第18話 対峙を決めるとき
(彼氏って…あの?)
思わず僕は、総毛立った。今、本当に通りすがる一瞬しか見えなかったが、確かに亜里沙くらいの年齢の若い男だ。サマージャケットに黒のスキニーパンツ。Tシャツは無地、黒いしっかりとしたフレームの眼鏡をかけていた。
その気になって探したら、辺りにいくらでもいそうな夏休みの大学生だ。
「行っちゃいました…?」
亜里沙は僕の首筋にすがりついている。いい加減にしろと言いたいところだったが、その細い肩の震えから切迫した息遣いが感じられて僕は、言葉に詰まった。
「このまま帰ろう」
僕は即座に言った。当然ここに来る予定の亜里沙を知っているなら、足を運ばないはずがない。向こうだって人目のあるところで無茶はしないと思うが、とにかく、早めに立ち去るのが無難と言うところだろう。
「いやですよ」
しかし亜里沙は、
「あたしの携帯、持ってきてるかも知れないんです」
「携帯?」
亜里沙は、スマホのアプリで会話を録音したのだ、と言う。その上であの男に、自分たちがしたことを問い質したのだ。自分に身の危険が及ぶことを予想して、万が一のためにとっさに採った防衛策だった。
「そんなのとっくに、消されてるかも知れないぞ?」
僕は、あえて残酷なことを言った。もう自分で忘れているかも知れないが、亜里沙は、命からがら逃げて来たのだ。僕と出会ったときは、そんな感じだった。あんな大雨のさなかで。ビールの空き瓶一本、握りしめて。何があったかは知らないが、すすんでまた同じ目に遭おうとしているのを、僕が止めないわけにはいかない。
「どうしても、だめですか…?」
僕は言葉を喪った。そこまで言われると、こっちは弱い。考えてみれば自分のプライバシーがみんな入った携帯を喪う、と言うことは、亜里沙がわざわざ危ない橋を渡って手に入れた何かよりも、あとあと確実に身に迫る危険を放置することになる、とも言える。
「…一緒に、様子をうかがってくれるだけでもいいんです」
亜里沙は思いつめた声で、僕に
「分かったよ。でも、暴力沙汰はなしだぞ?」
こっちは地元だ。いざ警察沙汰になったら、職場に迷惑が掛かる、と言う最悪の事態に陥る羽目になる。
「芦田さんに、ご迷惑はかけません」
亜里沙は、確信を込めて頷いた。絶対にこいつ今、よく考えないで答えている。
(でも相手だって無茶な真似は、しないだろう)
何しろ、公共のスペースだ。しかも騒がしいことはとかく目立つ美術館で、滅多なことは起こったりしないはずだ。
僕は慎重に辺りをうかがった。今の男は一人で、続いてくる奴や誰かが待っている様子もなさそうだ。亜里沙の話が真実なら、人目をはばかりたいのは、むしろ向こうの方だろう。
とか言ってる間に亜里沙の方はもう、動き出している。さっき満足してほくほく顔で出てきたばかりなのに、出入り口から真剣な顔でUターンしてきたから、学芸員さんびっくりしているだろう。僕はすいません、中に忘れ物をしましたと、言い訳をしながらついていった。まあ、嘘ではない。携帯を忘れてきたことは、事実である。
亜里沙が言った男は、チケットを買って展示をうろうろしている。学芸員に誘導されて、順路を歩いているものの、落ち着かない様子だった。
一応、絵を見るふりはするのだが、上の空と言った感じで、せわしなくフロアを移動している。
改めてみると、特徴がないのが特徴と言う感じの若い男だ。背は高いが色白でひょろっとしている。なで肩で、顔の皮が薄い。目鼻立ちの印象がまろやかで薄く、中性的と言っていい顔立ちだ。
(レイプされそうになった、か…)
亜里沙の主張を今は、そのまま信じるしかないが、こんな大人しそうな男が、と言う印象をぬぐえない。
もちろんじゃあ、猛々しい風貌の男なら皆、女性に乱暴するのかと言えばそうとは言えない。そう言えばむしろ一見大人しい男の方が、いざと言うときの爆発力は高かったりする。
あの夜。
亜里沙は、ほとんど命からがら飛び出したのだろう。雨の中だ。僕は、びしょびしょに濡れたあのカールスバーグの空き瓶のことを思い出す。
