第3話 天使の心臓 その四



 それは、まごうかたなき、マルコシアスだ。

 ソロモン七十二柱の魔王の一であり、かつては天界で座天使であった者。

 龍郎にとって、すでに盟友とも言える存在。


「マルコシアス! 生きていたのかッ?」


 かけよると、マルコシアスは龍郎などひと飲みにできるほどの口を大きくあけて笑った。


「うむ。生きていた」

「だって、おまえは青蘭とともに転生したんだとばかり……」

「そのつもりだった。が、気が変わった。まだ私の力が必要かもしれぬと思ったのでな」


 思わず、龍郎はマルコシアスの首にしがみつき、ふさふさの毛に顔をうずめた。


「ありがとう。ほんとに、ありがとう」


 マルコシアスにとっては、青蘭と転生し、アスモデウスの一部になることは至福だったはずだ。それをすててまで残ってくれた。その気持ちが嬉しかった。


 マルコシアスは頭をふって龍郎を離れさせると、背中に乗せていたをくわえて、さしだす。


 それが、龍郎にはひとめでわかった。

 痛ましく、変わり果てた姿。全身に負った火傷の傷痕。快楽の玉の力で本来の美貌を保っていた。その力が失われたから、傷ついた姿に戻ってしまったのだと。


「青蘭……」


 それは青蘭の遺体だった。

 アスモデウスが孵化したあとに残された、人としての青蘭の肉体。魂のぬけがらだ。


 龍郎は遺体を抱きしめた。強く。強く。すでに生きていないことはわかっているが、それでも愛しい人の体だ。


(青蘭。愛してるよ。君がどんな姿でも。この体で生きるのはつらかったね。君はやっと自由になれたんだ)


 だからこそ、今のアスモデウスを救わなければならないと、あらためて決心した。あの体を死なせたり、ましてや汚染させてはいけない。


 そこへ、穂村もやってくる。


「本柳くん。青蘭の心臓を使いなさい。彼も天使の心臓を持っていた」


 そうだ。青蘭も以前、快楽の玉を失ったとき、退治した悪魔の魔力を吸っていた。体が人造の天使だから、その心臓も天使のものだったのだ。


(青蘭と、一つになる)


 それが今さら叶うとは思ってもみなかった。青蘭の肉体は転生のさいに消滅したとばかり考えていたのだ。


(青蘭。一つになろう。おれたち)


 ほとばしる喜びがあふれた。

 愛する人と心臓を重ねるというのは、こんなにも幸福なことなのか。


 龍郎が一つになりたいと願っただけで、抱きしめ、重ねあった青蘭の胸から、赤い結晶体が龍郎のなかへすべりこんできた。



 ——龍郎さん。僕たち、一つだ。


 ——ああ。もう離さない。



 人としての龍郎は、このとき死んだ。

 二つの心臓が一つになったとき、自分の存在が急激に変わりゆくことをおぼろに認識した。世界から隔絶された丸い空間のなかに、青蘭と二人で包まれる。どこか遠くから歌声が聞こえた。とても……とても、心地よい。


 この感覚を青蘭も味わったのか。

 それはアスモデウスとミカエルの心臓だったから、過去の自分たちの恋がようやく成就したということか。


 そして今、龍郎が用いたのは、自分と青蘭の心臓。

 現在の恋が、かたく結ばれたのだ。永遠に引き裂かれることはない。


 だから、次は未来だ。

 アスモデウスと龍郎の未来を守るために、生まれ変わる。


 意識がとろとろと溶けていく。青蘭の微笑みがフラッシュバックし、いつしか、それも…………。


 龍郎にとっては、まるで百年も二百年も、いや、千年も経ったかのような長い時間。

 でも、それは見ている者たちには、ほんの一瞬だったようだ。


 気がつくと、殻を割って立っていた。

 もう人ではない。転生した。天使になったのだと実感する。自身に宿るパワーがこれまでの比ではない。なんと力強く、雄々しいのだろうか。この力を奪われ、人の体に閉じこめられて転生をくりかえしたアスモデウスは、それは絶望もするだろう。


 周囲には清美や穂村やガブリエルやマルコシアスがいて、龍郎のようすをうかがっていた。


「どうだね? 生まれ変わった気分は?」と、穂村がたずねる。

「上々です。記憶も失われていない」


 正確に言えば、幼少時のできごとは思いだせない。だが、青蘭に出会ってからのことは鮮明だ。大切な記憶が残ったことに安堵した。


「それにしても、おれ、どうなってます?」


 とりあえず、身長は高くなっている。今までより視線が高い。倍近くだ。それに翼もあるようだ。


「なんというか、君だよ」

「そうですか?」


 鏡をのぞいてみたい気もしたが、今は一秒でも早く天界へ行きたい。ただ、家屋のガラス障子に反射する姿は、あまり以前と変わっているようではなかった。髪が銀色になっている。瞳の色もちょっと淡いようだが、それだけだ。あとは背丈が伸び、翼がある。顔は人間の龍郎と大差ない。


「えーと、とにかく、行ってきます」

「ああ。気をつけてな」

「ご無事で帰ってきてくださいねぇー」

 穂村と清美が手をふっている。


「では、私が案内してやろう」

 しょうがなさそうに、ガブリエルが宣言する。

「私も行くぞ」と、マルコシアス。


「よし。行こう」


 天界へ——

 アスモデウスが待っている。




 了

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