………」


 マルコシアスがしぶるのは、よほどのことだ。

 龍郎はふと耳につく音楽に心づいた。


「音楽が聞こえるな」

「気にとめてはいけない。捕まるぞ」

「えっ?」

「あれはトルネンブラの音楽だ」

「トルネンブラ?」


 おそらく、ここまで来れば、邪神に関係することだろう。調べてみたかったが、今回はスマホを持ってきていない。というより、そもそも電波の通じるところではないだろう。


 それにしても、黒瑪瑙の城。トルネンブラ。どこかで聞いたことがある。


「おれたちは六道を通ってきたんだよな? ここは六道のさきにあるところか?」

「そうだ」

「それって、つまり、万物の転生をつかさどるっていう場所だろう?」

「そう……」

「魂の生まれる場所に、こんな宮殿があるとは思わなかった」


 マルコシアスは黙りこんでいる。そのようすを見て、龍郎は気がついた。


「マルコシアス。もしかして、君はこの場所に以前、来たことがあるのか?」

「…………」


 そうだ。これまで度々、マルコシアスは忠告してきた。アスモデウスを救うことができるのは龍郎だけであると。神はアスモデウスを生贄に捧げたのだとか。


 それに、アスモデウスがノーデンスから受けた密命の内容を知っている。なぜなら、そのとき、マルコシアス自身がアスモデウスに随行したからだ。


(アスモデウスはたしか、ノーデンスの命を受けて、ある邪神を調べに行ったのだ、ということだった)


 とたんに背筋が凍りつく。

 思いだした。

 黒瑪瑙の城。トルネンブラ。

 それは邪神たちのなかでも外なる神と呼ばれる、とくに強力な邪神にかかわることではなかったか?


(アザトース——すべての邪神たちの王だ!)


 そう。六道のつながるさきには、アザトースがひそんでいると、以前、聞いたことがある。たしか、穂村からだ。


 つまり、こう結論づけざるを得ない。


「ここはアザトースの宮殿。そして、アスモデウスがノーデンスから受けた密命とは、アザトースとの接触だったんだ」




 了

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る