「…どうやら、一人みたいですね」
亜里沙が戻ってきて、
「あのとき、誰か他にいたのか?」
無言で亜里沙は肯いた。彼氏と話をするうち、なんと亜里沙は応援を呼ばれたと言うのだ。あの日、事件に係わっていた連中も薄々感づいていて、近くに待機していたのだそうな。
本格的な身の危険を察して亜里沙は、脱出を図った。それでビール瓶を持ってあの土砂降りの中、出てきたわけが分かった。
「手分けしてたぶん、捜しているんですよ。さしで話をするなら、今しかないです」
亜里沙は意を決したように、言った。いや、それはちょっと、走りすぎてないか。
「一人のふりをして話しかけてみます。何かあったら、出てきてください」
「おいっ…」
こうなると亜里沙は聞かない。変に度胸があるから困る。
(警察に行けばいいのに…)
僕は内心舌打ちしたが、亜里沙を止められるものでもない。もともと存在自体が危なっかしいやつなのだ。念のため僕は辺りをうかがってから後についた。肝心の相手は展示の合間の休憩スペースに入って、せわしなげにケントのメンソールの箱から煙草を取り出したところだった。
(物陰に隠れるんだったな)
身を潜めたのは階段わきの、観葉植物の鉢があるスペースだ。
「
亜里沙は、硬い声で男の名前を呼んだ。佐伯と呼ばれた男は、明らかに血相を変えた。
「亜里沙」
「こっちへ来ない!」
駆け寄らんばかりだった相手を、亜里沙は留めた。亜里沙の声は震えてはいなかったが、内心怖くてたまらなかったと思う。
「持ってるでしょ。…まず、あたしの携帯を返して」
「…分かった」
佐伯は悲しそうに顔を歪めたが、難色を示すことはせず、ただいたましげな表情で首を振った。
「悪かったって。本当に謝る。…ずっと、心配してたんだよ」
「余計な話は、もうしない。あたしはただ、持ってるものを返して欲しいだけ」
亜里沙は、にべもなかった。佐伯は、打ちのめされたような表情になった。
「他に誰かいる?」
佐伯はあわててかぶりを振った。
「来てない。…亜里沙は勘違いしたんだと思うけど、あいつらこっちに来てたわけじゃないんだ」
「でも、あたしが何を言い出したのか教えろ、って言われたんでしょ?」
佐伯は言葉もなかった。
「許してもらえるとは思ってない。実際、あんなことになって…そうなるなんて思わなかったけど、手を貸したのは事実だから…でも、おれの話も少し…ほんの少しだけでいいから、聞いて欲しいんだ」
「千奈を直接、傷つけたわけじゃない、って言う話のことでしょ?」
突き刺すように亜里沙は言った。確かに起こってしまったことを考えれば、主犯であろうと従犯であろうと、罪は同じだ。
「警察に行って、ちゃんと話すよ。だから、もう一度、一緒にうちに帰って」
「携帯を返して」
遮るように、亜里沙が言った。体温を持たないその眼差しと口調をみて、佐伯も、諦めたようだ。分かった、とごく小さな声で言ってから、亜里沙のものらしきスマホを取り出した。だが往生際が悪い。
「なあ、頼むから」
「うるさいな」
携帯を引っ手繰った亜里沙の手首を、男が掴もうとした時だ。
さりげなく僕は、隠れていた場所から出てきた。通りすがりだと思ったか、佐伯はあわてて手を引っ込めかけた。亜里沙はその手を追っ払うと、さっさと僕の後ろに隠れた。おい。
「誰だよ、そいつ…」
僕が関係者だと分かってから、その男の声色が変わった。巻き込まれた。
「誰でもいいだろ」
もうしょうがない。僕は強気に出ることにした。
「話は聞いてるし、今、盗んだと認めた携帯を返したろ。ずっと見てたからな。このまま警察呼んでもいいんだぞ」
警察、と言う単語に、佐伯はびくりと反応した。
「大人しく帰れよ」
僕は低い声を出して言った。
「お前が今、本当に亜里沙に許してもらいたい、と思ってるなら」
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