第6話 六道の底 その二



 ふわふわと薄闇にただよう幾千万の糸となり、繭は風に溶かされた。そのあとには、よこたわっている。


「アスモデウス!」


 かけよった龍郎は、抱きあげようとして、ギョッとした。

 邪神による汚染がどんな形で現れるのか、恐れていた。ルシファーのように触手だらけの醜悪な姿になるのではないかと。


 しかし、これは予想外だ。

 たしかに、姿は変わりはてた。長いプラチナブロンドの巻毛をなびかせ、純白の翼を輝かせたあのまぶしい天使は、もはやいない。


 だが、これが汚染だというのなら、いったい、汚染とはなんなのだろう?


 つややかな黒髪。

 なめらかな白い肌。

 この上なく麗しい甘美な美貌はそのままに、ほっそりと長い手足。少年とも少女ともとれるような、しなやかで典雅な体つき。


 だが、そのミルク色の肌は血の気がなく青ざめ、静脈が花模様のように浮かびあがっている。


 これは、青蘭だ。

 これまでいくども幻のなかで見た、

 まさか、ここでに出会うなんて思いもよらなかった。


(ずっとおれに助けを求めていたのは、君だったのか)


 ぼうぜんとしながらも、龍郎は青蘭を抱きおこした。


「青蘭。どうしたの? 大丈夫?」


 そっと首筋に手をあてる。脈拍が感じられない。やはり、この体は死体だ。でも、かすかに心臓の共鳴は残っている。


「青蘭? 死んだんじゃないよな? 目をさまして。青蘭」


 何度も呼びかけると、やっと、青蘭は目をあけた。白目の部分が血走っている。でも、瞳はあった。夢のなかで見たように眼球をなくしているわけではない。


「……龍郎さん?」

「ああ。おれだよ。君に会いに来たよ。青蘭」


 やっと会えた。

 が泣いているから、いつも青蘭はどんなときでも、真の意味では幸福でなかったのだ。これが、青蘭の根源。


「青蘭。おれにどうしてほしいの?」


 問いかけるものの、青蘭は答えない。ただひたすらに大地に顔を伏せて号泣する。


「青蘭。たのむよ。君に泣いてほしくないんだ。どうしたら君を救えるんだ?」

「誰にも救えない」

「そんなことはない。君のためなら、おれはなんだってする!」

「僕はもう……」


 青蘭の姿が急速に遠のく。


「待ってくれ! 青蘭!」

「龍郎さん……もう行かなくちゃ」

「ダメだ! 行くなッ。ずっといっしょにいたいんだ」


 幻のように薄れていく青蘭が、かすかにささやく。

「もし、ほんとにあなたが…………なら、僕のところまで来て。待ってる……から……」


 青蘭の姿は暗い深い穴のなかへ、ただようように消えていく。


 龍郎は追った。

 ゆりかごの奥がどこかの深淵へとつながっている。くだる。どこまでも落ちていく。

 ようやく、そこがどこなのかわかった。タルタロスだ。タルタロスのなかでもとくに深い辺土リンボ


 恋人は地獄の底の黄泉へと飲みこまれていく。

 深い深い果て。

 でも、今そこへ行かなければ二度と永遠に会えなくなる。それがわかっていた。


 あれは青蘭の魂だ。

 青蘭という存在の本質。

 その魂が絶望し、何もかもを終わりにしようとしている。

 そう察知した。


 ただただ穴のなかをかけていく。しまいには恐ろしい直角の竪穴になった。翼がなければ追っていくことすらできなかった。


 やがて、遠くのほうが青白く発光する。あの光には覚えがある。


(六道だ)


 魂が浄化の炎に焼かれ、輪廻転生の始まりの場所へと戻っていく。その道だ。


 鬼火のような青い火がごうごうと音を立てて燃えている。炎の湖だ。地獄の底の底。炎が渦巻く中心に、宇宙の深淵が見えている。そこが輪廻の世界へ通じている。


 青蘭の魂は躊躇ちゅうちょなく青白く燃える業火のなかへ吸いこまれていく。やがて渦巻きのまんなかで見えなくなった。


 龍郎は一瞬、ためらった。

 この炎のなかへとびこめば、生命ある者はすべて、現世の生を終え、来世へと旅立つ。浄化され、別の存在へと生まれ変わってしまうのだ。


(青蘭はこのさきへ行った。でも、もしも、おれが浄化され、転生してしまったら? 青蘭を忘れて別の存在になってしまうんじゃないか?)


 死が怖いわけじゃない。

 青蘭を忘却してしまうことが怖い。青蘭を忘れ、救うことができないんじゃないか。そう思うことがだ。


 とは言え、行かないわけにはいかない。このさきで、青蘭が待っている。


(自分を信じろと、穂村先生は言ってたっけ。そうだ。おれはやる。絶対に青蘭を助ける。そのためにはどんな犠牲をはらったっていい)


 思いきって、龍郎は崖下へとびだす。渦の中心へと飛んでいった。

 炎の柱が何度も噴きあがり、龍郎のわきをかすめる。右、左、次は真下から。そのたびに旋回し、きわどいところで炎をかわす。


 この炎に焼かれれば、いかに天使でもひとたまりもないだろう。今生の痕跡をすべて燃やしつくされ、無垢なる魂にされてしまう。


 それにしても六道は遠い。

 浄化の湖が延々と続いていた。崖の上から見たときは、中心までほんの百メートルかそこらに見えたのに、じっさいには数キロに渡っているようだ。


 燃えあがる炎が風を起こし、突風が龍郎のコントロールを奪う。乱気流に流されそうになるたび、必死に羽ばたき、バランスを整えた。


 ひときわ高いフレアが目前に立ちあがる。柱の直径が数十メートルもある。よけきれない。


 龍郎は炎の渦にのまれた——

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