第3話 天使の心臓 その三



 すぐに決断できる問題ではなかった。

 天使になるということは、人間ではなくなること。人間をすてる。別の存在になる。

 それに、ミカエルと一つになりたいと、しきりに言っていた青蘭とではなく、ガブリエルと一つになる。それは青蘭への裏切りではないだろうか?

 天使にとっては、心臓を重ねるのは究極の愛の形のようだから。


「すぐには……決められないよ」

「まあ、そうだろうな。しかし、決断は急いだほうがいい。アスモデウスが心配ならば」

「わかってる」

「今夜の月がもっとも高くあがるまでに」


 そう言われて、龍郎は自分の部屋にこもった。一人でじっくりと考えたかったのだ。

 今日の月の出は夕方六時すぎ。南中するのは夜の十一時半ごろだ。下弦の月だ。それまでには意思を決定しなければならない。


 人間でなくなることは、しかたない。今の龍郎としての記憶が残るかどうかは不安だ。でも、このまま、ここで何もせずにいて、もしも、アスモデウスが死んだら後悔しきれない。アスモデウスは龍郎をかばって、あんなことになったというのに。


(おれのせいだ。あのとき、もっと用心しとくんだった。もしも、あのときに戻れるなら……)


 青蘭がいなくなってから、寝るとき以外、使わなくなっていた自室。八畳の和室で、龍郎は座敷からつれてきたユニコーンのぬいぐるみに語りかける。


「どう思う? ユニ。おれが別の誰かと一つになったら、青蘭は怒ると思う? 『うん。青蘭は怒るよ』だよな。あんなにヤキモチ妬きだったんだもんな」


 自問自答して、龍郎は嘆息した。ユニを離して座椅子によこたわる。

 その日は一日、頭をかかえていた。だが、無常に時は経つ。


 夜になっても、まだ解決しない。

 とにかく、アスモデウスを見殺しにすることだけはできない。どうにかして、龍郎が天使になる以外に道がないことはわかっている。ただ、その方法をどうするかだ。


 最悪、アスモデウスの命を救うためだ。怒られてもいいから、ガブリエルに頼みこんで天使になるしかない。


(あれ? でもそれだと、おれじゃなくて、ガブリエルが再生される場合だってあるんだよな? ガブリエルはアスモデウスを嫌ってるし、助けに行ってくれるだろうか?)


 確率は二分の一だ。フィフティフィフティ。これは命を代償にするには、なかなかの賭けだ。


 龍郎がウンウンうなっていると、外の廊下を誰かが近づいてくる。そろりと障子がひらいた。月明かりが庭から入りこみ、ガブリエルのおもてが、やや青白い光をおびてのぞく。


「龍郎。決まったか?」

「まだ。もうちょっと待って」


 置き時計を見ると、まだ十時半だ。あと一時間は考えていられる。いや、アスモデウスのためには一刻も早いほうがいいのだが。


 すると、ガブリエルがするすると室内に入ってきた。障子をあけはなしたままなので、月明かりに照らされた庭がよく見える。


 ガブリエルは龍郎のとなりに腰かけてくる。以前はよくこうして、青蘭とならんで庭をながめたものだ。


 思い出にふけっていると、ガブリエルがつぶやいた。


「龍郎。私ではダメか?」

「……ダメとか、そういうんじゃないんだ。君のことは好きだよ。でも、それは……」


 言いよどむと、ガブリエルはさみしげな笑みを見せる。


「わかっている。君の心が別の誰かを見ていてもよかったんだ。君と一つになれるなら」

「……すまない」

「つがいにならなくてもいい。君がためらうのなら、私の心臓を君にあげよう。そうすれば、確実に君の魂が再生される。問題はなくなる。そうではないか?」


 龍郎はおどろいた。


「待ってくれ。そんなことしたら、君は……」

「ああ。私は死ぬ。それでもいい。君と一つになりたいんだ」


 ガブリエルを犠牲にしてまで転生する。それは龍郎の性分ではなかった。


「おれは青蘭を——アスモデウスを愛してるよ。死なせたくない。でも、だからと言って、そのために君の命を犠牲にしていいとは思わない。ガブリエル。君だって、大切な命だ。君の心臓を待ってくれている人は必ずいるはずだ。やけになるな。生きるんだ」


 龍郎が急に熱弁したせいか、ガブリエルがあぜんとしている。この状況でそんなことを言いだすとは思っていなかったのだろう。


 そして、ガブリエルは笑いだした。

「まったく、君らしい。ほんとに変わらないな。君は。そんな君だから、惹かれるんだ」


 ガブリエルは指さきでまなじりをぬぐう。その涙は単に笑いすぎたためなのか。それとも、別の感情のせいか。


「いいよ。おれ、NASAから宇宙服買うよ。何しろ、一千億も持ってるから」

「そんな時間はない。急がなければ、あのようすでは、アスモデウスの容態はかなり深刻だ。今ごろ、どうなっているか」


 困りはてていると、そのとき、にぎやかに清美が乱入がしてきた。


「安心してください! ついさっき、夢を見ました。彼が帰ってきます!」

「えッ? 清美さん? 彼って?」


 彼に該当する者をさっぱり思いつかない。

 しかし、清美は自信満々だ。清美の夢のお告げは絶対だから、ウソではないはずだが。


 月が南の空のもっとも高いところへ近づきつつある。いびつに笑った半月を背に、清美が微笑する。なにげなく見ていた月に、小さな小さな黒い点があった。


(あれ、なんだろう? 月にホクロが……?)


 不審に思い、思わず凝視してしまう。ながめているうちに、その点はじょじょに大きくなってきた。そして、ただの丸い点ではなく、もっと複雑な形を持ったものに見えてくる。大きな翼を持つ何かだ。


(鳥? それとも、天使?)


 何かがものすごい速さで飛んでくる。

 やがて、それは翼ある巨大な狼の姿になった。


「龍郎! 今、戻った!」

「マルコシアス!」


 死んだはずのマルコシアスだ。

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